四国八十八ヶ所 自転車遍路(第一弾)
- カテゴリ
- BICYCLE
- 開催日
- 2004年05月02日(日) ~ 2004年05月06日(木)
一日目(2004/5/1~2004/5/2)
準備
4月30日の晩に出発する予定が、末の都合で急遽、5月1日の晩に変更された。私としても、その方が都合が良かった。実は何も準備をしていなかったからである。
あると思っていた池ちゃんのリュックサックも、実は返していたし、持って行くものも揃えていなかった。だから、萩を出発するまでは、買い物に行ったり、散髪をしたりして、ドタバタしていた。それでも、どうにか準備を済まし、午後9時半には萩を出発した。
出発
柳井まで自動車で行き、そこからフェリーに乗るのだ。車中、昼間から動きまわっていたので、眠かったが、隣で末が運転しているのに眠るわけにはいかない。 くだらない話などしてどうにか柳井まで眠らないで済んだ。柳井に着いたのは、午前12時頃。午前2時20分発のフェリーに乗るまでには時間があるので、末のアパートで、仮眠をとることにするが、眠気はとうに覚めており、眠ることはできなかった。
末のアパートから柳井港までは、3㎞ぐらいあり、現地までは自転車で行くことにした。暖かい部屋から、寒い外へ出ていくのは、非常におっくうだった。
柳井港には10分ぐらいで着いた。もうすぐ夜中の2時になろうかというのに、港は結構、人で賑わっていた。ゴールデンウイークだからかもしれない。防予汽船に乗るのは、8年ぶりのことだ。自転車は、自動車と同じ搭乗口から乗るようになる。バイクの人はたくさんいたが、自転車で搭乗するのは、私達だけである。自転車は、隅っこの扉の前に置かせてもらった。
客室に上がって、仮眠室で横になって寝ようとするが、眠れない。末は横になるなり、いびきをかいて気持ち良さそうに眠っている。疲れているはずなのに、何で眠れないのだろうか。着いてからのことがあると思うと少しでも寝ておかなければならないのだが。
どうしても眠れないので、仕方なくいろいろと考えていた。松山港には、午前4時50分に到着。 ここから松山駅まで行かなければならないのだが、駅への行き方が分からない。地図には、アバウトにしか書いてないので、途中で人に聞いたりして、どうにか辿り着いた。
それにしても、結構走った。港から6~7㎞は走ったのではなかろうか。寝不足の私は、これだけで参ってしまった。
6時50分発の電車まで、かなり時間があるので、輪行バックに自転車を入れるために、自転車を解体する。輪行バックとは、自転車を解体して入れる袋で、このバックに入れたら、自転車を電車に載せることができるのである。解体すると言っても、前後のタイヤを外して、ボディにくくりつけるだけなので、袋に入れてもかなり大きい。混んでいる時などに電車に乗せたらかなり迷惑なことだ。大の男二人が、朝早くから駅の前で自転車を解体して、袋に入れている姿が珍しく映ったのだろうか、通行人の注目を結構浴びていた。
金をケチって特急券を買わなかったので、目的地の板野まで、2回の乗り継ぎで、待ち時間を合わせても7時間半ぐらいかかる。到着するのは、午後2時半ぐらいになるので、1日目は殆ど移動で終わるということになる。長いなあと末と愚痴をこぼしながらも、午前6時50分発の電車には遅れずに乗った。
向かい合わせの4人がけの座席に末と二人で座った。自転車は席のすぐ横に立てかけて置いたので、通路が狭くなった。少し気にはなったが、誰かに文句を言われたらどうにかしようということにした。幸いにも、誰に文句を言われることもなかった。
電車は普通電車なので、各駅停車だ。少し行ったと思ったらすぐに停まる。最初に停まった駅が松山駅から300m~400mしか離れてないのは笑えた。しかし、そこで降りる人がいたのには、驚いた。それぐらいの距離なら歩いてもすぐだと思うのだが。
電車の中で寝てやろうと思ったが、座席が後ろに倒れず、座り心地が悪いので、寝ることができない。仕方なく、窓から外を見たり、末と話をしたりして時間をつぶした。
驚き
末との話の中で、末が珍しくもこんなことを言ってきた。「最近、体力が衰えてきた、老いるのは嫌だ。俺にも色気というものがある。 できることなら、若い姿のままでいたい。でも、老いることから逃れられない以上、そういう目に見えるものにこだわらない自分というものを作りたい。」と。 普段、遊ぶことしか考えてないこいつからこんなことを聞くとは。驚きとともに嬉しかった。30を過ぎて、下り始めを実感したのだから、そういうことを実感したのだろうが、そう実感するのは末だけではないはずだ。
遍路には「捨てながら歩く」という言葉がある。生きて行く上で、生じる様々な執着を捨てながら歩くという意味だろうが、末が考えていることは、まさしくこれに当てはまる。「遍路をして、何か一つでも捨てられたら、自分を見つめなおすことができたらいいな。」と、答えたが、それ以降は真剣な話ばかりするようになってしまった。
乗り換え ~ うどん
最初の乗り換え駅である伊予西條には、午前9時ぐらいに到着し、2回目の乗り換え駅である高松には、午前11時半に到着した。高松では、待ち時間があるので、駅の構内のうどん屋でうどんを食うことにした。香川といったら、やっぱうどんでしょう。私は肉うどんの大盛を頼んだ。腹が減っていたので、出てきたうどんを一気にかき込んだため、喉に詰ってしまった。急いで、水を飲んで、もう一度ゆっくり食べなおしたが、その美味さには言葉を失ってしまった。麺の腰といい、つゆの味といい、肉の味付けといい、絶品である。
恐らく、今までに食した、どのうどんよりも美味い。駅の構内のうどん屋で、このレベルなのだから、老舗のうどん屋の味はどんなものなのだろうかと、末恐ろしくなった。
乗り換えの電車が出発するまでに時間があるので、構内の空き地でひなたぼっこをした。天気が良くてポカポカして気持ちが良い。だが、その気持ち良さも電車が出発するまでの少しの間だけのことだった。電車が出発すると、再び堅い座席に座らなければならなかった。 昨日からの不眠と、座り心地の悪い座席の電車での長時間にわたる移動で、疲れていた。寝ようとしたが、やはり眠ることはできない。この最後の2時間はとてつもなく長く感じた。
到着 ~ 月光仮面
午後14時10分に目的地である板野に到着。電車と、重たい輪行バックから解放されるということで、気分はすこぶる良い。
早速、自転車を組み立てる。10分ぐらいで組み立て終わる。組み立てたは良いが、まず、一番の寺はどこへどう行けばよいのか分からない。どうしようかと考えている時に、50代ぐらいのおじさんが自転車でやってきて、「自転車で遍路するの?僕も十七番まで行ってきたんよ。一番への行きかたが分からないのなら、これあげる。」と言って、遍路の地図をくれた。それには、一番から十七番までの行き方が詳しく書いてあった。
ラッキーと思って、御礼をしようとしたら、そのおじさんは、「間に合わない!じゃあ!」と言ってホームで待っている電車の中に自転車ごと消えていった。
疾風のように現れて、疾風のように去っていったおじさん。月光仮面のような人だ。
遍路開始
おじさんの地図のおかげで、どうにか一番にいける目処はたった。一番の寺までは、駅から4~5㎞ぐらいだ。自転車で走って15分ぐらいだ。寺があるから山の中にあるのかと思いきや、案外、街の中を自転車は走っていく。途中、2番の寺をスルーして一番の寺である霊山寺には午後3時過ぎに到着した。
一番 霊山寺
まず、最初の寺ということで、ここで、納経帳や線香、ローソク、遍路着というものを買いそろえ、店の人に納経の手順などを教わる。
お経は数種類のお経を唱えなければならないのだが、般若心経や各種の真言というものは、普段から唱えており、暗記してしまっているので、私としては、やり易かった。末の方は、今までにお経など唱えたことがないらしく、とっつきにくそうに見えた。
一つの寺で、本堂と大師堂の2ヶ所で納経しなければならないのだが、これに時間がかかる。線香を3本と蝋燭を1本、奉納札を1枚ほど奉納しなければならないのだが、これを2回やらなければならないので、実に面倒臭い。これを済ませてから、納経所で、納経帳に記帳してもらうのだ。だから、一つの寺には最低でも30~40分は滞在するようになる。面倒臭いが、今回は、きちんとした形式と作法にのっとって丹念に遍路すると決めているので、きちんとやるべきことをやることにした。
しどろもどろしながらも、きちんと納経をすませたところ、やはり時間はかかってしまった。だが、最初の取り掛かりをきちんとやったことで、二番目以降の寺もきちんと納経することができた。
二番 極楽寺
二番目の寺である極楽寺は、一番目の寺に行く途中にある。来た道を1㎞ほど戻った場所にある。霊山寺ほどは印象に残らない寺なので、さっさと納経を済ませて三番の金泉寺に急ぐ。ただし、ここで食った草餅は、非常に美味しかった。
三番 金泉寺
三番の金泉寺までは、二番の極楽寺から2.5㎞ほどなのだが、道を間違えてしまい、登らなくても良い急な坂を登ってしまって、非常に損をしたという気になる。
三番の金泉寺は少し山に入った場所にある。ここに着いたのは午後4時半頃で、納経を済ませて記帳をしてもらう頃には、午後5時を少し過ぎていた。
納経所のおじさんに、「記帳は午後5時までだから、次からは気をつけてね。」と言われた。知らなかったので、教えてもらって良かったと思った。ということは、最低でも午後4時半には、目的の寺に着いて、それで当日の遍路は打ち止めにしなければならない。
自分の前にツアーコンダクターの姉ちゃんが、バスの客の何十という納経帳の記帳をしていたが、人にやらせないで、それぐらい自分でやれと思った。一体、何のための遍路だろうか。
寺から引き上げる際に、この姉ちゃんの乗っているバスの運転手に写真を撮ってもらうことにしたが、「はい、怒って!手が震えてシャッターが押せん!うっ、金縛りにあった!」とかふざけてばかりでなかなかシャッターを押そうとしない。「早うせえ!」とせかして、ようやくシャッターを押した。シャッターを押すまでに延々と3分ぐらいかかった。少しムカついたが、気さくな面白いおじさんだった。私はこういう人は嫌いではない。
彷徨
午後5時を過ぎてしまったので、とりあえず遍路を打ち切り、宿を探すことにした。宿といっても、民宿や旅館に泊まるわけではない。野宿だから、どこかに便所がある公園みたいな場所がないかさがすのである。
月光仮面のおじさんに聞いた、鴨の湯というお遍路さんを無料で泊めてくれるところに行こうかとも思ったが、距離が離れ過ぎているし、四番以降の寺をスルーするため、また戻らなければならなくなるので、諦めた。土地勘がない場所で、行く宛てもなく、彷徨うのは、時間と労力の無駄だ。ローソンでガイドブックを購入して泊まれるような場所を探してみたが、残念ながら載ってなかった。
まずは、腹ごしらえということで、バーミヤンで晩飯を食う。腹が減っていたので、何を食っても美味く感じる。自転車で旅に出る利点は、カロリーを激しく消費するので、激しく腹が減り、何を食っても美味く感じるということだ。
ここでも、泊まれそうな場所を本で検索するが、あってもここからはかなり遠いものばかりで、近くに見つけることはできなかった。
考えても仕方ないので、とりあえず、近くの公衆浴場で風呂に入って汗を流そうということにした。
風呂に入ると、一日の疲れと寝不足がドッとでて、眠たくなった。眠たいけど、まだ、寝る場所が確保できたわけではない。早く寝たいから、公衆浴場から出てすぐに近辺を探したが、見つからない。1時間ぐらい探し回っても見つけることができない。
鳴門市ともあろうものが、公園ぐらい整備しとけよと文句の一つや二つ言いたくなった。どうしても見つからないので、一番か二番の寺に戻って、そこで寝ようということにした。しかし、二番の寺の境内に入って寝場所を探そうと、ウロチョロしていたら、宿坊から人が出てきて、かなり怪訝そうに見られたので、ここは諦めた。
仕方なく、一番の寺へ行こうとしたところ、1㎞先ドイツ村公園という看板が見えたので、ラッキーと思い、そっちへ行くことにした。
出会い
5分ぐらい走ると、ドイツ村公園に辿り着いた。寝る場所を見つけられたことでホっとした。寝る場所がないということは不安になるものである。
ドイツ村公園は、木が鬱蒼としげる昼でも陰鬱だろうと思われる公園だが、幸いにもここには便所も屋根付きの建物もある。
さあ、寝るぞ!と建物の中に入って床の上に上がろうとしたら暗闇から「土足で床の上に上がるなよ!」と声が聞こえてきたので驚いた。自分達以外に誰もいないと思っていたものだから、尚更である。
暗闇の方をよく目を凝らして見ると、何やら動くものが見える。どうやら先客がいたようだ。姿形までは、よく判別できないので、相手の顔が見えぬまま話すことになった。
この人は、定年退職して、家屋敷、家財全て処分してここに来たという。家族はいないという。遍路は1年を終えて、既に3回終えたとのこと。これから4回目の遍路に入るのであり、とりあえず、自分は千日行ということで、3年間は、遍路し続けると言われた。四国を一週するのに、大体39~45日ぐらいかかるそうだ。寒い冬はどうしていたのかと聞くと、十二番の焼山寺の近くに禅心道場という禅寺があり、そこでは、お遍路さんを無料で何日でも飯付きで泊めてくれるという。その代わり、朝の4時ぐらいから起きて、掃除、座禅など、僧侶とおなじことをしなければならないらしい。そこで、2ヶ月お世話になったという。
それは、面白そうだと思い、明日か明後日には、1日そこでお世話になることにした。ただで飯が食わせてもらえる上に、座禅まで組ませてもらって、坊さんの生活を知るには良い経験だ。
この人は、今の八十八ヶ所の寺のことを「金儲けに走っている。」と批判していた。「寺をまわるのもいいが、本当の遍路というものは、遍路みちを自分をみつめながら歩くことにある。ここは良いとこだよ、しっかり自分を見つめながら行きなさい。」と言われた。自分を見つめるというのは、確かに大事なことだ。形式ばかりに囚われてはいけない。ただし、今回の遍路は形式にこだわる。きちんとした形式にこだわりながらも、自分と向かい会って、自分をみつめていくのだ。全て遍路し終えて、2回目をしようとするならば、納経帳に記載することなどは、もうやらない。
このおじさんからは、話している言葉の端々に何ともいえない温かさを感じた。何で遍路してるの?何で千日行なんて厳しいことを自分に課すの?と聞いてみたかったが、聞けなかった。向こうも私達には、何も聞いてこなかった。
このおじさんは親切にも、八十八ヶ所の遍路地図をくれた。地図を受け取りにおじさんのとこへ行った時に顔をよく覗きこんだのだが、暗すぎて分からなかった。
延々と1時間以上も問答していたが、最後に「千日行を終えたらどうするんですか?」と聞いたら、「それまで生きているかもわからないし、今は、今のことしか考えられない。その時のことは、その時に決める。」と言われた。えっ!おじさん!もしやと思ったものの、睡魔には勝てず、返答することのないまま、眠りに落ちていった。
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