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  第232号


   体験談
     掲載日 2009/03/25


15歳の時より満州の関東軍に加わった人の、シベリアの捕虜収容所での体験談を聞いた。


体験人「私らは、戦争が8月15日に終わったのを知らんで、8月31日までソ連と戦っとった。部隊で生き残った者は、皆捕虜になってシベリアの捕虜収容所へ送られた。」


私「そこでは、どんな生活をしとったんですか?」


体験人「そこで、私らを待っとったのは地獄やった。食べるものは、牛や馬が食うような飼料をわずかばかりしか与えられんかった。ロクに栄養も摂れん状態で過酷な労働を強いられたから、辛かった。いや、"辛い"という言葉では、あの状況を表現するには相応しくないかもしれん。死んだ方がマシと思えるような状況やった。

また、私らが寝るような建物は無かったから、穴を掘り、そこにテントを建てて寒さを凌いだ。

ただ、寒さを凌ぐとはいっても、布団のようなものは無いから、着られるものや布団の代わりになるものをかき集められるだけかき集めて、それに包って寝たんやが、それでも寒かった。凍傷になる者や、朝起きたら死んどる者は、ようけおった。」


私「どれくらい寒かったんですか?」


体験人「当時、満州で−30℃〜−35℃、シベリアで−50℃〜−55℃あった。」


私「冷凍庫より寒いじゃないですか!どれくらい寒いか想像すらできませんよ!」


体験人「そうじゃろうの。あの寒さの中では、人間なんてすぐに死ねるものや。

面白いことにの、もうすぐ死ぬ人間からは不思議とシラミがおらんようになるんや。吸う血が無くなるからか、それとも宿主が死ぬのが分かるからか。だから、私らは、朝起きて、下着にシラミが付いているかを確認することを日課にしとった。シラミが付いていることで、まだ生きられるということを確認したんや。」


私「凄まじい体験ですね。ところで、シベリアには何年ほど抑留されたんですか?」


体験人「3年や。昭和23年、22の時に日本へ引き上げた。270人おった私の部隊で、日本へ生きて帰ったのは、わずか13人や。その生き残った者も、年々少なくなりおる。戦友会で集まっても寂しいものや。」


私「生存率5%以下ですか!消費税より少ないパーセンテージじゃないですか!一体、人の生死を分けるものって何ですかね?」


体験人「う〜んっ。分からんのぅ!生きて帰りたいという気持ちは、誰もが強く持っとるしのぅ。運が良かったのか、それともそういう定めやったのか。強いて言えば、"生きて帰る"と、いうことを諦めんかったことかのぅ。まあいずれにせよ生きて帰れたことには感謝しとる。」


私「そうでしょうね。最後に行き着くのは、"諦めない気持ち"でしょうね。でも、それだけじゃなく、とてつもなく強い体と精神力もあったからじゃないですか?私が同じ目に遭ったら、いくら強い運や強い気持ちを持っていたとしても、3日ともたないでしょう。」


体験人「どうなんかのぅ。私みたいな体が小さく、人より何かが秀でたわけでもない男が生き残れたのは、"生かされた"と、考える方が自然かもしれん。」


私「それだけ凄まじい経験をされたのなら、日本での戦後の暮らしなんて楽に思えたんじゃないですか?」


体験人「確かに、あの地獄のような経験に比べると、どんなことも楽に思えたし、どんなことも有難いと思えたもんじゃ。」


これまで、原爆や疎開の体験談は聞いたが、シベリア捕虜収容所の体験談は初めて。前者と同じく凄まじい体験談に我を忘れて聞き入った。

あともう20年もすると、戦争体験者は殆どいなくなる。戦地へ赴いた人に限れば、あと10年がいいところだ。戦争体験者に体験談を聞けるタイムリミットは間近である。

戦争体験者に体験談を聞いた人から又聞きすると、"その人"というフィルターを通すものだから、現実味も驚きもその他全てのものが薄れる。故に、戦争体験者が健在である今のうちに、その人達から、積極的に体験談を聞いておきたいと思う。

それは、いかに自分の考え方が甘いか、いかに自分が感謝すべき状況にあるかを確認するため、そして何よりもそれらのことを知りたいがためにである。





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