四国八十八ヶ所 自転車遍路(第四弾)

カテゴリ
 BICYCLE
開催日
2005年09月17日() ~ 2005年09月22日()

六日目(2005/ 9/22)

目覚め

050922_0556私が目覚めたのは、朝の5時半頃。あたりは、まだ暗く、当然のことながらアホの末はまだ眠っていた。午前6時頃になると、日が昇り周りが明るくなったので、お遍路での習慣である日記を書く。これを書くのが終わりかけた午前7時前くらいに、ようやくアホの末が起きた。

050922_0655朝食をとってから、周りを見回すと、西の方向に屋島が見える。このことで、私達が野宿をした場所は、前日の最後に納経をした屋島寺のある屋島の対面にあることが分かった。見た感じでは、多分、屋島の高さは、この場所と同じくらい。登るのに苦労したから、ある程度の高さまで来ていることは実感していたが、こんなに高いところまで登ってきていることには驚いた。

この日は、私達の四国でのお遍路が終わる”結願”の日。結願を間近に控え、何か込み上げてくるものがあっても良いもの。しかし、私達にはそのようなものはなかった。思うのは、”結願したら、何か思うことがあるのかも?”ぐらいのもの。

四国で過ごす最後の朝になるのに、不思議なくらい何も変わらず、静かな朝であった。

出発

050922_0805仕度を終えた私達は、午前8時過ぎに出発。山を下って少し行くと、すぐに八栗寺行きのケーブルカー乗り場に到着した。

050922_0806地図には、屋島寺から次の第85番八栗寺までは、約8㎞くらいあると、書かれていたのだが、ケーブルカー乗り場からは1㎞ぐらいの距離であると標識には記されていた。どうやら私達は、知らぬ間に八栗寺の近くへも来ていたようだった。

また、ケーブルカー乗り場には、前々日の第76番金倉寺や第78番郷照寺で会った若者のチャリンコが置かれてあった。どうやら若者は、ケーブルカーに乗って八栗寺まで行ったようである。「こいつ楽しやがって!」と、アホの末と言い合うと、若者との再会を楽しみに、私達はケーブルカーに乗ることなく、自分の足で八栗寺へ向かった。

050922_0811ケーブルカー乗り場の横の鳥居をくぐると、いきなりの坂。それもかなりの急勾配。私達は、完全に目覚めてない体にムチ打って、しばらくは上り続けた。

050922_0818しかし、鳥居をくぐってから400mも行くと、更に傾斜が急になったので、とてもマウンテンバイクに乗ったまま登り続けることはできなくなった。よって、速やかにマウンテンバイクから降り、歩き始めたわけだが、ここの傾斜はこれまでで3本の指に入るくらいの急傾斜であったために、登るのは困難を極めた。

傾斜は、おそらく30°ぐらいあるのではないだろうか。重力で後ろに強力に引っ張られるため、気を抜いて足の力を緩めようものなら、後ろに転げ落ちそうになる。こんな極端な急傾斜では、体力に自信の無いお遍路さんは、登ることは出来ない。

ふと、”俺達もケーブルカーに乗った方が良かったかな?”という弱気な思いが胸をよぎる。ただ、救われたのは、この急傾斜が、約500mほどの短かい距離だったということ。これが、何㎞も続くようであれば、何度も休憩をしなければならなかったであろう。

おかげで、長い間苦しむことなく、八栗寺に到着できたのであった。

第85番 八栗寺

050922_0832資料によると、入唐前の弘法大師が、八つの焼き栗を埋めて旅の無事を祈願したということに名前が由来する八栗寺。その真偽のほどはともかく、何とも安易な名前の付け方の寺である。入口には山門、境内には多宝塔、古い本堂、大師堂、石仏群、色鮮やかな緑等、私達が四国八十八ヶ寺に求めるものの殆どが、ここにはあった。

山門をくぐり、境内の中に若者を探すが、どこにもいない。どうやら、私達と行き違いになったらしかった。ケーブルカーでここまで来たことをネタにからかってやろうと思っていたから、少し残念ではあったが、次の寺では間違いなく再会できるであろうと思い、すぐに気落ちを切り替えた。

050922_0855ゆっくりでもなく、焦ってでもなく、私達はいつものペースで納経を行う。納経を行っている時に、ふと意識をアホの末にやると、お経帳を見ながらも懸命にお経を唱えている。結局、ここへ来るまで170回(本堂と大師堂の2回×85番目の寺)も同じお経を唱えながらも、暗誦できないのは哀れなことだが、信仰心の欠片もないこいつが、懸命にお経を唱えるということは驚きであった。

こいつより少しだけ信仰心があって、暗誦できるものだから、いつもいい加減にお経を唱えている私と比べたら、”どっちがマシな人間なのだろう?”と、つい考えてしまう。まあ、レベルの低い者同士を比べても意味はないのだが。

しかし、この時、こいつを見習って結願の時だけは、これまでの感謝の意を込めて、本気で納経しようと考えていた。納経を終えたのが午前9時前。残りの寺数と距離を考えると、ここでゆっくりする時間の余裕はあるように思えた。だが、途中でどのようなハプニングがあるかは分からない。とにかくこの日で、絶対に結願したいと考えていたので、急いで寺を後にした。

道中

050922_0913第86番支度寺までは約7㎞の距離。山を下って、麓の街まで下りると、後はひたすら街中を走る。とても楽チンな道程ではあるが、綺麗な景色が目に映らないので、走っていて面白くはない。街中は、田舎町や一部の歴史的な建造物などが残るところを除いては、面白くない。これまでに、魅力を感じたのは、数少ない。街中を走っていて有難いと思うのは、飯を食う時や買出しをする時だけである。

それでも、この日でお遍路も終わりと思うと、コンクリートのビルの立ち並ぶ単調な景色も、いつもと変わって見えたのである。 この”最後”という言葉は、ものの見方を変える魔力を持っているように思えた。

第86番 支度寺

050922_0924私達が第86番支度寺に到着したのは、八栗寺を出発してから30分後のことであった。  ここでも、一足先に来ているはずの若者を探したのだが、若者の姿を見付けるどころか、境内には私達以外に誰もいなかった。そのためか、境内は非常に静かであり、時間がゆっくり流れているように感じた。

ここまでは、おそらく同じ道を通っているはずだから、若者は既にこの寺を後にしたに違いなかった。別に、とりたててこいつと再会したいわけではないのだが、自分達のすぐ先を行っていると思うと、どうしても追い付きたくなるのだ。それと、もしかしたら、もう一度話をしてみたかったというのもあるのかもしれない。

納経を終えた私達は何も思いを残すことなく、すぐに寺を後にした。この時の私達の頭の中には、結願のことはなく、次の第87番長尾寺でどうにかこいつに追い付いてやろうということだけだった。

道中

050922_1008次の第87番長尾寺までの距離は約7㎞。これぐらいの距離があれば、若者との距離は詰められるはずと思いながらも、念のために少しだけペースを上げた。いよいよ次の寺へ行けば、結願にリーチがかかる。

アホの末の後ろ姿を見ながら、”こいつが「お遍路をしよう!」と言わなければ、俺はここにはおらんかったな。””たまには、こいつもええ事を思いつくな。”と、しみじみ考える。 そして、いつも私に迷惑ばかりかけているこいつに対して、珍しく感謝の気持ちが湧き上がったのだった。

クライマックスが近づくと、感傷的になるからか、それとも気持ちが高ぶって思考が誤作動するからだろうか?悔しいが、それは純粋な気持ちだった。

第87番 長尾寺

050922_1013私達が寺に到着すると、若者が山門から寺に入ろうとしていた。どうやら予想どおり追い付くことが出来たようであった。私達はすぐに山門をくぐり、若者を捕まえた。すぐにでも話をしようかとも思ったが、それは納経を終えてからにすることにした。

驚いたことに、この寺にも私達以外には、おばちゃんが一人しかいなかった。人がいなくて周りが静かだからか、先ほどの寺よりも広い境内に私達の読経する声が響き渡る。

050922_1013_00納経をしながら、”何で今日は、どこの寺も人がいないんだろう?”と、考える。たまたまこの日がお遍路さんが少ない日だったかもしれないのだが、こんなのはこれまでで初めてであった。これまでは、前日の屋島寺のように、夕方に寺に行かない限り、人がいないなんてことはなかったから、何かの力が作用しているのかとも思った。

だが、実際にそんなことがあるはずもなく、おかげで私達はのびのびと集中して納経出来たのである。

納経を終えてから私達は若者と、冷たいものを飲みながら話をした。若者は、大阪の堺市の出身で、実家は設計事務所を営んでいるとのこと。故に跡を継ぐために札幌市の大学で建築を専攻しているらしい。若者は、私達に「最後の寺には、一緒に行きませんか?」と、言ってきた。

この若者には何度も再会しており、愛着も感じつつあったので、”それも良いかな。”と、思った。しかし、この先には、山中の険しい遍路道があるであろうことが分かっており、最後まで遍路道を通ることを貫くつもりでいたので、若者の申し出を泣く泣く断った。

そして、この時、アホの末と私の間で、結願したらどうするかという言い争いが勃発した。

どうしても、「高野山へ行こう!」というアホの末に対して、「予定どおり次のゴールデンウィークにしよう!」という私。お互いに譲らず、話は平行線をたどった。そんな私達の言い争いを鎮めてくれたのが若者であった。「結願してから、台風の進路を見て決められたどうですか?」と、言ってくれたのである。その言葉を聞いて、「そうや、最初からそのつもりやったやないか!」と、私達。

若者のおかげで、すぐに言い争いは終わり、無駄な時間をこれに費やすことは免れた。私達は、若者と今生のお別れをし、若者より先に寺を発った。お遍路の最後の最後に若者と良い縁があったことを感謝しつつ、また若者の無事を祈りながら。

再燃

寺を発ってから、近くの喫茶店に入った。時刻はこの時、まだ午前11時過ぎであったが、ここから最後の大窪寺までは17~18㎞も山の中に入って行くようになるため、食事をする店が無いであろうことを考慮して、念には念を入れて、早めに食っておくことにしたのだ。

しかし、腰を落ち着けたためか、若者にせっかく鎮めてもらった”高野山へ行く、行かない。”の言い争いが、再燃する。お互いに言い争うのは、これが2回目とあって多少語気が荒くなる。「行こうっちゃあやっ!」、「また次でええやないかい!」と、文字にしてもその熱さは分からないとは思うが、二人ともかなりエキサイトしていた。

ただ、それも注文したものが運ばれてくるまでのこと。食っている間は、食うことに専念するために停戦し、食い終わったらお互いに空腹が解消されて、気持ちが穏やかになったからか、「結願してから考えようか!」ということになった。

前日、このことを話し合った時から、「結願してから考えよう!」と言っていたのに、先ほども若者からたしなめられて、再度納得したはずなのに、それから10分と経たないうちにまた同じことを繰り返すとは。愚かな奴ら。

出発~道の駅

050922_1147わずかばかりのランチタイムを終えた私達は、すぐに気持ちを切り替えて大窪寺に向けて出発した。

時刻は午前11時半。納経所が閉まるまでは、あと5時間以上を残している。故に気持ちの余裕はあった。まずは、山に向かって平坦な道を走って行く。それからすぐに脇道に入り、また本道へ合流。この辺りから、どんどん登っていくようになる。

15分ほど登り続けると、道の駅が現れたので、この先で水分補給するための飲み物を購入するために、そこへ寄った。それにしても、この日はこれまでになく暑かった。出発してから、そんなに時間は経ってないし、それほど激しい運動をしたわけでもなかったのだが、二人とも滝のように汗をかいていた。

050922_1752この道の駅”ながお”から、大窪寺までは3つのルートがある。一つは遍路道を通らないで、舗装道を行くルート。もう一つは、比較的楽な遍路道を行くルート。最後は、難所がある遍路道を行くルート。

舗装道を通るルートは、遍路道を通らないから問題外として、楽な遍路道か難所のある遍路道か、どちらを行くかで迷うことはなかった。”どちらも遍路道であることが間違いないのなら、楽な方を行くべきである。”と、二人の意見は一致していたからだ。

これは、妥協ではない。いかに楽をして、いかに早く現地へ着くということを考えれば、当然の選択であった。

遍路道

050922_1219道の駅”ながお”前の道、ダムを左手に望みながら、ひたすら登って行く。5分も登ると、左折し、いよいよ道が狭くなった。そこから10分も走ると、舗装道が終わり、非舗装の遍路道が始まる。非舗装の遍路道に入った途端、私達は潔くマウンテンバイクを降りた。傾斜は大したことないが、道幅が狭く、足元が凸凹していて走り難いが故のことだった。

しばらくは川沿いの細い道を歩いて行く。遊歩道といった感じの道であり、眺めが良いためか、歩くのはさほど苦にならない。しかし、この川沿いの道を抜けたところからいつもの奴が始まる。第60番横峯寺へ行く時に通ったような道なき道である。苛酷な道であるがために、かく汗も苦しさも倍になったのだが、これが最後と思うと不思議と力が出るもの。いつもなら苦になる難所も、この時に限っては、そうはならなかった。

私達は、すぐ目の前にある結願を見据えるが故に、初めて”苦しい”と思う気持ちを傍らに置くことが出来たのである。

ミスチョイス

050922_13051時間ほどで、難所を抜け、”難所も終わったから、ここからは楽が出来るであろう。”と、タカを括った私達の前に山が現れた。山を登って来たのだから、山が現れたと表現するのはおかしいかもしれない。登るべき急傾斜が現れたと表現した方が適当であろう。登り口には、”女体山山頂まで一一三八米”と、表示された石柱が立っており、それを見ると、”それだけも登らないといかんのか!”と思うと共に一つの疑問が頭をよぎった。

050922_1342“俺達って楽な遍路道のルートを選んだはずなのだが、山を越えるということは、どう考えても難所のある遍路道のルートを知らぬ間に選んでしまったのではないか?”と。そう思うと、遍路地図で自分達のルートを確かめずにはいられなくなり、先を行くアホの末を呼び止めて、遍路地図を広げた。

地図を見たところ、楽な遍路道の方は、女体山を越えるようにはなってないが、難所のある遍路道は女体山を越えて大窪寺へ行くようになっている。私達が進んでいるルートが、難所のある遍路道のルートであることは、一目瞭然だった。

楽な方へ行くはずが、いつの間にハードな方を選らんでしまったのだろう?遍路地図でルートをきちんと確認したはずなのにだ。 ここまで来た以上、もう戻るわけにもいかず、進むしかないのだが、合点がいかなかった。 これも神様が、「若いくせに楽をするな!」と、言っているのだろうか? 神様は、最後の最後まで楽をさせてくれない。

050922_1343選択ミスをしたことを悔やむのも時間の無駄なので、私達は目の前の急傾斜を登り始めた。

まず最初は、ありきたりの凸凹した道。傾斜は急だが、これまでに何度も経験済みのものなので、何事もなくこなせる。しかし、それも登り出してから10分もすると終わることになる。それからは、道らしい道がなくなり、藪の中に入って行くようになったのだ。

思わず目を疑ったが、道の流れから行くと、藪の中に入って行くのは間違いなかった。仕方なく、私達は藪の中に入って行く。藪の中は、尖った木々の枝や草葉の棘がチクチクして気分はよろしくない。おまけに蚊や蚋、毛虫などの毒虫も多い。なるべく早くここを抜けたいと思うも、残念ながらこの不快な空間は、すぐには終わらなかった。

集中

“不快である”という以外に、藪の中ではもう一つよろしくないことがあった。前方や足元が見にくいのである。

周りは全て藪だから、油断していると、進むべき方向が分からなくなるのだ。故に、私達は、時々立ち止まって、人が歩いた跡や藪を?き分けた跡を見て、進むべき方向を確認した。藪の中で道を見失い、迷うことだけにはなりたくなかったので、とにかく集中した。

藪に入って20分以上経った頃であろうか。ようやく視界が開け、不快な藪とはお別れをすることが出来た。その時の私達の体は、引っ掻き傷やクモの巣だらけ。おまけに集中し過ぎて気疲れもしていた。

これで、今度こそは少しは楽が出来ると思った。だが、この後すぐに、これまでで最強ともいえる難所が控えていたのである。

岩山

藪を抜けた私達を待っていたのは、岩山であった。予想外のことに、アホの末と二人で、「何で岩山があるんや?」と、叫んだ。私達は、藪を抜ければ、とりあえずは道らしい道が現れると予想していたからだ。ここまでは、念入りに進む方向を確認して来たのだから、おそらく進むべき方向を間違えてはなかった。だが、目の前に聳える岩山を見ると、違う場所に迷い込んだのではないかと、不安にもなる。定番の遍路道の標識でもあれば、”間違いない!”と、安心出来るのだが、そんなものは急傾斜を登り始めた時以来、全く無かった。

道らしい道が頂上まで続いていれば、無くても問題はない。だが、途中で道が無くなるのであれば、要所要所に設置しておいてもらいたいもの。「不親切やのぅ~。」と、愚痴りながらも、ふと思った。地図上では、この女体山を越えたところに大窪寺があるようになっている。と、いうことは、とにかく女体山を登りきってしまえば、後はどうにでもなるのではないかと。

そう思うと、この急傾斜を登り始める時にあった”女体山頂上まで~米”という標識は、”どのようにしようが、とにかく頂上まで行けよ!”と、いう意味が込められているであろうことをこの時初めて知った。投げっ放しジャーマンスープレックスのように突き放されているような感じはするものの、何となく”愛”を感じ、私達は”何があろうと、行くしかない!”と、考えを改めた。

登る

050922_1412目の前にあるのは、ゴツゴツした岩が剥き出した岩山。それもかなりの傾斜があり、どう登っていくかは、自分で考えるしかない。

手ぶらで登っていくのも大変なのに、私達はマウンテンバイクを背負って登らなければならない。手を使わなければ登れない岩山だったので、片手が使えないということは大きなハンデであった。

そこで私達は、登ることを始める前にしっかりと岩山を眺めて、まずどこまで登って行くかを決め、そこまでどう登って行くかというルート取りをした。そのルートを頭にしっかりと叩き込んだところで、いよいよ私達は岩山を登り始める。思うは易し、行うは難しという言葉通り、足を掛ける箇所を間違って足は滑りそうになるわ、バランスを崩してマウンテンバイクを下に落としそうになるわで、岩山を登るのは困難を極めた。

おまけに、時々下方に視線をやると、高さで足がすくむ。そうなると、恐怖感で体が強張り、安全に登ることに支障を来たすようになる。そういう時は、登ることを止め、少し休憩するなり、深呼吸をするなりして、心に生じた恐怖感を鎮めようと努めた。

私達は、少し登っては止まることを繰り返し、目標であるところまで登ったら、そこで次の目標を決め、そこまでのルート取りをするということを繰り返す。地味な作業ながらも、我が身の安全のため、私達はその繰り返しを確実に行った。おかげで、時間はかかりながらも、何事もなく着実に岩山を登って行くことが出来たのである。

岩壁

050922_1414慎重に”登る”という作業を進めていく私達だったが、やはりというか、そのまま最後まで行かせてくれるはずはなかった。しばらく登ると現れたのである。ほぼ垂直に近い、切立った岩壁が。

さすがに、この岩壁をマウンテンバイクを担いで登るのは無理。両手を使って登るにしても、滑落の危険がある。ここまでビビりながら何とか頑張って登って来た私達も、さすがにこの岩壁を見て、怯まずにはおれなかった。滑落すれば、ケガどころか命を落とす危険だってある。これまで数々の難所を経験してきたが、それらは体力的、精神的にキツいもので、命を失う危険のあるものは皆無だった。そういう意味で、この最後の難所は、これまでの難所とは次元の違う過去最強と言えるものだった。

だが、最強の難所を前にして怯みながらも、私達に選択肢は残されてなかった。ここまで登って来た以上、大窪寺まで行かなければならない以上、命を失う危険があっても目の前の岩壁を登るしかないのである。そのため、岩壁を登るための決心はすぐについた。そうなると、次はこの岩壁をいかにして安全に登るかということであった。

マジマジと岩壁を眺めてみると、垂直に近い切立った崖ではあるが、足をかける箇所も休憩出来るような箇所もあった。

そこで私達が考えたのが、”一人がマウンテンバイクを置いて、手ぶらの状態でお互いがマウンテンバイクの受け渡しが出来る範囲のところまで登り、下にいる者が2台のマウンテンバイクを上の者に渡す。次に、下の者は先に登った者の更に上へ登り、今度は先に登った者から2台のマウンテンバイクを受け取る。”と、いうようなピストン輸送を繰り返して登って行くやり方であった。

これなら、両手を使って登れるし、マウンテンバイクも持って行くことが出来る。まあ、この方法とて安全面の保障は無いが、どう考えてもこの方法しか思いつかなかったのである。

岩壁を登る目処がついたので、後は無事を祈るだけであった。

登る

050922_1418まず最初に私よりも体重が軽くて、動きの俊敏なアホの末が先に行く。これまで登って来たよりも更に慎重にアホの末は登って行く。下から見ていると、落ちやしないかとハラハラするのだが、アホの末はどうにか無事に5mほど登りきった。ここで、私が下からマウンテンバイクを思いっきり抱え上げ、思いっきり下に手をのばしたアホの末に渡す。

050922_14252台のマウンテンバイクを受け取ったアホの末は、それを岩の間のわずかなスペースに置き、私が登って来るのを待つ。次に行く私は、アホの末の更に4~5mほど上まで登らなければならない。体重が重く、高いところが苦手であるために、私の登る速度はアホの末より遅い。ただ、スピードが速いだの遅いだのは、この時はどうでも良いこと。足を踏み外して滑落しないことを最優先にして、亀のようなスロースピードで登り続けた。

おかげで無事に約10mほどを登りきることが出来たのだが、その間の2~3分という時間は生きた心地がしなかった。マウンテンバイクを受け取った次は、アホの末が私の4~5m上に登るというように、私達は予定通りに着々とプランをこなしていった。

どれくらいそれを繰り返したであろうか。緊張してそれを繰り返していたから、”疲れた”と感じることはなかったものの、長時間続いたものだから緊張感で張り詰めた心の糸は切れそうになっていた。これがずっと続くようであれば、ヤバいと思った。しかし、そんな時であった。延々と続くかと思われた岩壁の頂の部分が見えたのである。

先が見えると、不思議と力が出るもの。このことは私達にやる気と力を与えた。ただ、頂が見えたからといって私達は浮足立つことはなかった。ここで浮足立つことは、死に繋がる。それが分かっていたから、私達はそれまでと同じく細心の注意を怠ることなく、やってきたことを続けた。

まず最初に頂に手をかけたのはアホの末、次が2台のマウンテンバイク、最後に私が続いた。

滑落することもなく、マウンテンバイクを落とすこともなく、無事に頂まで登りつめることが出来たことに私達はひたすら感謝していた。

眺め

050922_1428猿とバカは高いところが好きだという。アホの末はともかく、高いところが苦手な私も高いところから下界を眺めるのは好きである。この頂まで苦労して登って来た自分へのご褒美にと思い、さっそく私達は下界を望んだ。

高い山に登ったのだから、絶景を眺めることができるものと私達は思い込んでいた。ところがだ。そんなものは何処にも無かったのである。その理由は、濃い霧であった。あまりにも霧が濃いため、近くの山が薄っすらと見える以外は何も見えやしなかったのだ。

ここまで苦労して登って来たのに、これにはガックリした。霧が濃く立ち込めているということで、この頂が高い場所にあるということが想像出来るのだが、絶景を望むことが出来なければ、私達の苦労も報われる気がしなかった。

だが、”頂”にいるというだけで、何かを征服した感じがして気が大きくなるもの。おまけに、適度な風が吹いて気持ちも良い。しばしの間、私達はここで休んで、疲弊した心身を癒したのだった。

標識

050922_1437休憩を終えた私達は、今度は下ることを始めた。頂上まで登りつめたら、後は下るだけだから、楽だと思った。が、違った。頂上から少し下ったところにある絵の描かれた標識を見たら、何と大窪寺までは300m以上も下らなければならないことが分かったのである。

しかも、真っ直ぐ下るだけではない。グネグネとうねった階段の道を下るのである。この階段の道では、マウンテンバイクを抱えなければならず、時間も体力も消耗してしまうことは明白であった。とはいえ、危険を冒して登ってきたのと比べると臨むにあたっての気持ちは遥かに楽なものだった。

見当違い

階段の道を下り出してからすぐに、私の認識は甘かったということに気付かされた。ここの階段の段差はとてつもなく大きく、マウンテンバイクを抱えたままでは、リズム良くトントンと下りて行くことは出来ないのである。よって、階段では正面を向かずに斜め横を向き、まず片足をゆっくりおろして足が接地したらもう片方の足を下ろすというように慎重にソロリソロリと下りて行った。

また、階段の道がやっと途切れたかと思えば、地に手をついて足を踏み下ろす場所を確保しながらでなければ、下りられない崖道が何度も現れた。そこでは手ぶらの者が先に下り、後の者は先に下りた者に2台のマウンテンバイクを渡してから下りた。

面白いことに、重力に逆らうか任せるかの違いだけで、やっていることも神経質なくらいに慎重になることも登る時と同じであった。恐怖感では登る時の方が上ではあったが、思うように事が運ばないという意味でのストレスは下る時の方が上。最後の最後まで楽をさせてくれないことにムカつきながらも、今までとパターンが同じからか”やっぱりね。”と、何故か納得していた。

手前

下り出してどれくらい時が経ったであろうか。膝はガクガク、ブルブル。腹が減って力が入らないわ、神経の使い過ぎで頭が朦朧とするわで、私達はボロボロの状態であった。そんな私達の眼下にようやく大窪寺らしき建物が見えたのである。見えたといっても、豆粒ほどの大きさではあるが、目標物が見えると何処からか力が湧き出るもの。

“これまでにこんなシチュエーションが何度かあったな。””これでお遍路も終わりなんやな。”と、感慨に耽りながらも、私達は最後の力を振り絞った。

そして、この総段数1303段の階段が私達にとって本当に本当に最後の遍路道や難所となる時が来たのである。

到着

階段も崖道も終わり、比較的緩やかになった山道を下りると、私達は大窪寺の本堂の裏側に出た。どうやら、女体山は大窪寺の裏山らしかった。山門を潜らずにいきなり境内に入ったものだから、さすがに”それは良くない!”と考え、一度山門から外に出て再度山門を潜り直すことにした。

すぐに山門を出た私達は驚いた。何と!土産物店や飲食店など、何店舗かの店が山門の前にあったのだ。おまけに寺の前には、綺麗に舗装された道路まである。大窪寺は、周りに何もない山奥の簡素な寺と思っていたから、これには少々拍子抜けした。

050922_1539私達は、山門の階段を下りたところにある東屋で、とりあえず休憩した。その時、歳の頃は私達より少し下くらいのずんぐりした体形の浮浪者のような男がベンチに腰掛けて絵を描いているのが目についた。

その絵を横から覗き見したところ、なかなか上手なので、話かけた。人と話すのが苦手からか、男は私の問いかけにはあまり応えない。それでも、しつこいぐらいに問いかけていると、その固く閉ざした口を開き始めた。

男の歳は26歳。母とは早くに死別し、父とは仲が悪く、5年前に家出して沖縄を除く日本全国を歩き回ったらしい。現在、四国にいるのはたまたま行き着いただけで、お遍路をしているわけではないとのこと。絵を描くのが好きなので、描き溜めたものをたまに売ったりして小遣いを稼いでいるらしい。口を開くと、こちらが聞きもしないことをどんどん話した男だが、ホームページに乗せる写真を撮らせてくれと言うと、「もし、今撮った自分の写真が何かの偶然で親父や兄貴の目に触れると、居場所がバレて連れ戻されるかもしれんから、それだけはやめてくれ!」と言って断られた。

自分の身の上話はしても、家出をした都合上、名前と出身地だけは絶対に明かさなかったこの男のことを私は、”ノリちゃん”と命名した。”ノリちゃん”と、命名した理由は適当。その時にその名前が頭に浮かんだから、そう命名しただけのこと。ノリちゃんと話したおかげで、汗がひき、息の整った私達は、納経した後に再度会うことを約束し、再度大窪寺へ向かった。

第88番 大窪寺

050922_1543“これが最後!”という特別な思いを込めて山門をくぐる。ここで納経を済ませれば結願となるわけだが、不思議と”これで四国を回るお遍路は終わるんだな!”ぐらいにしか思わなかった。

050922_154488番目の寺。最後の寺。結願の寺。逆打ちは別として、一番から納経していけば、最後に辿り着くのが大窪寺である。この寺には”特別さ”を感じさせるものが多くあった。使い古された数珠の掛けられた名前が刻まれた何万体という小さい大師像、奉納された何千、何万本という杖。特に、ここまでの長い道程で使われて磨り減り短くなった杖には、目を奪われた。

ものによって違いはあるものの、大体もとあった長さの1割から2割程度は長さが短くなっているのだ。ここまでの約1400㎞の険しい道程を杖をつきながら来たものだから、それも無理はない。杖を見ていると、”この人達は、どういった思いで杖をついてここまで来たのだろう?””この人達は、どんなものを背負って歩いていたのだろう?”などと、つい様々な思いを頭に巡らせてしまう。そう思うと、その短く磨り減った杖の持つ意味を、とてつもなく重く、そして尊く感じたのである。

050922_1611自転車遍路とはいえ、私達は全行程の約半分を歩いた。だが、自転車遍路であるが故に私達には杖は無い。強いて言うなれば、マウンテンバイクが杖代わりである。杖が磨り減ったように、ブレーキパッドやタイヤはかなり磨り減っていた。山登りや難所では、これを邪魔に思うこともあったが、これのおかげで、短期間でここまで来れたのである。私達は、ここで初めてマウンテンバイクに感謝した。

境内を一通り見て回った私達は、いよいよ結願すべく最後の納経をするために大師堂へ向かった。勿論、最後だけにこれまでのいい加減な納経の時とは違い、マジ本気モードで臨もうとしていた。

思い

大師堂では、ここまでのことを思い出しながら、ここまで無事に辿り着けたことを感謝しながら納経した。そして、本当の最後になる本堂ではお経の一つ一つの言葉に様々な思いと魂を込めた。これまでずっと”面倒臭い”で済ませてきた納経も最後となれば、終わらせるのが寂しく感じるもの。しかし、それでもわざと唱える速度を遅くすることもなく、本来あるべきであろう速度で唱え続けた。

トータルで176回目の納経を終えたのは、納経を始めてから20分後のこと。無事に結願し、四国での全てを終えた私達は、それなりの達成感を感じつつも、既に心は本当の意味での最終到達地である高野山へ飛んでいた。

接待

私達は結願の記念撮影をしてから、大窪寺を後にした。山門の階段を下りると、嬉しいことに寺の入口にある食堂の店主が「お疲れでしたね!」と言って、しょうが湯とお菓子を接待してくれた。

おそらく、これが最後に受ける接待であろう。そのこともあって私は、ここへ来るまでの受けた接待を思い出した。そのどれもが、心のこもったものばかりで、受ける度に感動したものだった。正直言えば無くても、どうにかなったと思う。だが、これがあったおかげで、私達は暖かい気持ちになれた。これがあったおかげで、たくさんの人と触れ合えたのである。

接待は、お遍路を思い出深いものにしてくれるものであり、疲れた心身を癒してくれるオアシスである。私達は最後の接待に感謝しつつ、たくさんのものを与えてくれたこれまでの接待にも再度感謝した。

たかり

接待してくださった店を離れ、東屋へ行く。ノリちゃんは、タバコを吸ってくつろいでいた。”働いてないくせにえらそうにタバコなんか吹かしやがって!”と、思いつつ「お前、まだここにおるつもりなんか?」と話かけた。それを聞いて、「一週間以上、ここには留まっとるんやけどな。居心地がええから、しばらくおらせてもらおうかと思うとるわ。」と、ノリちゃん。

ノリちゃんがそう言った矢先、先ほど私達を接待してくださった食堂の店主が、ノリちゃんに「これ食べやあ!」と言って、蒸しパンのようなものを幾つか持って来た。それを見て、”こいつがここにおる理由はこれか!”と思った。そして、すぐにノリちゃんに問うた。「お前、こうやって頻繁に接待されとるんか?」と。「うん。周りの店の人達が、店の余りものを頻繁に持って来てくれるから、食うのには困らんわ。」と、ノリちゃん。

それを聞いて呆れたが、そのことを他人の私がとやかく言うことではないと思い、そのことについて口を出すことはしなかった。ただ、これだけは言っておきたいと思い、口に出した。「お前、店の方々に感謝する気持ちがあるのなら、ここに長居をするなよ!見たいものを見てまわれたら、どこかに落ち着いて自分の力で暮らせよ!」と。

おそらくこいつは、四国八十八ヶ所遍路独自の文化である接待に味を占めたために、このままだと四国に居付くであろう。こいつのやっていることは、”たかり”だ。全く感心出来るものではない。接待とは、何かを背負って、何かを求めて、何か目的を持って巡礼するお遍路さんだけのもの。こいつのような放浪者や世捨人のものではないのだ。

こいつの身の上話を聞いて、こいつに少し親近感を感じたから、警告の意味も込めて口に出したのだが、こいつがそれをどう捉えるやら。まあ、私も友人達にいろいろとたかっているから、偉そうなことを言える立場ではないのだが。

交渉

それから、しばらくの間ノリちゃんとはいろいろと話をした。その話の中で、私が先ほどより気になっていたノリちゃんの描いている絵について質問した。

風景画だけを描くことはなく、その土地土地の風景の中に必ずある人物を入れるという。その人物は自分だという。そして、絵を描いた時に思った言葉を必ず絵の中にしたためるという。そうして出来た絵には、値段を付けずに興味を示してくれたお客さんに値段をつけてもらうという。

ノリちゃんの絵に興味を持った私は、描いている最中の絵をよく見せてもらった。葉書を二回りぐらい大きくした画用紙に漫画チックな絵が色鉛筆で描かれており、言葉も一言書かれてあった。漫画チックとはいえ、なかなか味のある絵だし、書かれてある言葉も良い。これなら、買う者もいるであろうと思った。

他のも見てみたいので、「他にはないのか?」と問うたら、ここへ来るまでに書き溜めたものが結構あると言って、リュックからそれを出して見せてくれた。39枚もの書き溜められた絵。当然だが、全ての絵が違い、その中にしたためられていた言葉も全てが違った。それを見て、こいつが絵心があることにも驚いたが、それよりもしたためられている言葉の良さに驚いた。

この時、”何で、こんな人間嫌いで社会不適応な奴がこんな言葉を書けるんや?”と、疑問に思うよりも先に、ノリちゃんの絵を欲しいと思った。そこで、「俺はこれら全部を買いたいんやが、お前はいくらやったら売るんや?自分の付けたい値段を言うてみいや!値段によっては買うたるで!」と、ノリちゃんに問いかけた。

それを聞いたノリちゃんは、「えぇっ!これ全部?普段は自分から値段を言うことはしないんやけど、それなら値段を言っちゃうよ!5千円でどうかな?」と言った。「何や5千円でええんやな。なら買うたるわ。」と、私。「ええっ!5千円でもいいの!なら、もう千円プラスして欲しいな!」と、ノリちゃん。

「何やお前、今5千円でええ言うたやないか?お前、最初に言うた値段を変えるなんて男らしゅうないど!」と、私。「分かった!分かった!悪かったわ。5千円でええわ!」と、ノリちゃん。「ボケぇ!最初から6千円と言うとけば良かったのに。欲出しやがって!それでも俺は”買う”と言うとったんで。まあええ。お前に対する俺からの接待や。もう千円上乗せしたる。6千円で買うたるわ!」と、私。

結局、最後は私がこいつに対する接待として千円上乗せしてやり、こいつの二度目の言い値で売買は成立した。

相手が自分の言い値で買ってくれると悟るや、一度口に出した値を撤回して、更に値を吊り上げようとした”男らしさ”の欠片もないこいつに、私が興味を示すような絵を描いたとは思えないのだが、こいつが描いたことは紛れもない事実である。おまけに私のお気に入りでもある。こいつから購入したこの絵は、結願の日の思い出として、こんな変な奴と巡り会った記念として大事に保管しておくつもりである。

決定

それから十分に休憩出来た私達は、”次はどうしようか?”ということになった。

私の考えは変わらず。アホの末は、徳島港まで出て、そこからフェリーに乗り、和歌山まで行く気マンマンだった。

お互いに気力、体力共に消耗していたので、今朝方のようにエキサイトして言い合うことはしなかったが、それでも意見は平行線をたどった。時間だけが虚しく過ぎて行く。このままでは、時間の無駄だと悟った私は、「今現在で、台風が関西方面に進路をとり続けているのなら、高野山へ行くのは止め、少しでも反れているのなら決行にしようやないか。」と、アホの末に提案した。

こいつも私と同じく、このままの状態でいるのが時間の無駄と思ったのか、「そうしよう!そうしよう!」と、すぐに私の提案にのってきた。それならば、”善は急げ”とばかりに、正確な台風情報を聞くために職場の先輩に電話して、インターネットで調べてもらった。

先輩によると、台風は勢力を落としながらも、そのまま関西方面に進んでいるとのことだった。それを聞いて、私達の進路は決まった。高野山へ行くことなく、帰宅の途に着くことになったのである。この決定にアホの末は意義を挟まなかった。

アホの末は、「楽しみは後に取っておいた方がええしの。日程的にもキツいから、まあええか。」と言って、素直に納得していた。進路が決まったことで、お互いに気持ちが晴れ晴れしていた。結願の納経を終えた時も、この事が頭にあってスッキリしなかった。これを決めたことで、ようやく四国八十八ヶ所遍路の全てが終わらせることが出来たのである。私達にとって、本当の意味での結願であった。

「もう会うことはないやろうけど、お前の絵は大事にするからな!のたれ死にするなよ!」と言ってノリちゃんに別れを告げると、私は大窪寺とその周りの景色を再度しっかり目に焼き付けた。この最後の結願の日を忘れないためであった。それを終えた私達は、思いを残すことなく、夕焼けに染まる寺を後にした。

こうして、ついに私達の四国八十八ヶ所遍路も幕を閉じたのである。

四国八十八ヶ所遍路を終えて

050922_1617足掛け2年。四国への4回の渡航による四国八十八ヶ所遍路も、どうにか終えることが出来た。まだ、高野山御礼参りを済ませたわけではないので、本当のフィニッシュではないのだが、四国を回るのはこれで終わりである。

ここではたくさんの出来事があり、たくさんの人に出会い、たくさんの感動があった。長い時間をかけ苦労して回ったものだから、その分だけ思い出も多い。

実は、私はお遍路のためにここへ来たのが四国初上陸であった。そして、ここへ来て感心したのが、万人を分け隔てなく包み込むような大らかな土地の雰囲気と他に類を見ない美しい自然であった。飽き易い私達でも最後まで楽しんで遍路を続けることが出来たのは、これのおかげに他ならない。

最後の最後にノリちゃんというかなり変わった奴と出会ったことは、すごくインパクトのある出来事で何か意味あるものと思われるのだが、それが何を意味するかは今のところ分からない。ただ、最後の結願の時にこのようなインパクトのある出会いを与えてくれた神様、いやお大師様は心憎いことをするものだと感心している。

四国八十八ヶ所遍路というサラリーマンの私達にとって小冒険ともいえる旅を終えた私達は、普段の生活に戻る。お遍路で培われた感謝の心をもってすれば、しばらくは退屈な日常生活も刺激的になり、起こること全てが有難いと思えるようになることだろう。

だが、私達は愚かな人間である。時間が経つほどに感謝の気持ちの持ちようも薄れていくに違いない。そうなった時は、またこの四国の地に戻って来たいと思う。


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