座禅 -第一回目-

カテゴリ
 ANOTHER
開催日
2004年09月20日()

坐禅は以前からやってみようと思っていた。やり方を書いた本を読んでいたから、坐禅のやり方は知っていたのだが、家では気が散ってやる気にならないので、どこか坐禅をさせてくれる寺はないか探していた。「求めれば見つかる」の言葉どおり、坐禅をさせてくれる寺はすぐに見つかった。通勤する道中で、「参禅道場」と書かれた看板が置いてある寺をみつけたのである。 さっそく、前日に電話して参加させていただくことにした。

この寺では、毎週月曜日の朝5時15分から6時まで坐禅会をやっているそうだ。末も坐禅には興味を持っているようなので、末も誘っての参加となった。

朝4時に起きて、4時半に末が来るのを待って出発した。日が昇るのが遅くなったため、外は真っ暗である。坐禅をさせてくれる寺までは、私のアパートから徒歩で6~7分ぐらいだ。寺に着いた時は、早すぎて門がまだ開いてなかった。 5時くらいに、寺の門が開かれ、中から住職が出てきた。電話での温和な話し方とは反して、大きくてごつい住職だ。思わず、「何か運動をされていたんですか?」と聞きそうになった。

「こちらへどうぞ」と言われて、本堂に通される。大きくて、歴史の感じられる立派な建物だ。私達が待っている間に住職は鐘を撞いていた。私のアパートからこの寺までは結構近いのだが、鐘が鳴るのは初めて聞いた。普段はこの時間は寝ているので、それも当然だ。

定刻の5時15分になって、私達以外にようやく一人の男性が現れた。初老の大柄な男性。私はこの男性を見たことがある。どこでかは、分からないが、顔に見覚えがあった。

私達は初めてということで、住職に道場での作法から教えていただいた。それから、坐り方を教えていただいたのだが、両足を腿の付け根の上に乗せる「結跏趺坐」、片足を腿の付け根の上に乗せる「半跏趺坐」のどちらとも私はできない。足の関節が固いのか、足が太いからかは分からないが、おかげで、両足のくるぶしを重ね合わせただけの、変なあぐらをかくような坐り方でやらざるを得なかった。坐禅の基本的な座り方は、「結跏趺坐」だという。両膝を床につけて、坐布と呼ばれる厚めの座布団に坐ることにより、両膝と尻とで、三脚を作るような形になるため、姿勢も安定して、足が痛くならないらしい。結跏趺坐ができていない、あぐらをくんだだけの私は、非常に姿勢が悪い。それは自分でも分かった。両膝が床につかないため、尻だけで己の体を支えるようになるからだ。ふと、横を見ると、末は見事に結跏趺坐で座っていやがる。姿勢も良い。末にできて自分にできんということが、全然面白くない。しかし、これが現実、仕方がない。

一通りの説明を終えて、5時20分頃に太鼓の音とともに坐禅が始まった。坐禅をするのは、私と末とごついおじさんと住職の4人だ。この寺では、住職も一緒に坐禅をするために、策で肩を叩かれることはない。 坐禅は精神統一をするためにやるとか、自分を見つめるためにやるとか、何事にも動じない胆力をつけるためにやるとか、無になるためにやるとか、いろいろ言う人がいるが、何かを求めてやってはいけないそうだ。何も求めず、ただ坐るのみの、無所得の坐禅でなければならないという。 何も求めずにやる人がおるんかいなと思いながらも、とりあえず、坐れば何かが分かるだろうと思い、坐ることに集中することにした。集中しようという気持ちさえもが、心を乱す。何かを考えるのは、ここでは厳禁だ。

この寺は曹洞宗なので、壁を向いて坐禅をする。始まってしばらくは、壁の障子を眺めていたのだが、10分もすると、姿勢の悪さから腰が痛くなり、また、それに伴って、両足のくるぶしが痛くなって、そちらの方に気がいくようになった。 そちらに気がいくようになると、尚更痛くなる。おまけに耳元にプ~ンと蚊がとんできてすごく気になる。いつもなら、ぶっ潰すところだが、この時ばかりは動くわけにはいかない。それでも我慢してじっとしていたら何ヶ所か咬まれてしまった。 足が痛いのと、痒いので、全然集中できない。すごく心乱されている。俺がこうなら末はどうだとばかりに、横目でちらっと末の方を見ると、何と!ピクリと動くこともなく、静かに坐っている。一体どうしたことだ。俺より先を行ってやがる。末のことを忘れようと、坐禅に集中しようとするが、どうしてもできない。時間が長く感じる。風がそよそよとそよぐ、涼しくて気持ちの良い朝なのに、痛さと痒さで、全然気持ち良くない。痛さを我慢するあまり、汗までかいてくる始末だ。

痛みもだが、あまりの痒さに耐えられなくなり、住職の目を盗んで、ボリボリかいてしまった。見つかるとか、見つからないとかの問題ではない。痒いのに気がとられて、かくこと事態、もう、坐禅ではない。それでも、残り時間をきちんとやり遂げようと、立直そうとするが、一度、心乱れたものは、未熟な自分にはどうにもできない。残りの時間は、自分の呼吸の数を数えて、どうにか気をまぎらした。

ピピピピッとアラームが鳴り、住職が太鼓を叩いて、坐禅が終わった。坐禅、初体験の自分にとっては、40分という時間は、途方もなく長い時間であった。やっと終わったと、ホッとするものの、足が痛くて立てない。それでも、隣の人に終了の礼をしなければならないため、無理やり立って、足をガクガクさせながらも、礼を済ませた。

一体、自分は、何をしにきたのだろうという気になった。坐禅の基本である、結跏趺坐や半跏趺坐ができないのは、仕方ないとしても、たかが40分の時間を落ち着いて坐ることができないとは、自分というものの本質を疑いたくなった。

末はというと、飛び回る蚊が気になったものの、足も痛くならず、それなりに落ち着いてできたみたいで、あっという間に時間が経ってしまったとのことだった。私から見ても、それなりの型にはなっていたようだから、やった甲斐があったというものだ。さしずめ、今日、体験したことで、坐禅という門の入口には立てたのではなかろうか。それに比べて私は、門の入口にも立ててない。坐禅をやりに来て、坐禅をしてないのだ。ガックリとうな垂れているところへ、住職がお茶を持ってきて、接待してくださった。 坐禅の話をあれこれとされ、私にも、結跏趺坐ができるようになるようにと、丁寧に練習方法を教えてくださった。まだ、坐禅をこれからも続けるかどうか分からない自分に、こんなに丁寧に教えていただいても、と思ったが、一応、熱心に耳を傾けた。

帰り際にごついおじさんは、「気持ちよかったあ!」と言っていた。この人は、ここへ通うようになって1~2年ぐらいらしいが、ここ最近ぐらいから、気持ち良さを感じるようになったという。痛みしか感じることができない自分には、気持ちよいという感覚を、とうてい理解することはできない。ごついおじさんと別れる時に、「次回も来られますか?」と聞かれたので、小さい声で「はあ、来れたら。」とだけ返事した。ただでさえ憂鬱な週の始まりである月曜日の、しかも早朝のことであるから、安易に返事をするわけにはいかない。

これでやめるとしたら、一日体験で終わるからいいとしても、次回も参加したら、自分の性格上続けなければならなくなってしまう。限りなく今回限りで終わる方に気持ちが傾いているが、根性なしとも思われたくない、坐禅ができるようになりたいというのもある。今後どうするか迷うところだ。

 


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