四国八十八ヶ所 自転車遍路(第四弾)
- カテゴリ
- BICYCLE
- 開催日
- 2005年09月17日(土) ~ 2005年09月22日(木)
二日目(2005/ 9/18)
起床
お遍路生活の中では、いつも午前5時くらいには目が覚める私も、前々日の寝不足と夜中の幽霊女のせいで、寝付くのが遅かったために、起床は午前7時であった。アホの末とほぼ同じ起床時間。常にアホの末より早い起床を心がけている私にとっては、不覚であった。
気持ちの良い目覚めではなかったが、幽霊女と何もなかったことには、ホッとしていた。これまでで最も遅い起床のため、急いで前日の記録をし、身支度をしてすぐに出発した。
麓の道の駅に寄って便所休憩をした時には、前日の何十人という学生お遍路さんは、誰も居なかった。それもそのはず。歩き遍路は、なるべく距離を稼ぐために朝早く出発するのが定石。早い人なら午前4時、遅い人でも午前6時には出発するのだ。
この時、時間は午前8時半。私達は、マウンテンバイクだから、進むのは速いし、2~3時間くらいの遅れは幾らでも取り返せる。しかし、なんとも気合の入らないゆっくりした出発であった。
横峰寺へ!
第59番国分寺から第60番横峰寺までは、約33㎞の距離。距離的には、遍路道を通ったとしても3~4時間もあれば行けそうな距離なのだが、今回は勝手が違った。
事前にガイドブックやお遍路地図を見て予習したところ、横峰寺は石鎚山中腹の標高750mの高所にあり、そこへ行くまでの行程は、難所中の難所と書かれてあったのだ。これまでに何度、難所といわれるところを通ってきたことか。お遍路も終盤に入り、難所といわれるところは、もう無いであろうと思っていたから、難所と分かっているところへ行くのは嫌であった。
難所と言われるところに待っているのは、山登りである。これまでの難所には、全て山登りが用意されていた。 今回にも例外なく山登りがある。それも750mのだ。気合が入ってなかったこともあるが、私達は今回初の難所に正直ビビッていた。
迷う
出発してから40分くらいは平坦な地を走っていた。 だが、広大な畑の中を通る農道を走っていた時のことである。お遍路地図に書かれている道と、走っている道が、明らかに違うのである。
地図に書かれている道の通りに走ってきたのに何故?と思い、とりあえず休憩がてら、もう一度走ってきた道をチェックすることにした。チェックしたところ、確かに私達の走ってきた道は間違いなかった。ただ、なぜ私達が間違えたように錯覚したのかというと、お遍路地図上にある目印となる店が既に無かったことと、新しく何本かの農道ができて、それが途中から古い道と合流していることが原因だったのだ。
お遍路地図は古いものであるから、現況と食い違うのは仕方がないことであった。原因が分かったとして、問題はどう進むかであった。お遍路地図には新しい農道は書かれてないから、古い道との合流地点からどう進んだら良いかが分からなかったのだ。
何本かある新しい道を全てある程度進めば、どの道が正しいのか分かるかもしれない。しかし、全部の道をある程度進むのは、時間的に無理であった。そこで、お遍路地図と現況の道を何度も照らし合わせ、流れからみて一番可能性のありそうな道へ進むことにした。
イチかバチかの賭け。はっきり言って自信は無かったから、”間違えてなければいいけど。”と、ドキドキであったが、その気持ちも500mほど進んだところにあった”横峰寺→”と書かれた遍路道の看板を見たことで、解消された。私達の選んだ道が正しかったのである。
これから行く行程は、難所中の難所と言われるところである。余計な体力を消耗したくなかったので、選んだ道が正しかったことは有難かった。
腹ごしらえ
しばらくは市街地の中を走った。まだまだ難所らしきところが出る気配はなかった。平坦な道だから、先を急ごうとも思った。だが、これから行くのは石鎚山である。もうじき山中に突入し、険しい道が始まるのは分かっている。当然、山中に入ると、コンビニや食い物屋があろうはずはないので、早めに昼飯を食っておくことにした。
昼飯を食うのは、時間がかからず手っ取り早く食事が済ませられる、いつものコンビニである。ここでは、体を動かすのに必要な炭水化物や糖分を十分に摂取した。
寄り道
予想通り、コンビニを出てしばらくすると、延々と続く上り坂が現われた。どうやら、ここからが石鎚山を登る難所の始まりだった。この時点で、標高何mかは分からなかったが、目的地の横峰寺のある標高750m付近までは、かなり登らなければならないことは間違いなかった。
上り坂自体は、傾斜はそれほどキツくないものの、先が見えないほど延々と続くものだから、2~3㎞も走ると飽きてしまった。
しかし、丁度その時に、古びた趣きのある神社が目についたものだから迷わず入ることにした。小さい神社ではあったが、この辺りの集落の氏神を祀っているような”村の神社”といった雰囲気ではなかった。雰囲気からしてもっと、大きなもの。おそらく石鎚山そのものを祀っているのではないかと思った。
境内の清々しい空気と、マイナスイオン出しまくりの緑に私達は十分に癒された。わずかばかりの滞在ではあったが、寄り道したことを良かったと思った。
再開
走りを再開した私達を待っていたのは、途中棄権した長い上り坂であった。これから、どんどん石鎚山を登っていくわけだから、上り坂があるのは当然。下りなど期待すべくもなかった。
最初は、傾斜がゆるいから良かった。だが、走り出して20分もすると、どんどん傾斜がキツくなってくるのが分かった。だんだんとペダルに込める力も大きくなり、それに伴って心拍数も増えた。あまりものキツさに、どこかにすがりたい気持ちになった。いっそのことマウンテンバイクを降りてやろうかとも考えた。
しかし、途中でマウンテンバイクを降りるとなると、苦しみからは解放されるが、気持ちがダレてしまう。だから、とんでもなく傾斜が急な坂以外は、極力マウンテンバイクを降りないようにしているのだ。
この時、とんでもなくキツいとはいえ、客観的に自分を観察すると、まだまだ余力を残しているように感じた。 確かに、何年か前に市民体育館で、最重量に設定されたエアロバイクをこぎ続けた時よりは、断然楽なように思えた。あの時は、心拍数が190を越えるまでこぎ続けたのだから。
よって、マウンテンバイクを降りることなく、そのまま走り続けることにした。
錯覚
“一体、どこまで上りが続くんだ?”走りながら、何度もそう思った。走っているというよりは、歩いていると言った方が適切なスピードだったのだが、私達はマウンテンバイクをこぎ続けていた。
スピードが変わらないのなら、マウンテンバイクを降りて、歩いた方が楽なのには違いなかった。それでも、”降りない”と決めていたから、歩こうとは思わなかった。
マウンテンバイクで走れるところは、極力走る。これが私達のポリシーだった。しかし、これまでお遍路中にどれだけマウンテンバイクで走れるところがあっただろうか?おそらく半分も無かったのではないかと、この時思った。
“どんなにキツくても、マウンテンバイクで走れるだけマシ。”
そう思うと、自然とペダルを踏む足に力が入った。延々と続く上り坂の先の先まで見てしまうと、嫌になるから、なるべく見ないようにした。ペダルを踏むのに飽きてくると、周りの美しい景色を見るようにした。気持ちがくじけそうになると、楽しかったことを思い出すようにした。
上り坂を走り始めて、一時間くらい経った頃だろうか。そういうことを繰り返したおかげで、ようやく山中へ入って行く遍路道の看板と、休憩所が見えたのである。
神社まで走った距離と合わせると、10㎞以上上り坂を走ったのは間違いなかった。上り坂の終焉は、私達に、これが難所のゴールだと錯覚させてくれた。だが、本当の難所はこれからだったのである。
接待
坂を上りきったところには、休憩所である東屋と山水の水汲み場があった。とりあえず、乾いた喉を潤すために私達は水汲み場へ向かった。
水汲み場には、山の上の方から滝のように水が落ちてきていたが、それを手ですくって飲むようにはなってなかった。山の上から引っ張ってきているホースがあり、そのホースから出る水を飲むようになっていた。おそらく、水を汲みに来る人のために、誰かが作ったものだった。実際、私達がいる間にも2人ほど水を汲みに来ている人がいた。一日全体でみれば、もっと多くの人が水を汲みに来るに違いなく、水汲み用のホースは、確実に人の役に立っているようだった。
ホースが役に立つのは、私達にとっても同じ。ホースがあるおかげで、水の流れ落ちる山肌に近づいて濡れることもなく、楽に水を飲むことができた。 これまでにも感じてきたことだが、四国には、簡易ながらも、このような人のことを考えた施設なり設備なりが多いのだ。 それが、人の役に立ち、有難がられていることを考えると、これも接待だと感じた。
再会
水を飲んで喉を潤したところで、すぐ近くある東屋で休憩することにした。
ここの東屋は、総木作りの六角形の形をしたイカした建物だった。建物の中は日陰となっていることもあり、眺めの良さも手伝って、快適に過ごせた。
涼しい風に吹かれて気持ち良くつろいでいる最中、一冊の落書き帳が私達の目に止まった。ここを通ったお遍路さんが、いろいろとコメントなり、伝えたいことなりを記したもので、それに興味を持った私達は最初のページから読み進めた。
そして、何ページか読み進めたところで、手が止まった。見覚えのある名前が目についたからだった。
その見覚えのある名前の主は、”細見 洋祐”通称サイケン。ちょうど一年前の第33番雪?寺の接待宿で一緒に一晩を明かした奴だった。
こいつのことは、珍しく私の中には印象深く残っていた。あの接待宿で一緒した時は、いろいろと話したり、フザけたりして楽しかったし、この正月にもこいつからは年賀状をもらっていた。漢塾のホームページを通してメールも何度かもらっていた。メールには、昨年の11月半ば頃に結願したと書いていた。
12月からは、兵庫県警に就職すると言っていたから、今頃は警察学校も卒業して警察官になっているはず。こいつの文章を見ていると、こいつとの記憶がどんどん甦った。
ただし、文章の内容を見てみると、台風の被害で橋が壊れたり、土砂崩れで道がなくなっていたりと、かなり悲惨なことが書いてあったので、思い出に浸っているところではなさそうだった。この文章を見て、私は、”あの時メールに「めっちゃヤバイところがありやしたよ。それは、またおいおい後で説明しますわ!」と入っていたのは、ここのことだったのか!”と、直感した。
それ以後、メールはもらってないので、結局そのことについては説明を受けられなかったのだが、おそらくこれから行く場所に違いなかった。
サイケンとの、こんな形での再会は想像もしていなかったのだが、一年ぶりに再会できたことは嬉しかった。また、サイケンが苦労しながらもどうにか、これから通るヤバい道を通って横峰寺まで到着できたことを記しておいてくれたおかげで、私達も苦労はするだろうが、到着することが可能だということが分かった。
この時ふと、落書き帳に記しておいたのは、後から来る私達のためではないかと思った。確かに私は、あの晩、サイケンに、”私達は半年に一度の区切り打ちで、お遍路をしている。今回は、お前達よりも何ヶ所か先に行くが、結果としては、お前達の後を追うようになる。”と伝えていた。
あいつは、あいつなりに私達に”ここの道はヤバい”ということを伝えようと思ったのだろう。これから必ずここを通るであろう私達が、この落書き帳を見ることを信じて。
あいつの思いは、確かに私達に届いた。その気持ちは有難いし、嬉しかった。サイケンと再会できたおかげで、これから始まる難所にも怖気づくことはなかった。
進行開始
遍路道を上り始めた私達を最初に出迎えてくれたのは、定番の階段であった。
いつもいつも私達をいぢめてくれる階段。これまで何千段と登ってきた階段ではあるが、逃げ出したい気持ちは無かった。それよりも、半年ぶりの階段ということもあって、懐かしさを感じていた。
以外にあっけななく階段は終わり、次に私達の目の前に広がったのは、落書き帳にサイケンが書いていたとおりの台風の爪痕であった。根っこを剥き出しにして倒れた木々が、斜面から転がり落ちたたくさんの大きな岩が、私達の行く先を塞ぐ。それらのものが川や谷間を埋め尽くし、道を壊し、とても普通に歩いて通れる状態ではなかった。
いくら大きい台風が直撃したとはいえ、これほどの壊れようとは予想だにしなかったから驚いた。 台風の猛威というものをまざまざと見せつけられたわけだが、これで諦めるわけにはいかなかった。
格闘
遍路道が壊れているとは言っても、部分的には壊れずに残っている箇所もあり、それが肉眼で確認できる範囲にあるものだから、それを目当てに、私達は進んだ。
マウンテンバイクをかつぎ、大きな岩や木を乗り越え、とにかく道無き道を進んだ。
これまでも、マウンテンバイクをかついで山を登るということは何度もしてきたのだが、ここのはレベルが違った。何故なら、遍路道の殆どは、巨大な岩で埋まっており、それをよじ登らなければならないため、マウンテンバイクをかついだままでは、進むことができない箇所も結構あったからだ。
そんな箇所は、どちらかが手ぶらで先に行って、残った者が2人のマウンテンバイクを先に行ったものに渡し、それから残った者が行くという方法をとった。
また、岩が湿って滑りやすいため、滑って転倒しそうになることもしばしばだった。
それを終えて、遍路道に入れたとしても、そこも階段や悪路の連続で、気が休まる暇が無かった。ハードな岩登りに体力を使い、滑りやすい足元に気を使い、それが終わったらハードな遍路道で体力を使い、その繰り返しは私達の気力、体力を著しく奪っていった。
いつも先頭を行くアホの末は、山中の遍路道を登っている時に、体力的にキツくなったら、立ち止まって少し休むことが多々あるのだが、この時は立ち止まることをしようとしなかった。それをしたら、あまりもの疲労から、しばらくは動けなくなることが本能的に分かっていたのだろう。賢い選択だとは思ったが、おかげで私もキツかった。
岩登りと遍路道の繰り返しがどれだけ続いただろうか。多分、40分ぐらい続いたものと思う。周りの状況から、道なき道の岩登りが終わり、ここから遍路道のみであろうと思われる場所に到着した時は、お互いに消耗しきっていた。
特にアホの末の消耗度は激しく、マウンテンバイクにもたれかかり、ずっと下を向いて息を整えていた。無理もない。40分間休むことなく、ずっと悪路と格闘してきたのだから。
あと少し!
いくら岩登りをしなくてもよくなったとはいえ、進むべき道があるとはいえ、ここからは山を登るハードな遍路道を行かなければならなかった。
消耗した体力は、少し休んだくらいでは回復するわけもなく、私達は5分おきぐらいに休憩するようになった。 先はどれくらいあるか見当もつかなかったが、進み続ければ、いつかは到着することを信じて、山を登り続けた。
どれくらい登った頃だろうか。遂に横峰寺までの距離が書かれた看板を見つけた時は、心躍った。この看板は、200~300mおきに設置されており、12~13分おきにそれを目にするようになった。と、いうことは、200~300m進むのに10分以上かかっていることになる。時速にすれば、1.2~3㎞ほどの速さにしかならない。
普通に歩く速さが時速4~5㎞とすれば、とんでもない遅さである。ハードな山を登る遍路道でも、いつもなら時速2㎞は出せる。だが、この時の私達にとっては、これが精一杯の速度であった。この看板は、横峰寺へ到着するまでに4つあり、それを見たらどれくらいの時間で到着できるかが予想できたから、私達にとって、その存在は励みだった。
到着
休憩所を出発してから約1時間半後にようやく私達は横峰寺へ到着した。もともと難所中の難所と言われた、横峰寺までの行程だが、台風の爪痕によって、それは私達のこれまでに経験した最高レベルのものになった。確かにサイケンが”やばいですよ!”と言っていただけのことはあった。
もし、落書き帳に書かれたサイケンの言葉を受け取ってなければ、心構えが出来てなかった分、更にキツいものになっていたことは十分に考えられる。
無事到着できたことで、再度サイケンに感謝した私達だった。
第60番 横峰寺
時刻は午後1時過ぎ。この日お遍路を始めてから、5時間近くの時間が経っていた。その間、何回か休憩したとはいえ、ほぼ動きっぱなしだったものだから、疲れをとるために私達は迷わず休憩することにした。境内に設けられた、休憩所で冷たいジュースを飲んでくつろぐと、気持ちがいくらかシャキッとした。それぐらいのことで消耗した体力を回復できるはずもなかったが、休まないよりはマシだった。
わずかばかりの休憩を終えると、私達は本堂へ向かった。本堂と大師堂は、休憩所から少し離れたところにある階段を上った小高い場所にあった。
最初、階段の下にマウンテンバイクを置いて行こうとしたのだが、遍路地図を見ると、次の寺へは、来た道を戻るのではなく、本堂を過ぎたところにある遍路道を通るようになっていたので、マウンテンバイクをかついで階段を上ることになった。
何十段かの階段を上り終えた私達を待っていたのは、横峰寺の本堂だった。権現作りの本堂と、本堂の前に設置されている一対の狛犬は、神社の雰囲気をも存分に醸し出していた。それもそのはず、明治時代の神仏分離令が発令されるまでは、何百年もの間、神社と寺も一緒の境内に仲良く納まっていたのだから。一緒だった時の名残が現在でもあるのだ。
寺の建物自体にも趣きはあるのだが、この寺の売りは、境内からの眺めであった。標高750mの境内から望む、山奥の深い緑は、見事なものだった。猿とバカは高い場所が好きと言う。私達が猿なのかバカなのかは、この際どうでも良いとして、高い場所は眺めが良いから好きである。
四国八十八ヶ所の難所と言われる寺は、そのどれもが高い場所にあり、そのどれからも絶景を望めたことを考えると、これも苦労して到着したことへの褒美だと思った。この時、境内には、歩きお遍路さんらしき人はおらず、車道を通ってクルマで来たような人達ばかりだったから、汗だくで汚らしい格好をした私達の存在は、その中では浮いていた。マウンテンバイクを持ってウロウロしていたものだから、結構人目を引いていたように思う。
10分ほどで納経を終えた私達は、ここで再度遍路地図をひろげた。時刻は、午後2時前。納経所が閉まるまで3時間ほど時間があったため、距離的にみて可能な第64番前神寺まで行くことにした。サイケンの思い入れがあり、苦労して到着した寺だったが、私達は躊躇することなく寺を後にした。
再び爪痕
境内を出て、1㎞ほどアスファルト道を下ると、遍路道の看板が出たので、入って行く。階段を下り、未舗装の遍路道を下る。途中、マウンテンバイクを降りなければならない箇所もたくさんあったが、このような道には慣れっこだった。
どれくらい下った頃だろうか。私達の目の前に現われたのは、台風によって倒壊した遍路道だった。山を登ってきた時と同じく、倒木や巨大な岩がゴロゴロして私達の行く先を塞いでいた。再び、岩や倒木を乗り越えながら、正規のルートを探さなければならなくなったのだが、幸いにもこの台風の爪痕の範囲は狭く、ここからは短時間で抜け出せたのだった。
到着
その後は、アスファルト道と未舗装道を繰り返しながらも、マウンテンバイクを降りることなく順調に進めたため、サクサクと距離を稼ぐことができた。横峰寺を出発してから約1時間半。神社の境内を通る遍路道を抜けたところに、第61番香園寺はあった。
第61番 香園寺
香園寺は、街中にある寺だからというわけではなかろうが、鉄筋コンクリート造りの本堂と大師道を兼ねた巨大な建物には、今までにない大きな違和感を覚えた。その建物は、昭和51年に建造されたというから、すごく新しいものである。
しかし、何故かくにもこんな巨大過ぎる建物を建造したのだろうか?マジで巨大過ぎるのだ。写真に撮っても、その巨大さは良く分かる。この3分の1、いや5分の1でも十分だと思うのだが。とにかく、不必要な大きさだと感じてしまった。 あまりにも巨大で近代的過ぎて、趣きも何も感じない香園寺。
だが、この寺は、”子授け”に”子育て”のご利益に滅法強いという。実際、離れた場所には、”子安大師”と書かれたお堂があり、その中には子供を抱いた弘法大師が安置されていた。それを見た、次男が生まれたばかりのアホの末は、真っ先にお堂に拝みに行っていた。子供がいない私も、”一応拝んでおくか!”ぐらいの気持ちで、アホの末に続いて拝んだ。
子供はいないよりは、いた方がいいぐらいにしか思っていなかった私は、適当に拝んでいたが、アホの末は違った。結構真剣に拝んでいるようだった。普段は自分本位のアホの末とはいえ、やはり自分の子供は可愛いもの。いつもはこいつのことを連れとしか見ていない私も、この時ばかりは、人の親として見てしまった。やることを済ませたら、こんなところに長居は無用。納経所を出ると、次の寺へと向かった。
第62番 宝寿寺
宝寿寺は、香園寺から1.5㎞ほどの距離。香園寺からは国道11号線を真っ直ぐ行くだけなので、わずか3分ほどで到着してしまった。大正10年にこの場所に移された寺らしく、香園寺ほどではないが、四国八十八ヶ所の寺においては、新しい寺であった。この寺も、先ほどの寺と同じような”安産”のご利益がある寺である。
だが、いちいち拝むことはしなかった。先ほどと同じく長居は無用。やることを済ませると次の寺へ向かった。
第63番 吉祥寺
吉祥寺も近かった。香園寺から宝寿寺までの距離とさほど変わらないように思えた。
楽して納経した寺の数を稼げるものだから有難かったが、残念なことに楽をすると、よほどのハプニングかよほどのインパクトのある寺でない限りは、私達の印象に残らないようになる。この寺も、毘沙門天が本尊であることが珍しいという他は、何もひっかかるものがなかった。
ただし、長宗我部 正親がイスパニア船の船長からもらい受けたというマリア観音像(秘仏で非公開)には興味があった。ただのマリア像をマリア観音として祀っているだけだと思うが、例えばインドの神々が仏教の中で~仏、~天とされるように呼び名を仏教式にするのは面白いと思った。
公開すれば、傷つけられたり盗まれたりする恐れもあるのだろうけど、私のような興味を持っている者も多くいるのだから、是非とも公開すべきだろう。仏像も彫像も見られてなんぼのものなのだから。
ここでは、青く澄み切った空にたなびく飛行機雲に趣きを感じた。残暑が厳しいとはいえ、暦のうえでは、もう秋なのだと。
第64番 前神寺
吉祥寺からは4㎞弱の距離。吉祥寺を出発した時は午後16時20分頃。どんなハプニングが待ち受けているか分からないので、先を急いだが、やはり4㎞という距離は近かった。
境内に入ると、いきなり鉄筋コンクリート造の大きな建物があった。それが納経所ということで、午後5時まで時間がないということもあり、先に記帳を行った。納経所のすぐ横には、大師堂があり、本堂はその横を通る参道の突き当たりにある。広い境内に青々と茂る緑。横峯寺を出てからは、凡庸な寺が続いたものだから、久々に刺激的な寺であった。
何でも、この寺は真言宗石?派の総本山であるとのことだが、残念ながら私は真言宗でそのような名前の宗派を知らなかった。空海が開いた真言宗も時代と共にその弟子たちによって分派し、一説には、その宗派の数は百八つあるとも言われる。宗派は今でも増え続けているため、正確な数はなかなか把握できないのが現状だ。
よって、知らない宗派があっても当然と言えば当然。知らなければ知らないでいいが、”こんな宗派もあるんだな。”ぐらいの参考にはなった。
先に納経を終え、しかもこの日最後の寺とあって、私達はゆっくりしていた。このまま、この付近で野営場所を探そうかとも思っていた。だが、翌日の最初の納経寺である第65番三角寺までは約45㎞もある。短い日程で、しかも今回で遍路を絶対に終わらせると決めていた私達にはゆっくりしている余裕などなかった。
そのことを思い出したものだから、納経を終えた私達はすぐに寺を後にした。その日最後の寺で納経を終えてから、次の寺まで距離がある時は、その日の夕方以降できるだけ走って寺の近くまで行っておく。これ、時間の無い私達の鉄則である。
三角寺へ
私達は、一路、第65番三角寺を目指した。
この日の納経を終えた私達の次なる目的は飯屋探しと寝場所探しであったが、できるだけ三角寺へ近づかなければならなかったので、この時はまだ、それらのものを探すには早過ぎた。午後5時をまわると、陽射しも和らいで温度も下がり、走り易かった。また、街中の平坦な道ばかりだったので、私達は”楽な今のうち”とばかりにどんどん走った。
約1時間。前神寺から距離にして12~13㎞走った頃であろうか。デジカメのバッテリー残量が少なくなっていることに気付いた私達は、バッテリーの充電と自分たちの充電も兼ねて、コンビニへ寄ることにした。
休憩
コンビニに到着した私達は、午前中から何も食ってなかったために激烈に腹が減っており、ここで晩飯にしようかとも考えた。しかし、午前中もコンビニで食っていたから、続けてのコンビニでの食事はさすがに嫌だった。だから、”どこかの飯屋で美味いものをガッつり食べようや!”と、話し合い、コンビニでの晩飯をやめた。結局、ここではアイスだけを食い、20分だけバッテリーの充電をした。
晩飯
コンビニを出て30分。晩飯はもう少し後にと考えていた私達だが、激烈な空腹感には勝てず、店の明かりに引き寄せられるように、通りがかりのうどん屋に入って行った。このうどん屋は、セルフサービスの店で、自分の好きな具をトッピングできるようになっており、値段も安かった。
徳島、高知でこのような店には何度も入ったから、珍しいことではなかった。だが、これまでの店と決定的に違ったのは、うどんの味である。麺が太く、こしがあり、これまで食ったどのうどんよりも美味かったのだ。おまけに、具とダシの味もグッドであった。
私達は何度も”美味い!美味い!”と叫びながらガっついた。大盛りのうどんと、欲しいだけ取った具を全部たいらげるのに時間はかからなかった。ここは、愛媛県で最も東寄りであり、すぐ隣はうどんの本場である香川県である。本場に近いからこんなに美味いのか、それとも店主の腕がいいから美味いのか、それとも両方なのか、気にはなったが結果として美味ければ、そんなことはどうでも良かった。久々の当たりクジを引いた感じだった。 たまたま入ったうどん屋だが、その味に私達は十分満足していた。
へこたれる
店を出てすぐに上りが始まった。どうやら街中は終わり、山中へ入っていくようだった。晩飯を食ってから間がなく、しかもα波出まくりの”くつろぎモード”になっていたため、上りを走るのは、なかなかキツいことであった。
胃に血液が行ってしまい、体がなかなか動かない。おまけに、”マウンテンバイクを降りてやろう!降りてやろう!”という気持ちが邪魔をする。そのため、なかなかいつものペースを取り戻すことができなかった。
そして、ようやくそれらのものを克服し、ペースを取り戻したと思ったら、アホの末が突然、上りの途中にあるコンビニの前に止まった。どうやら、上りのキツさに耐えられなくて、くじけたようなのである。ようやくエンジンがかかってきた私としては、”こんなところで止まるなよ!”と、不満たらたらだった。
だが、一旦マウンテンバイクを降りると、積極的に”休もう!”という気になった。ここでは、食後のコーヒーということで、コーヒー牛乳を飲んだ。少し遅めの食後のコーヒーだったが、体の方は温まっていたし、気持も途切れてなかったので、これを飲んだところで、再び”くつろぎモード”になることはなかった。
買い物
少々ばかりの休憩を終えて、また上りを走り出した。ずっと続くかと思われた上りだが、予想に反して走りだしてわずかの時間で終わり、後は下りとなった。今まで上ってきた分だけ下るわけだから、延々と下り続けるようになる。ペダルから足を離して、後は重力に引っ張られるに任せた。
下りはいつでも楽。だが、この時は夜で真っ暗だったこともあり、細心の注意を払ってゆっくり下った。おそらく3~4㎞は下ったと思う。下りきった頃にようやく街の明かりが見えた。田舎の小さい街ではあるが、スーパーはあった。時刻も遅いし、この先にスーパーがある保障もないので、迷わず店内に入った。今まで真っ暗なところにいたものだから、明るい場所に居られることにはホっとした。やはり、寝る時以外は暗いところはいたくないものである。
ここでは、夜食と次の日の朝飯を購入。会計をする時にレジのおばさんに、ついでとばかりに公衆浴場の場所と公園の場所を聞いた。公園の場所は、残念ながら通り過ぎてしまったとのことだったが、幸いなことに公衆浴場はここから10㎞ほど行ったところにあるとのことだった。公園は後々探すから仕方がないとしても、公衆浴場があることはラッキーだった。一日中汗をかきまくっているため、どうにかして風呂にだけは入っておきたかったのだ。
おばさんに礼を言うと、私達は意気揚々とスーパーを後にした。
洗濯
おばさんに言われたとおり、40分ぐらい走り続けると、右手に公衆浴場が見えたので、すぐに入って行った。
時間は既に午後9時をまわっており、風呂に入るのは私達しかいなかった。私たちは、これは幸いとばかりに浴槽で泳いだり、洗い場で洗濯をしたりした。常識の無い私達でも、さすがに公衆の面前では、こういうことはやりにくいのである。
風呂から上がった私達は、すぐに出発することはなく、わずかな時間だが、テレビを見てくつろいだ。タレントの照栄が、オーストラリアに行ってホオジロザメの鼻を素手で触るという、アホなことをやっており、その一部始終を見てから、私達は出発した。なかなか面白い企画であり、それを見ている間は、自分達がお遍路をしていることを忘れ、普段の生活に戻ることができた。
だが、まだ寝場所である公園を探すという大仕事が残っており、いやがおうにも現実に引き戻されたのだった。
聞き込み
公衆浴場を後にした私達は、公園を求めてひたすら彷徨うことになった。風呂に入ったばかりだから、汗をかくわけにはいかない。上りでは、ギヤをできるだけ軽くし、平坦な道では汗をかかない程度のスピードしかださなかった。
途中、寒川駅という駅があったが、田舎とはいえ駅は夜中でも人が来ることもあるし、朝早くから人が出入りするので、そこで一晩を明かすことは諦めた。真っ暗ということもあり、私達はどのくらい進んだか、何処にいるのかもわからなかった。この時、前神寺を出発してから5時間余り。実働3時間半以上は動いていたので、かなりの距離を走ったのは間違いなかったが、さすがに自分達の位置が分からないことは不安であった。
おまけに時刻は午後10時をまわっており、いつもなら寝んねする時間だったから、公園が見つからないことは不安に拍車をかけた。”どうしよう!どうしよう!”と焦る自分。しかし、こんな時に頼りになるのが、これまでの経験だ。
“今まで、どんな時も公園や寝る場所が見つからないことはなかった。””どうにかして見つけだしていた。”そのことを思いだすと、何故か気持ちが落ちついた。そして、”どうにかなる!”という気になった。
そのような気持ちになって、事が解決するまでにはそう時間はかからなかった。通りすがりのおばさんに、公園の場所を聞くことができたのだ。公園の場所は、おばさんと出会った場所から2㎞ほどの距離とのことだった。 おばさんに言われたとおりの道を行くと、確かに公園はあった。野球場やテニスコートなどのある大きい公園。 便所や屋根付の休憩所である東屋もあり、寝るにはうってつけの場所だった。やはり、信ずればどうにかなるものである。
格闘
公園に到着した時、時刻は午後11時を過ぎていた。くどいようだが、いつもなら寝んねする時刻である。私達はすぐに夜食を食った。そして歯を磨いたり、蚊帳を張るなどの寝支度をした。蚊帳に入り、寝る体勢に入ったのは午前12時前のこと。この日はたくさん移動したから、”これでやっと横になって休める!”と思ったのだが、そうはいかなかった。
蚊帳を細心の注意を払って張ったつもりが、たくさんの蚊が蚊帳の中に入り込んでいたのである。耳元で”プ~ンッ!”と唸られると、どうしても気になる。おまけにこいつらは、ズル賢いことに意識が一番届きにくい、足のくるぶしの辺りを攻めてくる。さらにおまけに、こいつらに血を吸われると、とてつもなく痒かった。”新種の蚊か?”と思ったが、そんなことはどうでも良かった。だが、やられたらやられたままでいるわけにはいかない。
とにかく俺の血を吸った蚊を全部ぶっ殺してやろうと、明かりをつけて目につく蚊を殺しまくった。
格闘すること1時間。おそらく20匹以上は殺したと思う。殺した蚊の殆どが、私達の血を吸った蚊だったので、私の掌には結構血がついていた。そしておびただしい数の蚊の死骸を見て思った。私の血液型が変わったのは、蚊に血を吸われ過ぎたせいだからではないかと。
この話は今を遡ること4年前、献血の時にそれまでO型と思っていたのが、A型と言われ~・・・。まあそんなことはここではどうでも良い。これで、ゆっくり寝られると思い、再び横になったのだが、それでも生き残っている奴が何匹かおり、ゆっくり寝させてはくれなかった。
おかげで、その後も延々と蚊との格闘が続くことになった。耳元で唸らなくなった、納得するまで蚊を排除できたと思った時は、既に周りは明るくなり始めていた。
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