四国八十八ヶ所 自転車遍路(第四弾)
- カテゴリ
- BICYCLE
- 開催日
- 2005年09月17日(土) ~ 2005年09月22日(木)
三日目(2005/ 9/19)
起床
蚊との格闘を終え、ウトウトしかけた頃に私達の寝場所である東屋に爺さんの2人組が近づいて来た。通り過ぎるかと思いきや、東屋の中に入って来て、長椅子に座って話し始めるではないか。すぐに話し終えて去るかと思いきや、なかなか去りそうな気配はない。それどころか、話に熱中して、ますます話し声が大きくなる始末。
他人がすぐ近くに居るというだけでも、気になって眠れやしないのに、大声で話されたとあっては尚更だ。棺桶に片足突っ込んでいるようなええ歳の爺さん達が、他人が寝ている場所で大声で話したら迷惑になるということが分からないのだろうか?常識が無いのは若者達だけの専売特許ではない。中年や年寄りにも常識が無い者はたくさんいる。
常識が有るか無いかは、歳ではなく、個人個人の人間性によるのだろう。このジジイ達は、しばらく去らないと判断した私は、わざとらしく「静かでよう眠れたなあ!」と、大声で言って起きた。さすがに、それは自分達への当てつけと感じたのか、ジジイ達は足早に去って行った。この時、時刻は午前5時半。アホの末は横でグーグーいびきをかいて寝ていた。だが、再度寝ようとは思わなかった。おかげで、前日に引き続き寝不足となった。
出発
いつもより早起き出来たおかげで、前日の記録を書く時間は十分にあった。私が記録を書き終えた直後にアホの末が起床した。ほぼ一晩中、蚊と格闘し、ジジイ達に叩き起こされて睡眠不足だった私と違い、アホの末は、ぐっすり眠れたようだった。全く、デリケートさの欠片もないというか、あれが気にならないのだろうか?私は、蚊や他人の気配というのは気になってならないのだが。まあ、それはともかく睡眠がとれたことは寝不足の私にとっては羨ましいことだった。寝不足でゆっくりしていたかった気持ちもあったが、この日は四国八十八ヶ寺の中でも最高峰である第66番雲辺寺へ行くということもあり、仕度を済ませると、すぐに出発した。出発時刻は、いつもより早い午前7時30分だった。
三角寺へ
私達が野宿をした公園と三角寺までの距離はよく分からなかったが、おそらくかなり近づいているものと思われた。実際に、少し行ったところで遍路看板を見ると、三角寺までは7㎞ぐらいしかないことが分かった。距離的には大したことはない。しかし、気になったのが、看板を見てからすぐに山の方へ入って行くようになったこと。そんなに大した上り坂ではないが、それが延々と続く。完全に目覚めておらず、しかも寝不足の体には、この上り坂は、かなりこたえた。
切り替え
上り坂は、延々と続いていく。やはり、楽はさせてくれない。どれくらい、上った頃だろうか。”まだ、体がよう動かん!”と言って、前を走るアホの末がマウンテンバイクを降りたので、それにつられて私もマウンテンバイクを降りた。
決して、マウンテンバイクを降りなければならないほどの上り坂ではなかったのだが、アホの末は、どうしても体がついてこなかったのだろう。それは私も同じだった。アホの末がマウンテンバイクを降りなければ、もう少し走ったところで私がマウンテンバイクから降りようと思っていたから、アホの末から降りてくれたことは有難かった。
そして、丁度、降りた場所の近くにあった自動販売機でジュースを買って休憩をした。三角寺までは、おそらく残り3㎞ぐらいしかないであろうと思われたから、ここからは、気負わずにゆっくり行くことにした。”ゆっくり行けばいいや!”と、開きなおると、不思議と気が楽になるもの。高台から望む市街地の眺めや、斜面に所狭しと植えられたミカンの木に心を奪われながらも、私達はマウンテンバイクを押して歩き続けた。
下を向いて必死にマウンテンバイクをこいでいては、決して堪能することの出来ない景色を見ながら、ふと思った。”たまには、ゆっくり行くのもいいのではないか。”と。急いでばかりでは面白くないし、美しい景色を見る余裕もない。せっかく、貴重な時間を過ごしているのだから、こういう時間も必要であろう。景色を楽しみながら歩くのが楽しかったから、私達は決してマウンテンバイクに乗ろうとはしなかった。
遍路道
歩き続ける私達の前に、やはり!というか、当然のように現われたのが非舗装道である悪路の遍路道であった。 いつもなら身構えるところ。だが、この時は違った。”ゆっくり行こう。”と決めていたから、気負いがなかったから、次々と現われる自然の障害にも焦ることはなかった。それどころか、それを楽しむ余裕すらあった。
だから、いつもは辛い遍路道も苦にはならなかった。おかげで、30分ばかりの遍路道タイムもすぐに終わったように感じた。
第65番 三角寺
遍路道を抜けた時に、私達の目の前に現われたのは、山門へと続く長い階段だった。どうやら三角寺へ到着したらしかった。三角寺は、愛媛県の最東端に位置する、伊予之国最後の寺である。第三弾お遍路から続く伊予之国の寺もようやく最後かと思うと、感慨深いものがあった。
階段を上り終えて、山門をくぐり、境内に入ると、白や紫の名も知らぬ花がたくさん咲いており、心和ませられた。また、境内には樹齢が千年近くはあろうかという巨木もあり、私達の目を楽しませてくれた。自然豊かな、居心地の良い寺だったように思う。私達は、次の寺のことを考えるでもなく、急ぐでもなく、淡々と納経をこなした。ここでも、急ぐではなく、道中の”ゆったりモード”を引き摺っていた。
納経を終えてからも、境内を散策したり、ベンチに腰掛けて話たりしていたので、”そろそろ行かなければ!”と思った時は、寺に到着してから50分近くもの時間が経っていた。次は、四国八十八ヶ所中でも最高峰の雲辺寺である。ここから距離もあるし、高さもある。”ゆっくりしている場合じゃない!”と、現実に引き戻された私達は、足早に寺を後にした。
雲辺寺へ
三角寺から雲辺寺までは約20㎞の距離。今まで上ってきた山の反対側の遍路道を下り、舗装道へ出たところで、ひたすら雲辺寺を目指し走る。いくら走れども、走れども、街中や海岸沿いに出ることはない。どんどん山奥に入って行くようになる。それもそのはず。雲辺寺は四国八十八ヶ寺の中でも標高925mという一番の高所にあるからだ。だから、三角寺のある山から下りきって舗装道に出てからは、傾斜は緩やかだが、ずっと上り続けていた。
しばらく走ったところで、腹が減ったため、コンビニか飲食店を探すが、山奥のため、そんなものはなかった。また、これからもそれらを見つけることはできそうになかった。そこで、やむを得ず、唯一見つけることのできた酒屋で飲み物だけを調達した。しばらく、何も食べられないのは不安だったが、飲み物だけでも確保できたことは有難かった。
徳島?
酒屋から走り続けること1時間。私達は、ついに「徳島県池田町」と書かれた看板を越えることとなった。”よっしゃあ!ようやく愛媛県を抜けたぞ!”と喜ぶのも束の間、”ん?徳島県?香川県じゃないの?”と、おかしいことに気付いたのだ。
雲辺寺は香川県の寺のはず。なのになぜ、徳島県に?との思いから、リュックから遍路地図とガイドブックを取り出し、急いでそれらに目をやった。そして、よく調べたところで、私達の疑問は解消された。
雲辺寺は、香川県で最初の寺ということにはなっているが、実は徳島県の池田町にある寺なのだ。徳島県の最も香川県寄りにある場所なので、もしかすると昔はここまで讃岐之国だったのかもしれない。現在では、徳島県に取り込まれてしまったが、お遍路の順番上、讃岐之国の寺として残しているのだろう。昔の所在の国に対応する現在の所在の県が違うのは八十八ヶ所中でも、この寺だけである。
珍しいケースに驚きはしたが、これから始まる困難なことの前では、はっきり言って小さいことであった。
遍路道へ
“徳島県”と、書かれた県境の看板から走ること15分。ついに”へんろ道”と書かれた看板が現われた。ここからは、寺に辿り着くまで、とにかく登り続けるものと思われた。まずは、急な山の斜面を延々と登って行く。舗装もされてない、人一人が通るのがやっとの道だ。私達が登り始めてすぐに雨が降ってきたので、昼なお暗くジメジメして、コケが生えて滑りやすい遍路道は更に滑りやすくなった。
少し足を前に踏み出すだけで、山肌の石が、土が崩れ、登りにくいことこの上なかった。崩れては、後ろに戻されながらも登っていかなければならないので、余計に体力を消耗してしまう。おまけに、ぬかるんだ地面を強く踏みしめると、余計に崩れやすくなるので、そうならないように力の加減もしなければならなかった。
しかし、これには参った!体力の余分な消耗だけならまだしも、気まで使わなければならないのだから。私達は、10分も登ると、登るのが嫌になって、見晴らしの良いところで休憩することにした。ここでは、わずかながらの唯一の手持ちの携帯用食料を口にした。
これから続くであろう山登りには、はっきり言って不安過ぎるくらいの量の燃料補給だったが、無いよりはましだった。
地獄
燃料補給を終えると、すぐに山登りを再開した。延々と続く悪路の山道は、私達の気力と体力を情け容赦なく奪っていく。おまけに山道の傾斜が、あまりにも急なため、膝はガクガク、大腿筋はミシミシと悲鳴をあげる。
よって、10分以上続けて登り続けることは不可能。約10分単位で、登っては休み、登っては休みを繰り返す。そうやって、少しづつだが、確実に私達は前へ進み続けた。だが、それを何回か続けて、休憩している時に、私はアホの末の異変に気付いた。顔が真っ青なのだ。どうやら、風邪をひいて調子が悪いらしかった。
この男は、いつも毎回お遍路をする度に風邪をひいている。頭と体が弱いのもあるかもしれないが、やはり日頃の行いが悪さが体調を崩す最大の原因ではないかと思う。それに対して私は、ここ数年、風邪なんてひいいたこともないし、体調を崩したこともない。それも、日頃の行いの良さが原因であることは間違いない。
身近に、こんな良い見本がいるのだから、アホの末には是非とも私の行いを見習って、肉体改造ならぬ人間改造をしてもらいたい。肝心な時に、体調を崩して、私に迷惑をかけないためにもだ。
それはともかく、雨の降りしきる山の中では、満足に体を休めることもできないため、アホの末の体調は、どんどん悪くなっているように見えた。とはいえ、こんなところでリタイアさせるわけにはいかなかった。私もこいつよりは体力を余しているとはいえ、こいつを抱えて山を登ることや降りることが出来るほどの余裕は無かったからだ。また、助けを待つにしても、この悪天候で山を登ってくる人の存在なんて期待できそうにもない。
よって、アホの末には、「いくら体調が悪くても、この状況では行くしかない。動かないでいればいるほど、雨が体温を奪って体が冷えるだけ。ゆっくりでもいいから行こうや。」と、声をかけた。アホの末も、どんなに体調が悪くてもリタイヤする気は毛頭ないようで、「無理せんかったら、どうにかなるいや。」と、答えた。
そのポジティブな返事を聞いて、私は安心したが、山登りを再開した時のアホの末の足取りを見て、すぐに不安な気持ちに戻された。足取りがフラフラだったのだ。それも無理はない。体調の良い私でも無理をしているのだから、この過酷な山登りでは、”無理をせんかったら”なんて、絶対に不可能なのだ。
“これで辿り着くことができるのか?”と、この時、私の心は過去最大の絶望感に襲われていた。
恐怖
携帯電話の電波も届かないような山奥の山道を私達は登り続ける。アホの末は下を向いたまま、よろめきながら歩を進める。それを後ろから心配そうに見守る私。最初、10分おきのインターバルでの休憩だったのが、それが5分おき、3分おきと、インターバルがどんどん短くなる。アホの末は、気力だけで体を動かしているのだから、それも無理はないのだが、私はいつかこいつが倒れるのではないかと心配で心配でならなかった。
ただ、私も人のことを心配している場合でもなかった。満足に昼飯を食ってなかったために、体が思うように動かせなくなっていたのだ。いわゆるハンガーノックに陥っていた。これまでで最強の敵を前に、ハンガーノックに陥ることは、はっきり言ってヤバかった。ハンガーノックは、体が動かなくなるだけではない。力がでなくなるために、気持ちが、心までもが折れてしまうのだ。
確かに、この時私は、力が出ずに体が思うように動かせないことから、心が折れそうになっていた。だが、風邪+ハンガーノックで、私より遥かに辛い思いをしているアホの末が、倒れずに頑張って登り続けているのを見ると、そうなってはいられなかった。”アホの末より俺の方がマシ”そう思うと、前へ出す足に力が入った。
小指で押しても倒れそうな、この時の私達を支えていたのは、ゴールへの執念というよりは、行き倒れになることの恐怖だった。
脱出
もはや二人に会話はなかった。とにかく、黙々と私達は登り続けた。”もしも、このまま動けなくなったら!”とか、”まだ半分も来てないとしたら!”とか、マイナスのことを考えると、体が動かなくなるのは確実なので、そういうことは考えないことにした。というか、この時は、体を動かすのが精一杯で、そんなことさえ考える余裕さえなかったのだが。
どれくらい私達は光も射さない暗い山道をさまよっただろうか。もはや、何も考えないで、うつむいて登り続ける私達だったが、ある異変には気付いていた。少しづつではあるが、周りが明るくなってきていたのだ。
これは、出口が近いということだった。”終わり”が見えたことで、私達の暗く沈んだ気持ちも少しは浮上したのだが、それで浮き足立つことはなかった。いくら、出口が近いとはいえ、ここで油断して動けなくなってしまったら、これまでやってきたことが露の泡と消えるからだった。よって、状況が変わろうと、私達のやることは同じだった。周りが明るくなり始めてから、どれくらい経っただろう?おそらく20分ぐらいは経っていたに違いない。
ようやく狭く暗い山道から、舗装された道に出たのである。時計を見ると、時刻は午後1時半を過ぎていた。登り始めてから、約2時間が経っていた。時間的には大した時間ではなかったのだが、私達のコンディションと、これまでで最強の敵を相手にしていることを考えると、すごく濃密な時間に感じられ、その長さも数倍に感じたのだった。
私達はとりあえず遭難という最悪の状況からは逃れられたわけだが、まだ舗装道に合流できただけで、寺に到着したわけではなかった。安心するのは、もう少し先のことだった。
白い世界
これまでのけもの道のようなとんでもない悪路と比べると、舗装道は傾斜も緩やかで、足の力をダイレクトに地面に伝えられる分、登るのは楽だった。いや、楽だと言うと語弊があるかもしれない。それでも登るのはキツいことに変わりはない。あくまで、これまでの道と比べたらということである。
この時、私は既にハンガーノックを乗り越え、体力は回復傾向にあったが、問題はアホの末であった。当然であるが、無理をしているために症状はますます悪化しているようだったのだ。これは、到着してから休まないとどうにもならないと思い、中途半端に休んで気持ちを途切れさせるのを避け、とにかく登り続けた。
辺りは、雨上がりのため、濃い霧が立ち込めて20m以上先は全く何も見えなかった。 真っ白な幻想的な世界。この中では、感覚がマヒして時間も距離も分からなくなる。その真っ白な世界は、何も考えてない私達の心の中を象徴していた。私は、アホの末よりは体力的に余裕があったから、何も見えない、何も考えないこの状況を楽しんでいた。何もかもが真っ白になるなんて、そう滅多にあることではないから、この経験は貴重だった。
宝
舗装道も長くは続かなかった。15分ほどで、毎度お馴染みの”へんろ道”と書かれた立て看板が現われたのだ。それには、”雲辺寺1㎞”と、書かれていた。雲辺寺までの最後のへんろ道であった。
私達は、その立て看板を見て怯むことはなかった。どんな、困難が待ち受けていようとも、どんなに体力を消耗していようとも、ここまで来た以上、行くしかないのだから。いわば居直り。だが、これは裏を返すと、”諦めない”ということ。これは、私達がここまでの過程で、いつの間にか手に入れた宝だった。
到着
最後のへんろ道へ入ってから25分あまりで、ようやく私達は雲辺寺に到着した。三角寺を出てから、4時間半、山中のへんろ道へ入ってから3時間あまりの、長い長い道程であった。アホの末は、到着するなり、すぐに休憩所でバタンキューッ!と、仰向けになった。緊張で張り詰めた心の糸が、緩んだからか。ここまで心も体も酷使してきたから仕方がないことだった。
アホの末が寝込んでいる間に私は、食い物屋を探した。ところが、ここは標高900mを超える山の上。寺の境内の中には、食い物を売っている店も飲食店も無かった。やむを得ず、私は自動販売機で甘ったるそうな缶コーヒーと、500ml缶の炭酸飲料を2本づつ買った。食い物からエネルギーを摂取できないのならば、飲み物から摂取しようという安易な考えからだった。
すぐにアホの末のところにそれを持って行き、二人でそれを飲んだ。それで空腹感が満たされるということはなかったが、喉の乾きは潤せた。また、幾らかエネルギー摂取ができたという安心感を手に入れることもできた。 アホの末も、休んでエネルギー摂取ができたからか、20分後にはどうにか動ける状態になった。
第66番 雲辺寺
雲辺寺は、四国八十八ヶ寺の中でも最も高所にある寺である。寺がある場所の標高は900mを優に超える。四国で最も高い場所にある寺だから、「四国高野」とも呼ばれている。
私達は、苦労して登ってきたわけだが、標高300m付近からロープウェイが出ており、所要時間7~8分で登ってこれるらしい。金さえ出せば、楽ができるというわけだ。ちなみに、山は100m登るごとに1℃温度が下がるといわれる。ここは、標高900m。よって、下界との温度差は10℃近くにもなる。麓は、夏の暑さが残る残暑だというのに、ここはやけに涼しかった。
まず私達は本堂で納経を済ませ、少し離れた大師堂へ向かった。その途中で私達が目にしたのは、おびただしい数の坊さんの石像であった。この石像の坊さん達の名を、五百羅漢と言う。釈迦の下で修行した500人の優れた弟子達のことである。いちいち一体一体数えることはしなかったが、五百羅漢というからには、500体あるに違いなかった。そのどれもが違った表情、ポーズをとっており、一体として同じものは見受けられなかった。最近、中国から輸入されて設置されたものらしく、昔からあるものではなかったが、500体もの壮観な眺めは私達の目を楽しませてくれた。
大師堂で、ここまで無事に辿り着けたことを感謝しつつ納経しながらも、私は思った。本当に弘法大師が造ったものかどうかは分からないが、よくもまあこんな高い場所に寺を作ったものだと。1200年前には舗装した道路はない。ましてやロープウェイなんてものも無い。私達が登って来た、人一人が通るのがやっとの悪路を人夫が材木や石などの資材を担いで登ったのである。何百人という労働者を雇い、何年もかけて建築したに違いなく、何でそこまでしてこんな便利の悪い高地に造らなければならないものかと疑問に思うことしきりである。
でも、俗世間と離れた修行し易い環境だったから、ここに敢えて寺を建造したということなら納得がいく。確かに、ここは修行に没頭するにはうってつけの場所である。そして、更に思った。ここまで、苦労させて自分の足で登ってこさせることも、その目的ではないかと。ここまでの道程の過酷さは、並大抵のことではない。ここに無事に辿り着けるだけで、信心深い、信心深くないに関わらず、あらゆるものに感謝の気持ちを抱けるようになる。
私のような傲慢な者が、こうやって感謝の気持ちを抱いているのだから、その効果はてき面である。”お大師様は、よく考えられたものだ。”そう思った瞬間に納経は終わった。ここまで来るのは辛かったが、辛い思いをした分だけ、私の心は感謝の気持ちで溢れていた。それは、おそらくアホの末も同じだったはず。
寺を後にする私達を、ここまで頑張って登ってきたご褒美からか、沿道に並ぶ五百羅漢達も笑顔で見送ってくれているような、そんな気がした。
復活
雲辺寺からは、下るばかりだった。それもそのはず。ここへ来るまで、私達はひたすら登ってきたのだから。だが、下りばかりとはいえ、全部が全部マウンテンバイクに乗ったままで下れるわけではない。当然のごとく、階段や急な斜面の凸凹道では、マウンテンバイクを降りなければならない。それでも、登るよりかは遥かに楽。転倒しないように気を使わなければならないという煩わしさはあるが、ただ体が重力に引っ張られるに任せれば良いのだから。
アホの末が、”暑い!”と言って立ち止まり、上着を脱いだ時にこいつの顔を見て気付いた。先ほどまでは体調の悪さから青ざめていた顔の血色が良くなっていたのだ。十分に休憩をとれたことと、体力を使わない下りで体が慣れてきたことが関係しているかもしれない。しかし、それよりも私が飲ませたコーヒーとジュースの効き目の方が大きいのではないかと思った。一日中、体調が悪いままで私の足を引っ張るようであれば、ジュース代の240円を請求しようと思っていたが、どうにか復活したということで、ジュース代は請求せずに奢りにしてやることにした。
アホの末は、奢りにするという私の寛大な心を知る由もなく、自分一人で復活したような顔をしていた。全く他人に感謝の気持ちを示すということが出来ない奴。本人はどうとも思ってもないかもしれないが、これは、本人にとっては不幸なことである。
第67番 大興寺
下りに下って、走ること1時間20分。思ったよりも簡単に次の寺である大興寺へ到着した。山門をくぐり、私達を出迎えてくれたのは参道の横に”デンッ!”といった感じで聳える、それはそれは大きな木であった。
近くに設置された看板を見ると、これはカヤという種類の木らしく、樹齢は1200年余りと書いてあった。樹高もなかなか高いのだが、すごいのは幹の太さと四方に伸びた枝の長さだった。看板には幹の周囲は4m余りと書いてあるが、とんでもない!一番太い根元近くのところで直径は4mちょっと、幹周は13~14mはあるように見えた。おまけに四方に伸びた枝の長さは、樹高を遥かに超えていた。確かに樹齢1200年と言われれば、納得するだけの巨大さではあった。
“1200年前に吹けば飛ぶような、か弱い幼木だったものが、1200年後には、こんなにも大きく強靭なものになるなんて!”と、木を見上げながら、生命の神秘を感じた。そして、思った。”もし私達人間が老いることなく、向上心や目的を持って1200年も生きられるのなら、一体どれだけのことができるであろう?一体どれだけ賢く強くなれるのだろう?”と。
そんなことは、絵空事であり、想像上のことである。私達には老いがあり、よく生きても100年という寿命しかないかのだから、そんなことを思っても仕方がないということもよく分かっている。ただ、1200年もの間、風雪に耐え抜き、現在もなお圧倒的な存在感を放ちながらも生きているカヤの木を見ていると、どうしても木の存在を私達人間に重ねてしまうのである。
カヤの木は、自分がここに在ることを主張しない。カヤの木だけではない、他の巨木も自分がここに在ることを主張しない。だが、主張はしなくともそこに在ることは、遠くからでも分かる。必要以上に自分を強く、大きく見せようとする人間とは違う。巨木を見るたびにいつも私が思うこと、それは”謙虚さ”であり、”強さ”である。
カヤの大木と別れ、私達は本堂へ向かった。参道のカヤの大木のインパクトが強すぎて、本堂、大師堂はすごく、地味で小ぢんまりしているように見えたのだが、それは仕方がないことだった。この寺は、カヤの大木が真ん中にある。つまりカヤの木が主役であり、本堂をはじめとする建築物はおまけなのである。
10分ほどで、納経と記帳を済ませ、寺を立ち去ろうとする私達の目についたのは、一匹の子猫であった。寺の境内に住み着いている猫らしく、人に懐いているようで、私達が近づいても逃げようとはしなかった。
この時、時刻は午後4時半近く。約11㎞ほど離れた次の寺まで30分余りで到着しなければならなかったから、子猫にかまっている暇なんてなかったのだが、その可愛いさが堪らんようになり、つい、しばしの間、子猫と戯れてしまった。
時間との闘いというピリピリとした局面にあっても、こういう癒しの時間は必要である。子猫と戯れたおかげで、幾らかの時間がロスしはしたが、十分に癒されたとあって、”何がなんでも納経所の閉館時間に間に合わせなければならない!”という切羽詰った、ピリピリした気持ちはなくなった。
チャレンジ
30分ほどで、11㎞ほど進まなければならないのだから、また、途中で信号待ちや、進むべき道の確認をしなければならないことを考慮するとなると、最低でも平均時速30㎞ぐらいで走らなければならない計算になる。 それを、雲辺寺の山登りで疲れきった体で、しかもアホの末は復調したとはいえ、本来の調子ではない体で行えとなると、30分で到着することは限りなく不可能なことのように思えた。
だが、すぐ目の前に次の寺があり、しかもわずかとはいえ、制限時刻までに到着できる可能性があるとなると、私達は行かなければならないのである。「お前は、体調が悪うてキツいかもしれんけど、とにかくチャレンジしてみようや!」と、アホの末に言葉をかけると、お互い何も言うことなく、すぐにマウンテンバイクに跨った。
妥協
とにかく、あらん限りの力を込めてペダルを踏みまくった。殆どの信号は無視した。途中で違う道に入って迷うことはあったが、それに気付くのが早かったので、すぐに本筋に復帰できた。アホの末は、体調が悪いながらも頑張ってペダルを踏んでいたので、平均時速で30㎞は優に出ていた。おかげで、サクサクと進むことができた。
だが、制限時刻の午後5時まで、残り10分とせまった時である。アホの末のペースが、ガクンッと落ちたのである。体調が完全復調してない体で無理をしたのだから、それも当然だった。むしろ、ここまで20分間よく頑張ったものだと思った。残り約4㎞ちょっとを10分で行かなければならないとなると、この落ちたペースでは、まず無理であった。
アホの末に鞭打って、どうにかペースを上げさせようかとも考えた。しかし、ここで無理をさせると、翌日に影響する。また、次の寺は街中にあるため、記帳に間に合わなかったとしても、寺の近くで野宿して翌日に納経すれば良いと考えたので、アホの末に鞭打つことはやめて、後ろからその走りを見守ることにした。いつもなら、どうにかしてでも時刻に間に合わせようとするところ。私はせっかちである、自分の決めたことが、決めたとおりにいかないと納得しない性質である。そんな私が、一歩引いた考え方をしたのは、前の寺で子猫と戯れて、癒され、気持ちに余裕ができたことが原因であった。
自業自得
私は後ろから、アホの末の走りを見ていた。時おりフラつきながらも、決してペダルを踏む力を抜こうとはしなかった。よく頑張っていると思った。だが、それでもこいつ本来の体調ではなく、体力も底をつきかけていたから、ペースはどんどん落ちていた。
その姿は、後ろから見ていて痛々しかったが、この時、ふと思った。私は、こいつの調子がいい時を、あまり見たことがないと。これまでに見たことがあるのは、調子が普通か調子が悪いかのどちらかである。バリバリに調子が良い時なんて見たことがない。それどころか、半分くらいは調子が悪かったようにさえ思う。調子が悪いのは、普段の健康管理と行いの悪さからだということは、以前から述べているとおり分かっていること。以前から、こいつには助言として”日頃の行いを正せよ!”と、言葉を与えているのだが、謙虚さの微塵もないこいつは、私の助言を聞き入れることをしない。
それならそれで、本人のことだから、それ以上言うことはしない。だが、結局はこういうとこで、私の助言を聞き入れないがために痛い目にあうのだ。本人がこんな辛い目にあうのは、要は自業自得ということ。 “体調悪いのに根性見せて頑張るのは大したもんやけど、自分の傲慢さのせいで、しなくてもいい苦労をしとるということを、よう自覚せえよ!”と、後ろからアホの末に心の中で問いかける私。
アホの末の心に届いて欲しいという願いを込めて、心の中で問いかけているのだが、おそらく本人の心に届くことはないだろう。故に、また同じことを繰り返すようになる。アホの末も30を過ぎたええ大人。ええ加減に、己の愚かさを知るべきだ。
第68番 神恵院・第69番 観音寺
やはりというべきか、到着したのは午後5時を10分過ぎていた。ところが、運が良いことに納経所は閉める寸前であり、急いで納経所に駆け込んだ私達は、第68番神恵院、第69番観音寺の2寺分の記帳をしてもらったのだった。
ここでは、私の日頃の行いの良さが活かされた形となった。ここは、同じ境内に神恵院と観音寺という2つの寺があるお得な場所である。故に納経も一度に2寺分済ませることができる。2つ寺があるのは、明治の神仏分離令で、もともと一つだったものを2つに分ける時に、片方を院号を使って神恵院として、片方を寺号を使って観音寺としたかららしい。四国八十八ヶ寺の中でも、同じ境内に2つの寺があるのは、ここだけらしい。
私達が到着した時は、納経所が閉まる時刻ということもあり、私達以外には一人の歩きお遍路さんしか確認することができなかった。いざ、納経しようと、第68番神恵寺へ行こうとして驚いた。何と!本堂はコンクリート打ちっぱなしの造りなのである。まるで、第61番香園寺をコンパクトにしたような造り。プラモデルでいえば、香園寺の10分の1モデルであった。
香園寺の時も思ったが、趣も風情も何もない造り。こんなのが、四国八十八ヶ寺の一つであっても良いのかという気にさえなる。”建物が新しいのは、別に構わないとして、建て替えるのなら、せめて木造にしろよ!”と、心の中でぶつくさ言いながら納経したのだが、現在では建築基準法や消防法やらの規制が厳しいから、このようにしたのかもと思い、無理矢理に自分を納得させようとした。
でもしかしである。やはり寺や神社は、どんなことがあっても木造だと思うのだが。
第69番観音寺の大師堂までの納経を終えた時は、既に午後6時になろうかとしていた。いつもの2倍納経したから、時間がかかるのも当然だった。この日の全てを終えホッと気を緩めた時に、私はようやく激烈に腹が減っているのに気付いた。その激烈な空腹感は、めまいがしそうになるほどだった。無理もない。この日は、朝飯を食って以来、携帯食とジュースを口にした以外は、何も口にしていなかったのだから。
店探し
寺を出た私達は、店を探すことにした。いつもなら、次の寺まで走りながらのん気に探すところだが、この時は、そんな余裕はなかった。
めまいがしそうになるほどの、この状態が1時間も続けば倒れてしまいそうになるほどの激烈な空腹感だったから、とにかく一番最初に目についた店に入ろうと思っていた。また、何を食いたいとかいう希望もなく、腹に入れば何でも良かった。
そんなことを考えながら走ること10分余り。私達の目に最初についたのが、某スーパーだった。”あそこに行けば、何か食わせてくれる店があるかも!”そう思った私達は、迷うことなく、某スーパーに入って行った。
ディナー
某スーパーの中で見つけたのが、うどんのチェーン店だった。普段なら、まず入らないようなチェーン店ならではの、画一化された個性のない店だったが、この時はそんなことさえ考えずに店内に入った。メニューを見ると、これまた食欲をそそるようなラインナップは見当たらず、とりあえずは一番腹が膨れそうなカツ丼とうどんの大盛りセットを注文した。
注文したものがテーブルに並ぶと、私達は堰を切った水のように、勢いよくそれに食いついた。ガツガツと餓鬼かハイエナのように無言で食い物を貪る私達。他人の目に、その光景は異様に映ったことであろう。
5分とかからずに食い終えた私達は、ようやくお互いに言葉を発した。”生き返ったな!”と。食べるというよりは、ただ胃袋に食い物を詰め込むという作業だったので、食ったものの味なんてわからなかった。だが、激烈な空腹感が無くなったというだけで、また動けるエネルギーを得られたということで、私達は満足していた。
温泉
実は、某スーパーへ行く途中に公園と公衆浴場を見つけていた。また第67、68番の寺の方に戻るような形になるが、疲れきった体で探し回るのも嫌だから、この日はそこでお世話になることにした。
というわけで、まずは温泉に向かった。お目当ての公園を通り過ぎ、500mほど走ったところに、その公衆浴場はあった。おそらく埋立地なのだろう。周りには何もなく、すぐ側は海というシチュエーション。公衆浴場は、東京ドームが何個も入るような広大な敷地のど真ん中に建っているのだが、一見しただけでは巨大過ぎて何の施設か分からなかった。
また、駐車場も何百台も駐車できるほど巨大であった。時間帯が風呂時とあって、それだけの巨大な駐車場でも満車だった。満車とあって、これは浴場も混み合っているかもと思いきや、やはりその通りだった。巨大な施設に見合うだけの巨大な浴場だったのだが、その中は何百人という人がすし詰め状態であり、とてもではないが、ゆっくり湯船に浸かっている状況ではなかった。
私は、生まれながらに人が多い場所が嫌いな性分。それは、おそらくアホの末とて同じである。互いに、湯船にゆっくり浸かることは諦め、シャワーで体の汚れだけを落として、すぐに浴場から出た。湯船に浸かって、疲れを落とせないのは残念だったが、前日、前々日に続き、風呂に入れただけでもラッキーであった。
寝床探し
公衆浴場を後にした私達は、一路公園へ向かった。公園で寝る場所を確保するためだが、公園に着くと、思っていたのと違うことに気付いた。公園に便所はあるのだが、私達が寝転がるような場所がないのである。東屋は公園の池の中にあるのはあるのだが、あまりにも小さく中も狭いため、人が横になれるようなスペースは無い。そこ以外には、コンクリートが打ってあったり、舗装してある場所もない。
要するにここは、林の中に便所がポツンとあるだけの私達の思い描いていたのとは違う、公園とは名ばかりの公園なのである。幾ら、何処でも眠れるとはいえ、地べたの上に直接は嫌である。地面の湿気で濡れるし、虫だって這っているし、雨だって何時降るとも分からない。
よって、この公園で寝る場所を確保するのは諦め、公園から100mほど離れた道の駅で寝場所を確保することにした。しかし、この道の駅も、”道の駅”とは名ばかり。食堂兼みやげ物屋の小さい建物が一軒ほどあるだけで、そこには便所も駐車場も無いのだ。これで、道の駅と言えるのかというほどの粗末な施設なのだが、道の駅という看板が出ているし、地図上にもきちんと”道の駅”と表示されているから間違いなかった。
それでも、店の軒下であれば、多少の雨なら防げるし、コンクリートが打ってあるので、公園で寝るよりはマシである。よって、この日は道の駅で寝ることにした。
就寝
店の軒下に蚊帳を張ろうとした時に気付いた。そのどこにも蚊帳を張る紐を結ぶ箇所がないのだ。やむを得ず店の軒下から10mぐらい離れた駐輪場に蚊帳を張り、そこを寝床にすることにした。”駐輪場にも屋根が付いているので、ここでも多少の雨が防げるはず。”そう思い、蚊帳を張り終えた私達は、蚊帳の中に入り、寝袋を敷布団にして、その上に寝転んだ。
この日は、初秋の夜とはいえ、むし暑い熱帯夜であったから、寝袋の中になんて入っていられなかったのだ。横になった私達は、あまりもの疲れのため、口を開けるのも面倒臭かったのか、一言も会話を交わさなかった。上を見ても屋根で、星が見えるわけでもないのだが、疲れ過ぎで目が冴えて眠れなかったので、私はずっと真っ暗闇を仰ぎ見ながら考えていた。”俺は、いろいろ捨てながらここまでこれただろうか?””最後、終えて帰る頃には、要らないものは捨てられて、少しは身軽になっているだろうか?”などと。
どれほど仰ぎ、考えてただろうか。そのうち、アホの末のいびきが聞こえてきた。アホの末の間抜けないびきを聞くと、直面している現実に引き戻される。よって翌日のことを考慮し、考えるのを止め、目をつむった。空がゴロゴロと鳴るのが聞こえる。それまで無かったヒンヤリした風も吹いてくる。”これはもしや雨が降るかも・・・。”と、朦朧としながら思いはしても、眠りに落ちていこうとしている身には関係のないこと。起き上がって、念のために安全な場所へ動こうという気には、もはやならなかった。
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