四国八十八ヶ所 自転車遍路(第四弾)
- カテゴリ
- BICYCLE
- 開催日
- 2005年09月17日(土) ~ 2005年09月22日(木)
一日目(2005/ 9/17)
最後の遍路を前に
いよいよ昨年の春から実施してきた足掛け二年にわたる私達の遍路の旅も今回を持って終わる。サラリーマンの私達からすれば大冒険のような、この遍路の旅も今回で終わると思うと嬉しい反面、寂しさも感じる。ここまで来れたのも、いろいろな人達の助けや協力があったおかげである。そのことをしっかりと噛み締めながらも、また、いろいろなことを克服して、また再び四国の地に立てることに喜びを感じながらも、私達はこの最後の旅を終わらせる。
出発
今回も、早朝の出発である。午前3時半に起床して仕度をし、まだ暗い午前4時半に萩を出発した。アホの末は、午前7時発のフェリーに乗るつもりらしかった。時間的には間に合うか間に合わないかギリギリのところだったが、早朝ということで道路も空いており、クルマのスピードが出せたため、どうにか滑り込みセーフで運良く予定のフェリーに乗り込めたのだった。
船中
前回のゴールデンウィークとは違い、この日のフェリーは客が少なかった。フェリーに乗るのはこれが7回目。この日は天気が良かったとはいえ、さすがに7回目ともなると外の景色も見飽きたので、外の展望席に行くことはなく、船室の一番前の席に座った。ここでは睡眠不足解消のため、眠ろうと思ったのだが、最後の遍路を前にして気が張っているのか、緊張しているのか、なかなか寝つくことはできなかった。
私事ではあるが、実はこの約2週間前に緊急事態があって今回の遍路の実施は危うかった。というよりは、殆ど実施については諦めていた。それが、事がとんとんと進んで、こうやってどうにか実施できることになった。昨年のこの時期もそうだった。不慮の出来事があって一度は諦めたものが、時期を3週間ずらしただけで実施ができた。
私は不思議なことが大好きな人間ではあるが、バリバリの現実主義者である。しかし、様々な困難があっても、こうもいいように物事が進むと、目に見えない何かが私達を四国の地に、そして高野山へ導いてくれているような気にさえなる。それは、これまでの遍路の道中でも感じてきた。そして、今回の遍路でも感じることだろう。
私達は導かれている、守られている。何も怖れることはない。必ず結願して、高野山まで行けるのだ。そう思うと、それまであった緊張がなくなった。だが、眠ることはなかった。三津浜港へ着くまでは、これまでのことを思い出しながら、最後の遍路に向けて最高の状態で臨むべく気持ちを高揚させていた。
三津浜港
午前9時半過ぎに三津浜港へ到着。ここから、私達の最後の遍路が始まる。ここへ来ることは、もうない。帰りにフェリーに乗るだけだ。半年ぶりの三津浜港で、懐かしさを感じることもなく、とりあえずは、前回の遍路の最終到達地点であった第53番円明寺へと向かった。
道中
第53番円明寺までは3㎞もないくらいの距離。なんてことはない距離だが、最初は寝不足でエンジンのかかってない体が重く感じたし、今からハードなことをしなければならないと思うと、気持ち的に少々ダルかった。それでも10分も走ると、エンジンもかかってきて、ネガティブな思いも全て消し飛んだ。
最終中継地点
最終中継地点である第53番円明寺には、15分ほどで到着。当たり前のことだが、円明寺は半年前と何ら変わることはなかった。違うといえば、半年前は春で、今は秋口ということだけか。空気の匂いや雰囲気というものは、明らかに違った。 これも季節が違うから当然と言えば、当然。さして感傷に浸るほどのものではないのだが、半年前との違いに敏感になっていた。ここでは、長居することなく、写真撮影だけして、足早に立ち去った。
海岸線
次の第54番延命寺までは、35㎞ほどの距離。遍路道さえ通らなければ、2時間ほどで到着できる距離である。前回の遍路では、時間の都合で泣く泣く、先に行きたい気持ちを押し殺して第53番円明寺で遍路を打ち止めとした。いや、それは前々回もその前の遍路でも同じだった。いつも、遍路を打ち止めする時は、先に進みたい気持ちを押し殺していた。後ろ髪を引かれる思いだった。
しかし、今回の遍路は最後である。もう、途中で後ろ髪を引かれる思いで、遍路を打ち止めすることはないのである。最後まで行けるのである。それを思うと、35㎞という、いきなりの長丁場ではあるが、苦にはならなかった。おまけに、長々と続く美しい海岸線が、私達の気持ちを和ませてくれた。
また、道が起伏が少なくなだらかであったので、サイクリングをしているような気分になり、つい、自分達が遍路をしているということを忘れそうになった。こんなのは全行程から見ると、序の口も序の口で、先にはいろいろな困難が待ち受けているのだが、この時は、そんなことを考える状態ではなかった。
朝飯
30分ほど走ったところで、遅めの朝飯をとるためにコンビニへ寄った。毎度のことながら、街中であろうが、郊外であろうが、どこにでもあるコンビニの存在は有難かった。ここでは、身体を動かすエネルギーとなる炭水化物をお互いに十分過ぎるほど摂取し、胃の中のものが十分にこなれるまで、少し長めに休憩した。
瓦町
走っても走っても延々と続く海岸線。天気も良さも手伝って、景色が綺麗なのは良かったが、その景色にもそろそろ飽きかけてきた時に、あるものが目に入った。私達の走っている右側、即ち陸側に何十軒もの瓦製造工場が軒を連ねているのである。どれとして、大きい工場は無く、全部が個人でやっているような小さい工場だった。こんな光景は初めてであった。 おそらく、この町は瓦製造が主な産業なのだろう。萩にも”瓦”という字を冠した”瓦町”という町があるため、”もしかすると、昔はその町でも瓦を作っていたのだろうか?”と、そんなどうでも良いことが気になった。
第54番 延命寺
第53番円明寺を出発してから2時間半。休憩時間を除いて、実質2時間ほどで最初の目的地である第54番延命寺に到着した。予定通りの時間での到着であった。到着して思ったのが、字は違えど、53番の寺と名前が同じということであった。何か関係があるのだろうか?
見た目も、大きさもどこにでもある普通の寺なのだが、唯一変わったところと言えば、境内の中に売店があるということであった。境内の中に売店があるのは何ヶ所かにあったから、別に珍しいものではない。ただ、ここの売店では、趣味の悪いTシャツや、売れないからか、かなり古びた品物がたくさん置いてあることが目についたため、自分の中では良くも悪くも印象深いものになった。
ここでは、約5ヶ月ぶりに納経を行ったのだが、私は毎朝唱えているから難なく読経できるものの、アホの末は、久々だから忘れたのか、読経の仕方がたどたどしかった。私の後を追って読経していたのが分かったから、ここでは高速読経を封印。アホの末が追い易いよう、ゆっくりと読経した。おかげで、時間がかかりはしたが、これも回を重ねていけば改善されることだろう。最初の寺を納経し終えたことで、やっと私達の最後のお遍路が始まったという気になった。
第55番 南光坊
第55番南光坊までは、前の寺から3.5㎞ほどの距離。街中にあるということもあり、苦もなく到着した。
南光坊は、れっきとした寺なのだが、名前に”~寺”と付いてないため、名前だけ聞いても寺とは想像し難い。実際、私達も最初は寺名ではなく地名だと思っていたのだ。まあ、そんなことはどうでも良いとして、寺を訪れた私達を最初に歓迎してくれたのは、山門の両側に配置された”広目天”、”持国天”、”増長天”、”多聞天”の四天王であった。
四天王とは、如来の四方を守護する仏であり、明王像のように大体が憤怒の形相で表現される。だが、ここの彫像で印象深いのは、憤怒の形相が2体あるのに対し、哀れみを持って諭すような表情の形相のものが2体あるということであった。陰と陽、明と暗、表と裏。人間が持つ相反する2つのものを表現しようとしたのか、その表情は作者の内面をよく映し出しているようだった。
平成15年に奉納したというから、ここ最近のものであった。その出来は、とても有名な稀代の仏師と比べられるレベルではないが、現代でもこれぐらいのものを作れる人がいることに驚きを感じたのだった。この寺も創建は712年とかなっているが、それも本当かどうかは分からない。本堂は昭和56年に、大 師堂は大正5年に建て替えられたという、新しい建物であったから、風情も何もなかった。
四国八十八ヶ所の寺は、全部が魅力的な寺ではない。そうである寺もあれば、そうでない寺もある。今のところ、半々のような気がするが、この寺は後者の方であった。でも、こういう寺があるから、魅力的な寺が余計に引き立つのかもしれない。私達は、納経を済ませると、後から境内に入ってきた大勢の観光客を尻目に、足早に寺を後にした。
スケジュール
南光坊から泰山寺までは3㎞ほどの距離。お遍路地図で確認すると良く分かるのだが、第54番から第59番までは寺から寺への距離が短いのだ。この中では、一番長い距離である第58番から第59番間の6.2㎞を除き、他は3㎞前後である。
この時、時刻は午後14時を過ぎたところ。納経所が閉まる午後17時までは3時間をきっていた。第59番から第60番までは30㎞以上あるので、時間の都合上、距離の詰まっている第59番までで、この日の遍路を打ち切ることにした。
納経所で納経帳に記帳してもらう以上、その日のスケジュール立てをすることは大切なのである。ただし、距離が短かろうと過酷な道程であれば、時間がかかるし、距離が長くても易しい道程であれば時間は、思ったよりもかからない。だから、その日の早いうちにスケジュールを決めることはなく、午後過ぎたくらいから、残りの時間を計算して、どこまで行くかを計算するのだ。
2時間半ほどで残り3寺。距離的に考えても、余裕でこなせる数であった。
第56番 泰山寺
田園風景の中にポツンと佇む泰山寺。寺は5mほどの高さの石垣の上にあった。ここには四国八十八ヶ所の寺では必ずと言っていいほど見かける山門が無かった。おまけに寺もここ最近作られたような新しさで、趣きも何もあったものではなかった。おそらく、八十八ヶ所の寺に認定されてなければ、来ようとも思わないだろう。ただし、照りつける陽射しの中で、納経しながらも聞こえる、「ジーワ!ジーワ!」という季節外れの蝉の鳴き声には趣きを感じていた。
田園風景
時間の余裕もあってか、私達は田園風景の中をのらりくらりと進んだ。まだ、夏の暑さを引き摺っていて暑いには暑いのだが、日差しの強さは、明らかに夏のそれよりは幾分和らいでいた。道端に咲く彼岸花が、もうすぐお彼岸ということを私達に無言で知らせてくれる。”私達は、今、四国にいるんだ!”という実感と、再び来れたことの幸福感を噛み締めながら走っていた。
第57番 栄福寺
第57番栄福寺は、わずかであるが、少し山に入ったところにあった。山門有り、昔ながらの趣きのある古い本堂と大師堂有りの寺であった。
この寺には、寺にまつわる面白い実話があった。昭和8年に足の不自由な少年がここを訪れた際に、境内で転倒したが、そのおかげで歩けるようになったというのだ。実際に、本堂の横にはその少年が奉納したという箱車などが置いてあった。それが本当であれば、すごいことである。だが、現実主義の私は、そう聞いて「ああ、そうですか!」と、それを鵜呑みに信じるわけにもいかない。わずか70年ちょっと前のことである。もしかすると、その方が今でも健在である可能性だってある。もし、その方に会えるのならば、「あの話は本当だったんですか?」と聞いてみたかった。嘘なんかつくはずはないと思うが、実際にこの目で見て、この耳で聞いてみないと信じられないのである。
四国八十八ヶ所には、他にも奇跡の話がたくさんある。後に脚色された話もあるだろうから、その全部を信じるわけにはいかない。でも、本当の話だってあるはずだ。私は、現実主義者ではあるが、自分で確かめないと信じないというだけであって、奇跡があるとも、目に見えないことがたくさんあるとも思っている。現に、人間の心だって目に見えないけどあるではないか。その人間の心を映し出すのが、言葉であったり、表情であったり、芸術であったり、行動であったり・・・。事の真偽はともかく、寺にそのような話があるのは興味深いことであった。 おかげで、この寺は私にとっては、記憶に引っ掛かるものになった。
攣る
第57番から第58番までも、2.5㎞というわずかな距離。だが、ここには今回初のキツめの上りが用意されていた。しかも、山の中の道なき道を歩く、キツいやつである。とは言っても、いつもならこのぐらいの道はどうってことなかった。でも、この時は違った。久々に山を登ったことと、十分に水分をとってないことが原因であろうか?山を上りきった時に足が攣ったのである。こんなことは、これまでで初めてのことであった。言い訳はしなかったが、屈辱というか、情けないというか、しばらくは落ち込んだ。そして、落ち込んだ末に、あれは”昼飯を食ってなかったから”という答えに無理やり落ち着かせた。
私という人間は、本当に負けん気が強いというか、自分に都合の良いようしたがる人間である。だって、それが本当なら、アホの末も足が攣ってなければならないのだから。
第58番 仙遊寺
山を登りきったところ、私達が足を休めていた場所から100mも行かないところに寺の山門はあった。だが、山門から寺は見えず、どうやら寺は山門から何百mかの階段を上ったところにあるらしかった。山門を入って、早速私達は階段を上り始めた。階段を上り始めてから、すぐに私達を出迎えてくれたのは、”弘法大師御加持水”と銘打たれた湧き水であった。水分不足であった私達はすぐにそれに飛びついた。柄杓ですくって飲む湧き水は冷たくて美味しかった。つい、3杯も飲んでしまったほどだ。
飲み終えて、階段上りを再開しようとした私達に、上から降りてきた初老のおっさんが声を掛けてきた。
おっさん「二人でお遍路してるの?」
私「はい。二人でお遍路してます。」
おっさん「そちらのもう一人の方は、外国の方?」
どうやらアホの末のことを外国人と間違えているようだったので、私は会話をおっさんに合わせることに。
私「そうです。イランから一人で日本に出稼ぎに来てるんですよ。」
おっさん「ふう~ん!関心やね。遠い国に一人で働きに来るとはねぇ。えらいねぇ。頑張りなさいよ。」
おっさんは、そう言って去って行った。
私の言うことを信じていたようなのだ。で、アホの末はというと、終始黙っていたのだが、私が”イラン人”と言ったことが気にいらなかったらしく、何度も「何でフランス人と言わんかったんか!」と、ほざいていた。誰がどこからどう見てもフランス人には、絶対に見えっこないのに、自分というものがよく見えてない奴である。ちなみにこのおっさんとは、寺で納経を終えて階段を下りる時にも同じところで何故か出会い、その時もしきりに「えらいねぇ!頑張りなさいよ!」と、アホの末に声をかけていた。
本堂は、湧き水のところから、階段を200mほど上ったところにあり、その古さといい、自然の中に溶け込んでいる様といい、なかなかの趣きのある寺だった。ここでは、納経をし終えた時に、「署名をお願いします!」と言って、おばさんが寄ってきた。署名をしてくれという書き物の内容を見ると、”拉致被害者”のことについて云々書いてあった。署名をするのには構わない内容だったのだが、”こんな場所で署名??”と怪しく思ったので、丁重に断らせてもらった。最近は変な奴が多いから、行動も慎重にすべきなのだ。
本堂と大師堂で納経を終えたのが午後16時過ぎ。納経所が閉まる午後17時までは、まだ時間があった。だが、次の寺までの距離が近くても、どんな困難な遍路道が待ち受けているか分からないので、休むことなくすぐに寺を後にした。納経帳に記帳してもらうスタンプラリー的なことさえしなければ、寺や行く先々の街を散策することができるのにと思うと、残念な気がした。でもまあ、これも初めてのお遍路の記念だから仕方がないこと。いろいろと堪能するのは、いつかまたお遍路に戻って来るであろう時の課題とした。
やはり!
寺を出発した私達を待ち受けていたのは、やはり!というか、一筋縄ではいかない曲者の遍路道であった。驚いたことに、山肌から、白い石が剥き出しになっているのである。いや、剥き出しになっているというよりは、山全体が岩山であると言った方が適切かもしれない。
傾斜はゆるい下りだから、一見、マウンテンバイクで下れそうな気はするのだが、それは誤った認識であった。 石の表面が非常に滑らかであるからか、マウンテンバイクに乗って下ると、滑るのである。実際に、私はマウンテンバイクに乗っただけで滑りそうになったので、すぐに乗るのを止めた。
アホの末は、恐る恐るゆっくりと下って行ったのだが、20mも進まないうちに滑って転びそうになったので、やはりマウンテンバイクを降りなければならなくなった。石は、歩いて下っても、滑りそうになるほどツルツルしていたので、ゆっくり慎重に下ることを余儀なくされた。
次の寺へ行くまでの難所は、この岩山だけだったが、この岩山でかなり時間をロスしてしまい、到着したのは、制限時間ギリギリであった。
第59番 国分寺
納経所が閉まる午後17時ギリギリに到着したので、いつも使う手を使った。納経を行う前に納経所で記帳を行うのである。本来であれば、先に納経をしてから記帳するというのが正しい順序である。だが、時間ギリギリの折にその通りにやっていたら、納経が終わった時には納経所が閉まっているから、そんな時に限り、この手を使うのだ。納経所で記帳を終えた私達は、余裕を持って納経をした。
ここ、国分寺は奈良時代に聖武天皇が全国に建立した寺である。四国でいえば、各県に一つづつある。だから、珍しくも何ともない、風情もへったくれもない平凡な寺なのである。弘法大師の由来も、後から取って付けたのではないかと思うほど、怪しいものである。こんな寺でなくとも、八十八ヶ寺に認定するに相応しい寺は幾らでもあると思うのだが。
ここでは、大量の蚊の襲撃を受けたので、お遍路中ということも忘れ、蚊を殺しまくった。おそらく20~30匹は殺したのではなかろうか。坊主や信心深い人に見られたら、怒られるだろうか?それとも人の為になることをしたと、褒められるだろうか?いずれにせよ、バチ当たり私達は、地獄に落ちる人間であることは間違いない。納経と、蚊との格闘を終えた私達は、長居することなく国分寺を後にした。 この日の納経を終えた私達の次の仕事は、晩飯を食う飯屋を探すことと、野宿場所探しであった。
腹ごしらえ
次の寺へ行く道中にラーメン屋があったので、明かりに引き寄せられる虫のようにフラフラと店内に入った。この街のような比較的田舎と思われる街では、店を見つけたらすぐに入っておくに限るのだ。もっと、他に美味そうな店があるのでは?と思い躊躇して入らないと、その先何㎞も店が無かったというのは、これまでにもよくあったことである。
この時、時刻は午後5時過ぎ。晩飯時には、まだ早いとあって、店内には私達しか居なかった。空腹のお腹を十分に満たしたいということで、私達はラーメンチャーハンセット大盛りを注文した。注文の品が出てくるまでの間、私達は少しの時間も無駄にすまいと、アームレスリングの練習に興じた。店の人から見たら、ただ騒いでいるようにしか見えなかったことだろうし、テーブルの上のものを壊さないでもらいたいと思ったことだろう。だが、何と思われようと、始めたことを途中でやめるわけにもいかず、それは注文の品が出てくるまで続けられた。
私達の前に注文の品が並べられるやいなや、私達はすぐにガッついた。味わう暇もなく、胃にかき込んだので、味なんて美味いか不味いかなんて分かりやしなかった。お遍路中の食事は、味なんて二の次、三の次。少々不味くたって、食うことはできる。激しい運動で著しく消耗したエネルギーを補給すること、つまり腹を満たすことが、何よりも大切なのだ。食い終えて落ち着いた時に、やっとここの飯は不味かったことが分かった。だが、腹を満たせるだけのボリュームがあったことには満足していた。
聞き込み
店を出てから、通行人に”この辺りに公園があるか”と聞いた。幸いなことに街中から3㎞ほど郊外へ出たところへ大きい公園があるとのことだった。次の寺へ行く道中からは外れるが、探しながら走るのも面倒臭いし、そんな気力も無かったので、そこへ行くことにした。
混み混み
公園へ向かう道中、道の駅を見つけた。予定変更して、そこで寝ようかと思い、駅内に入って驚いた。お遍路さん専用の簡易宿泊施設も、便所の周りも、建物の屋根の下も、何十人というお遍路さんで一杯だったのである。その殆どが、20代前半ぐらいの学生らしき若者達だった。時期的に考えて、夏休みは終わっているはず。”こいつら学校に行ってねえな。”と、思ったが、私も授業には殆ど出たことがなかったので、人のことは言えなかった。
最近では四国八十八ヶ所遍路も、学生達にとっては、良い遊びと学びの場になっているとも感じた。まあ、立場や歳は違えど、私達も彼らとやっていること、感じていることは同じである。少々のことでは文句を言わない私達も、さすがに、このような多くの人で混雑した場所は、静かに寝れそうにないので、嫌だった。「やっぱ、さっき聞いた公園に行こうか!」と、お互いに顔を見合わせて、道の駅をすぐに後にした。
到着
私達が通行人から聞いた公園は、道の駅からそう遠くない少し高台になったところにあった。リゾート地らしく、高台の頂上にある公園に至るまでの道の脇には、何十軒というホテルや店が並んでいた。その公園は、運動公園らしく、敷地内には何ヶ所か便所もあるのだが、私達が寝るのに適した”床がコンクリートか石で、屋根のついた。”東屋のような休憩所を見つけることができなかった。
さすがに、地べたの上に直接寝ては、地べたの水分と夜露で寝袋が濡れるし、屋根が無いと、雨が降った時に濡れてしまう。そうなりたくはないので、必死に東屋を探した。だが、広い公園内をいくら探しても見つけることはできなかったのである。”しゃあねえ!地べたにでも寝るか!”そう言った時に私の目に入ってきたのは、ホテルの庭にある東屋であった。
ホテルの敷地内ということで、見つかったら下手をすれば不法侵入ということで、訴えられそうなものなのだが、この時は、そんなことを言ってられなかった。敷地内でも端っこのホテルからは目につきにくい場所であったので、”見つかることはないだろう。”と、迷うことなくそこを寝場所に決めた。寝場所を確保した私達の次なるターゲットは風呂であった。お遍路初日で、まだ日常生活から完全に抜けきれてなかったので、何とか風呂には入っておきたかったのである。
聞き込み
この公園は高台の頂上にある。麓の街まで戻って風呂に入ったら、公園まで戻る時にまた坂を上らなければならなくなるため、汗をかく。仮にマウンテンバイクを押して歩いて上がったとしても汗をかいてしまう。だから、麓まで行くのはやめて、公園の近くにたくさんあるホテルの中に風呂だけでも入らせてくれるところがないか、探そうと思っていた。高級そうなホテルばかりで、”入浴のみOK!”の看板を掲げているところが無かったから、期待はできなかった。無ければ潔く諦めようと思っていた。
ところが、である。ものは試しでホテルへ行く前に、この近くに公衆浴場なり温泉なりがないかをテニスコートでテニスをしているおじさんに、聞いてみたところ、ラッキーなことに、公園内に公衆浴場があることが判明したのである。それは、私達の寝場所から300mくらいしか離れてない場所にあった。やはり、一応は聞いてみるものである。
入浴
主に公園内でスポーツをした人が汗を流すために作られた公衆浴場らしく、サウナやジャグジー、立ったまま浴びれるシャワーなど、それなりの設備はあった。だが、私達にとっては汚れた体さえ洗い流せれば良かったので、それらのものは余分なものだった。
私が体を洗っている時に隣で体を洗っていたおじさんから声をかけられた。 「兄ちゃん、いい体してるねえ!何の仕事してるの?」と。 大分にチャリンコで行った時も、このようなことを言われたし、私生活の中でもこれまでに何度かあったから、”おっ!また同じようなこと言ってきやがった!”としか思わなかった。何と言って返そうかと考えて思いついたのが、”木こり”であったので、「木こりをやってます。山で切った木を運んでいたら、こんな体になってしまいました。」と、適当に答えた。
「ふう~ん。大変な仕事だからねえ。頑張ってるねえ。でも、体は鍛えられるんだろうけど、危ない仕事だから怪我をしないように気をつけなさいよ。」と、おじさん。”今時、切った木を自分で運ぶことなんてねえよ!そんなこと信じるなよ!”と思ったものの、おじさんのかけてくれた言葉に優しさを感じたので、嘘を言ったことを後悔した。ただ、嘘を言ったのは職業のことだけで、湯船に浸かってからは本音で話したから、それをひきずることはなかった。
そして、おじさんと話ながら考えていた。こうやって見ず知らずの人と話せるのも旅の魅力ではないかと。弾むおじさんとの会話に、気持ちの良い湯船。おかげで、お遍路初日で疲れた体も癒せ、日常生活でこ びりついた心の垢も幾分落とせたのだった。
寝支度
風呂から上がり、寝場所である東屋に戻ると、すぐに寝支度にかかった。寝床は、前回から登場した蚊帳をセッティングし、その中に寝袋を敷くだけの簡単なものである。ただ、この蚊帳の有難さは使ってみるとよく分かる。蚊や虻、ブヨといった虫からの攻撃を防げるだけでも全然寝やすいのである。というか、これらのものがウヨウヨいたら、とても寝られやしない。蚊帳の存在は、使うようになってからは、私達にとって必要不可欠なものになっていた。
来訪者
寝支度を終えると、何もすることがないので、すぐに横になった。だが、おそらく30℃近くはあろうかと思われる気温の高さで、暑くて眠れやしなかった。なかなか眠れないで、半目を開けて朦朧としている中、驚きのことが起きた。
ホテルの方を見ると、髪の長い白装束の女が、ホテルの庭の中を通り、私達が寝ている東屋まで近づいてくるのである。しかも足音をたてずに。髪が長くて、白装束という姿から想像するのは、私達の頭の中にテレビや漫画などの媒体によって植え付けられた”幽霊”の姿そのものであった。
前回のお遍路で、怖い思いをした経験はあったが、生まれてこのかた幽霊の姿を見たことはなかったので、興味はあった。だが、”これは、もしや?”と思い、その姿をずっと見ていようかと思うものの、恐怖心で目を開けることができない。目をつむっている間にも、女の気配はどんどん近づいてくる。逃げ出したい気持ちもあるが、恐怖心より興味の方が勝り、ことの顛末を見届けたいと思った。
ついに女の気配がおそらく私の1m以内に接近した時のことだ。明らかに、私達を見ている感じがするのである。しばらくは、私達を見ていたと思う。女の気配が去ったのは、再接近してから2分後くらいのことだった。やっと私達の後ろに、通り過ぎた感じがしたのだ。ホッ!としたのだが、同時にまた驚くことになった。
それからすぐに、カチッ!とライターを点ける音がして、女が「ゴホッ!ゴホッ!」と咳き込んだのである。”ん?咳き込む?幽霊も咳き込むのか?ん?おかしいぞ!”と思い、思い切って後ろを振り返ってみた。振り返ってみて更に驚いた。先ほど見たままの髪が長くて、白のドレスを着た20代くらいの若い女が私達の後ろの椅子に座って咳き込みながらタバコを吸っていたのである。幽霊が咳き込みながらタバコを吸うはずはない。私達の後ろに居るのは、幽霊ではなく生きた人間であった。幽霊でなくて良かったのだが、今度は何で若い女が、こんな真夜中に徘徊しているのかが気になった。しかも、白いドレスなんか着てだ。人を驚かすのが趣味の変質者か、徘徊癖のある精神異常者かと思われるのだが、私達に危害を加える様子はないので、放っておくことにした。
ただし、以前大分へチャリンコで行った時に朝飯を盗まれた経験から、何かあったらすぐに報復できるように、女がどこかへ行くまでは用心していた。女は30分ぐらい私達の傍で過ごした後、去って行った。本人に悪気は無かったのかもしれないが、私達にとっては、暑さと共に眠りを妨げる迷惑な来訪者だった。
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