萩往還 MTB縦走
- カテゴリ
- BICYCLE
- 開催日
- 2008年06月14日(土)
きっかけ
「萩往還を走ろうやぁ!」と、アホの末が私に言ったのは1ヶ月前のこと。萩往還を走ってから6年経っていることもあり、懐かしさも手伝って、すぐにOKした。
だが、私がすぐにOKした理由はそれだけではなかった。小中高と12年間同じ学校へ通っていたセージが、萩往還に参加することをアホの末から聞いていたことも理由としてあった。セージとは高校を卒業して以来、5~6年前に菊ヶ浜でバッタリ偶然に会っただけで、それからは会っていない。互いに音信不通だったので、今のセージがどんな奴になっているかを確かめてみたかったのだ。
サイクリング日和
梅雨入り宣言がされたというのに、この日はあいにくの晴れ。晴れの方が写真も撮りやすいし、景色も良いのだが、晴れると暑くなるのがどうにもいただけない。暑いと、陽に焼けるし、汗を大量にかいてしまうので、疲れやすくなるのが良くない。曇りか小雨が降るぐらいが丁度良いのだが、それは私の我がままというもの。大雨が降るよりはマシと思い、とりあえず、そうならなかったことに感謝した。
再会
集合場所である指月公園の入口のベンチに腰掛けて待つこと15分。アホの末を筆頭に村上さんとセージが、集合時間より少し遅れて現れた。
セージと5~6年前に偶然会った時は、お互いに取り込み中だったため、一言か二言だけ短い言葉を交わしただけだったから、セージのことを良く観察することはしなかった。だが、こうやってほぼ18年ぶりに再会すると、歳相応に老けた以外は、少し雰囲気が変わった以外は、高校生の頃とあまり変わってないように見えた。それが良いことか悪いことかは分からないが、変わり様の少なさに、何故か安堵感を覚えた。
出発
4人揃った私達は、スタート地点である指月公園内の萩城跡前に移動した。ここから、防府市三田尻の旧毛利別邸までの約60㎞が萩往還だ。
既に経験しており、しかもあの時よりも体力が向上しているのだから、今回は楽勝だと思った。よって、今回の萩往還での私の目的は、前回は撮らなかった写真をきちんと撮ることと、楽しむことであった。朝焼けの眩しい中、私達は予定より20分遅れで、萩城跡前を出発した。
朝飯
萩城のある指月公園を出てから、私達は街中をサクサクと進んで行く。私の予想として、萩有料道路を越えてから最初の休憩をするかと思いきや違った。先頭を走るアホの末は、吸い込まれるように、セブンイレブンのへと入って行ったのだ。それを追いかけて後続の私達もセブンイレブンへ入った。まだ2㎞ぐらいしか走ってないのに、これはどうしたことかと、アホの末に問うたところ、ここで朝飯を食うとの答えが返ってきた。
私は朝飯は食っていたのだが、これからの長丁場を考えると、ここでも食っておいてた方が良いと思い、アホの末に追随することにした。ここで腹に入れたのは、菓子パン1個とオレンジジュースのみ。大したカロリーではないが、”食ったから、より動ける”という安心感を手に入れることができた。
感動
セブンイレブンを後にした私達は、どんどん走り続けた。まず最初に萩有料道路前の坂が私達に襲いかかるが、こんなのはまだ序の口、難なく走り抜ける。萩有料道路の坂を登りきり、料金所横の脇道に入って100mほど行ったところにあったのは、懐かしの遍路道ならぬ、昔の萩往還の姿を今に残す旧道であった。
丸太が敷かれただけの階段や、舗装がされてない地肌が剥き出しの道を見ると、木々の発散する匂いや土の匂いを嗅ぐと、四国八十八ヵ所の遍路道を思い出す。懐かしさと共に、感動にも似た思いが胸をよぎる。それは、”またここへ戻って来れた”という思いからだった。
舗装道に比べれば、足元が不安定で登りにくいのに、また、マウンテンバイクを抱えなければならないという余計な労力を使うことを余儀なくされるのに、何故、そう思えるのだろうか?四国では散々苦しめられ、遭難の憂き目に逢わされた憎き遍路道。だが、憎さと愛おしさは表裏一体のもの。当時は、心底嫌で嫌で堪らなかった遍路道も、それも過去の思い出となった今では愛すべき対象になっていた。
そう私は遍路道を愛していた。だから、遍路道と全く同じものである萩往還のこの旧道も勿論、愛すべき対象なのである。よって、遍路道に戻って来たような感動を覚えたのは当然であった。
初体験
私達は、入口前で休むことなく、旧道へ入って行った。そして、いきなりの階段。村上さんとセージは、旧道初体験ながら、いきなり階段の洗礼を浴びていた。「はあっ!こりゃあ大変やね!」と、言葉を吐きながら階段を登っていくセージに対して、「四国では、こんな階段の道が延々と何㎞も続くところがあったんど!こんなの楽勝、楽勝!」と私。
人に自慢するものなど何も持ってない私だが、こういう時に”ここぞ”とばかりに自分の体験を自慢する。セージは「ふぅ~ん。すげぇね。」とだけ言ってからは言葉が出なくなった。どうやら体力的にキツくなって話す余裕も無くなったようだった。セージは普段、運動することが殆ど無いというからそれも無理はなかった。だが、私は小学生の時に一緒にやっていたスポ少のサッカーを通して、セージにとてつもない根性があるということは分かっていたし、最初の旧道であるここを越えれば、体も慣れてくるものと思い、私は楽観視していた。
そして、村上さんはというと、アホの末と同じペースでヒョイヒョイ登っていた。さすが、昼休みに毎日走っているだけのことはあった。全く体力的に問題なしである。問題があるとすれば、村上さんは極度の頑張り屋さんであるため、無理をし過ぎてガス欠になるかもしれないということだけだった。ただ、それも村上さんの有り余る体力を考えると、いらぬ心配なのかもしれなかった。
幸せの瞬間
旧道の登りはわずか400mほどで終え、あとは楽しい下りとなった。当然、下りにも階段はあるから、その全部をマウンテンバイクに乗って下るわけにもいかなかったが、マウンテンバイクを担がなくても良いので、登りに比べるとカロリーの消費量は遥かに少なかった。
そして、下り終えると、私達の前に現れたのはのどかな田園風景だった。川沿いのあぜ道を私達はゆっくりと進む。平坦な道であるが故に体力を殆ど使うことがなく、周りの景色に目をやる余裕も十分にある。
梅雨の時期特有の緑の青臭い匂いに鼻をやり、まぶしい緑と道端に咲く花に目をやり、鳥のさえずりに耳をやる。堪らなく幸せを感じる瞬間だ。今まで様々な場所にマウンテンバイクで出かけたが、そのどれにも幸せを感じる瞬間があった。それを感じるために私はマウンテンバイクに乗り続けていると言える。そして、幸せを感じる時、こういうことが出来る状況にあることを感謝するのである。
アクシデント
ほぼ平坦な道をサクサク進んだ私達は、明木の町中へと入って行った。町中とは言っても、古い家々が立ち並ぶ他には、役場と農協があるだけで、店らしい店は殆ど見かけられない。寂しい町なのだが、田舎町特有の素朴な雰囲気はあった。
短い町中を抜け、左折して旧道へ入ろうとした時に気付いた。ズボンのベルトを通す輪に引っ掛けていたデジカメ入りのケースが無くなっていたのである。ベルトを通す輪がデジカメケースの重みで破れたのが原因だった。
私がアクシデントに見舞われているのに気付かず、どんどん先へ進む本隊を尻目に急いで来た道を戻った。もしかすると、見付けられないかもしれないという不安に襲われたのだが、デジカメケースを落としてからすぐに気付いたことが幸いしたのか、50mほど戻ったところにそれはあった。
今度は落ちないようにと、リュックのファスナーにそれを結び付け、本隊と合流すべく先を急いだ。本隊の方も、私がいないことを早く気付いたみたいで、途中で待ってくれていたらしく、一人私の様子を見に戻って来たアホの末と合流してからは、本隊と合流するのに時間はかからなかった。
最初の難所
私が本隊と合流した場所は、以前にも苦しめられた長い長い上り坂の始まりだった。ここから最初の休憩所まで約2.5㎞のそこそこの傾斜の上り坂が続く。そして休憩所から先は約500mほどの石畳の上り坂である。
以前登った時は、休憩所までの4分の3ほど進んだところで、砂利道にタイヤをとられ、とてもマウンテンバイクに乗り続けることができず、そこからマウンテンバイクを押して登った。また、登っても登っても終らないという記憶もあったので、やる前から少し億劫になっていた。
だが、ここを越えなければ先に進むことができない。それが分かっていたので、私達はためらうことなく登り始めた。私とアホの末は、要らぬ先入観を初参加の2人に与えまいと、ここが最初の難所であることを2人には黙っていた。
苦闘
そんなに傾斜が急ではないが、未舗装の土が剥き出し、石がゴロゴロの道は走りにくい。ちょっとでも油断しようものなら、石につまづいたり、道の凹みにタイヤをとられて転倒してしまう。
実は、隊列の最後尾を走って皆の走りを見守るという一番格好良い役の私が、一番最初に転倒してマウンテンバイクを降りていた。やる気マンマンで、手を抜くことなく坂を登って行くアホの末と村上さんとは対照的に私は、”一度降りたら乗るのが面倒臭ぇ!”と考え、それからは殆どマウンテンバイクに跨ることはなかった。
私のすぐ前を行くセージも乗り降りを繰り返していたので、二手に分かれる感じで登っていくことになった。
下を向きながら登ること15分。丁度、すぐ側の川に下り易い場所でアホの末達が待っていた。なかなかの運動量。体から立ち上る湯気が消費カロリーの多さを物語る。この時、私はようやく体が朝の眠りから目覚めた気がした。
気付き
5分ばかりの休憩を終えて、私達は登りを再開した。マウンテンバイクで乗れるところまでは走ろうというアホの末達は、歩いている私達の視界からすぐに消えた。私達はというと、乗っては降り、乗っては降りを繰り返す。セージがマウンテンバイクから降りると私も降りる。セージがマウンテンバイクに乗ると、私も乗る。まるで真似をしているかの如くだった。
そして、それを繰り返しているうちに気付いた。セージはマウンテンバイクに乗ることに慣れてないため、走るのは遅いのだが、自転車を押して歩くスピードは結構な速さなのである。”足の長さは俺の方が長いのに何故?”と思ったものの、実際にセージの歩くスピードは速く、歩いている時に離されずについて歩くのは大変だった。
また、そうやって歩いている時に気付いたことが、以前、私とアホの末が通った時に私達をマウンテンバイクから引き摺り降ろした目の粗いジャリ道がどこにも見当たらなかったのである。”確か、この辺りなんだが。”と思った箇所に砂利は無く、地肌が剥き出しになっているだけであった。おそらく、道路の改修をしたに違いなかった。これなら、アホの末達は休憩所までマウンテンバイクから降りることなく辿り着けるであろうと思った。
休憩所
私とセージが最初の休憩所へ到着したのは、登り始めてから35分後のこと。途中5分の小休止を挟んでいるから、実質30分での到着であった。四国八十八ヵ所には、3時間も4時間も登り続ければならなかった箇所もあったから、それに比べると全く大したことなかった。
とてつもなくキツい経験をすると、それ以下のことは大したことないと思うようになる。以前ならキツいと思ったこの道も、それ以上の道を経験したことで、大したことないと思えるようになっていた。やはり、経験は力なりである。
休憩所は総木作りの簡素な建物で、中には便所もある。腰掛とテーブルもあるし、中は日陰になっているので、十分に体を休めることができる。萩往還内には、このような休憩所が4ヶ所ある。私達のようなマウンテンバイクで行く者にとっても、歩いて行く人にとっても有難い施設である。
ゆっくりしていたかったが、まだ先は長いということで、水分補給したり一服したりしただけで、わずか5分という短い時間で休憩所を後にした。
石畳
休憩所を出発した私達は、中央に石畳が敷き詰められた道を登って行く。傾斜がキツく、しかも石畳の上は苔が生えていて滑るので、とてもではないが、マウンテンバイクに乗って登ることはできない。私達にできるのは、下を向きながらひたすら登るということだけだった。
この石畳は、近年敷き詰められたものであり、当時にこのようなものは無い。道の土砂が雨などで流れるのを防ぎ、また見映えも良いのだが、滑りやすくて登りにくいことこの上なかった。私達は、「はぁ、はぁ。」と息をきらせながら、「何でこんなところに石畳を敷くんや!」とか、「そろそろ腹が減ってきたの!」と、ブツクサ言いながら登って行った。
抜ける
500mばかりの石畳の道は10分程度で終わり、その後現れた下りを走り抜けたところで、やっと暗い山中から解放された。長い時間、日陰にいたから日向に出るとホっとする。やはり人間にとってお日様は大事なのだと改めて実感。
あぜ道を抜け、民家前の舗装道を抜け、適度なスピードで話しながら気持ち良く走る私達。
だが、その気持ちの良い時間も長くは続かなかった。またもや非舗装道である旧道が現れたのだ。「またかよおっ!」そう思う気持ちも四国の時と同じだったので面白かったのだが、私はここの旧道が短いということを覚えていたので、余裕で構えていた。
萩往還には、そこそこキツい難所は2つしかない。この直前に通ってきた道と、21世紀の森の頂上付近の階段が多い道のみである。あとは、傾斜がキツくても距離が短かかったり、距離が長くても傾斜が緩やかだったりで、大したことない。
四国の難所と呼ばれる遍路道と比べると、遥かに楽である。おまけに、ここを通るのが2回目ということもあり、大体勝手が分かっているし。勝手が分かってない村上さん達と比べると、ズルい気もするが。
私の記憶どおり、ここの旧道も5分ほどで終わり、私達は遂に国道262号線へと抜けることができた。ここは、佐々並の少し手前。大体全行程の3分の1のところであった。
懐かしの
国道262号線に出た私達を最初に待っていたのは、コカコーラの赤い自動販売機であった。
6年前に、喉の渇いた私とアホの末は、冷たいジュースでも飲もうと小銭を自動販売機に突っ込んだ。だが、小銭が自動販売機の中に納まることはなかった。小銭がお釣りの取り口から落ちてくるのだ。それは何度繰り返しても同じだった。”おかしい!”と思った私達は、ようやく自動販売機の電源が入ってないことに気付いた。何故か電源からコンセントが抜かれていたのだ。
クルマは頻繁に通る場所だが、登坂車線があり、スピードを出し易い場所だから、わざわざ止まってジュースを買う人は少ないのかもしれない。だから、経費節約のためにコンセントを抜いていたのだろうと思った。
試しにコンセントを電源に差し込むと、自動販売機は「ブーンッッ~。」という音をたてて動き出したが、動きだしたばかりで冷えてないし、中のものは古いに違いないと思ったので、再度小銭を投入することはなかった。
当時と変わらぬ姿で同じ場所に立ち続けていることには、ちびっとばかり懐かしさを覚えたが、やはり今でも電源は入ってなかった。
やられる
国道262号線に入ってから500mも進まないうちに前を走る村上さんが止まった。マウンテンバイクから降りて、タイヤをマジマジと覗き込んでいる。その姿を後ろから見て、私も過去に何度か経験があるから”これは釘か何かを拾ったな。”と思った。
実際にマウンテンバイクを降りて、村上さんのタイヤを見てみると、後輪に大きな針金の切れ端みたいなものが刺さっていた。村上さん曰く、走っている最中にカチカチ音が気になるからマウンテンバイクから降りて確かめたらしい。なるほど、これだけ大きな針金が刺さっていれば、舗装面との摩擦で大きな音がするはずである。
すぐにでも、マウンテンバイクを降りた場所で修理をしたかったが、道路脇で、私達のすぐ横を頻繁にクルマが往来して危険なため、少し下った広い場所で修理をすることにした。
修理
自分のマウンテンバイクの修理は自分で行うというのが漢塾の原則。と、いうことで、村上さんは生まれて初めての修理を行うことになった。
このような事態を予測して、私は替えチューブ一本と、パンク修理キットを持参していた。どちらで修理しても良いのだが、村上さんのマウンテンバイクのタイヤチューブは古いということで、タイヤチューブを替えることにした。
村上さんのタイヤチューブの型はシュレッダーバルブである。私が持参したものはフレンチバルブであるために使えない。幸いにもアホの末がシュレッダーバルブのタイヤチューブを持参していたので、それを使っての修理となった。
村上さんは、アホの末から説明を受けながら、おぼつかない手つきで、チューブ交換を進めていく。私も他人のことを言える立場ではないし、初めてだから仕方がないのだが、はっきり言って手際が悪かった。”もっと手際良く出来んのか。”とか、”もっと速く空気を入れられないのか。”とか、心の中に注文も出てくる。
でも、初めてだからということで優しく見守った。そして見ていて分かった。村上さんは手際は悪いが、コツコツと丁寧に最後までやり遂げるということを。だから、時間はかかったが、修理し終えたものは普通に見栄えするものに仕上がっていた。
村上さんの初めてのチューブ交換は無事終わり、これでこの日はもう同じようなことは起こらないであろうと誰もが思ったはず。だが、”一度あることは二度ある”との諺どおり、そうはならなかったのである。
再開
パンクの修理を終えた私達は、走りを再開した。田んぼの側のあぜ道に入ったと思ったら、また国道262号線へ合流、そしてまたあぜ道~旧道へ。これを繰り返しながら私達は進んで行く。
新旧の道が短いサイクルで交わり、また景色も美しいため、走ることには決して飽きることがない。スピードもノロノロなので、考える余裕も景色や周りのことにうつつをぬかす余裕も十分にある。そして、その十分に考える余裕があるがために、私は”腹が減りつつあることに気付いた。
今回の萩往還は、6年前よりパワーアップしている私にとっては楽なものだ。でも、ハンガーノックが恐ろしいものであることを私は経験上知っている。体力的に楽であろうが、道程が楽であろうが、そんなの関係ない。ハンガーノックに陥ると、瞬く間に心が折れてしまい、体を動かすのが著しく困難になってしまう。
そのことを知っているから、私は正直不安だった。先ほどコンビニへ寄った時に何か買っておけば良かったとも悔いた。この辺りの近くで、食い物を買えるような店と言えば、道の駅しかない。だが、道の駅の近くを通ることはない。道の駅はルートから外れているのだ。ここを通り過ぎてしまうと、あとはもう山口市内に入るまでは店どころか民家さえ無いため、私はどうにかしてここで食い物を調達したいとばかり考えていた。
休憩
走りを再開して15分も経ってないのだが、2軒目の休憩所が見えたので、休憩することにした。
萩城前を出発してから2時間半余り。誰の顔にも多少ながら疲れが見え始めていた。ここでは、先の四川省大地震や阪神大震災のことが話題になったのだが、中でも村上さんの口から出た言葉は、私達にとっては、それらの話題に匹敵するぐらいショッキングなことであった。
8月に第一子が生まれるため、この萩往還を最後に、しばらくは漢塾のイベントに参加出来ないと言われたのだ。「そんなの関係ないですよ。」とか、「イベントに参加する時だけ、奥さんには実家に帰ってもらいましょうよ!」とか言って説得するのだが、子供が生まれたら、”しばらくは家のことを手伝う”ということが奥さんからの至上命令らしく、こればかりはどうすることも出来ないとのことだった。
確かに無理して漢塾のイベントに参加してもらって、奥さんに三下り半をつきつけられるようなことがあっては洒落にならない。だから、寂しいが、ここは素直に引き下がり、村上さんの今後の動向を見守ることにした。だが、年始の漢塾最大のあの行事については、何がなんでも引き下がるつもりはなかった。
二度目
休憩を終え、再び走り始めた私達。少し進んだところで、アホの末と私が写真の撮影会をしている間に他の2人はどんどん先に進んで行った。そして撮影会が終わり、私達は2人の後を追った。ようやく2人の後姿が見えるところまで追いついたと思ったら、2人は二手に分かれた道の正規のルートではない方へ入って行くではないか。
「おおいっ!そっちじゃないぞぉ~!」と、何度も大声で叫んだところで、距離が離れているために私の声が彼らに届くことはなかった。やむを得ず、アホの末が2人を連れ戻しに追いかけ、私は分岐点で待つことにした。
待つこと5分。まずは、セージが帰ってきた。
私「ん?アホの末と村上さんは?」
セージ「すげぇことになった。」
私「えっ?何が?」
セージ「来たら分かる。」
セージは、もったいぶって教えてくれないので、仕方なく私は村上さん達が来るのを待った。村上さん達は、それから大して時間をおかずに姿を見せたのだが、マウンテンバイクに乗ってないし、表情もどことなくうかない。”乗れるはずのマウンテンバイクに乗ってない?ん?これはもしや!”と思った。
実際に本人から聞いてみると、本当にその”もしや!”であった。走っている最中にまた何か拾ったらしく、今回2度目のパンクであった。しかも最初にパンクしてから、まだ1時間も経ってないのにだ。1日のうちに二度パンクすることさえ滅多にないのに、1時間のうちに二度である。こうなるのはもう、天文学的な確率である。
天文学的な確率のことをさらりとやってのける村上さんって運が良いのか悪いのか?まあ、そんなことどうでも良いのだが、村上さんのこのアンラッキーなハプニングが、結果、私とアホの末にとっては、ラッキーなことになったのである。
場所探し
パンクしたままのタイヤでは、さすがに走れないので、私達は歩いた。アホの末のシュッレッダーバルブのタイヤチューブは、替えがもうないので、今度は私のパンク修理キットの出番となった。
だが、このパンク修理キットは、替えのチューブが無い時には大変便利なのだが、穴があいたり、裂けたりした箇所を特定するために、どうしても水がある場所でないと使えないという欠点がある。だから私達は、水があるところを探した。
丁度私達が歩いているところは、川から遠かったし、池や湧き水があるような場所ではなかった。だが、ラッキーなことに歩き始めて5分とぐらいで、民家の側に用水路を見つけることができたのである。
初体験
村上さんのマウンテンバイクの後輪のタイヤには、またもや見事な釘が刺さっていた。1時間以内に二度パンクするのは天文学的な確率だが、それが同じ後輪のタイヤとなると、確率はもっと跳ね上がる。
これは、もう笑うしかない。いつも常軌を逸したことをやって、話題を提供してくれる村上さんって本当に素敵である。村上さんは、パンクの修理は二度目だが、パンク修理キットを使っての修理は初めてである。よって、またもやアホの末に説明を仰ぎながらの修理となった。
パンク修理キットは、チューブ専用の絆創膏のようなものだ。直径3~4cmくらいの丸い絆創膏を穴があいたり、裂けたりした箇所にあてがって補修するのである。
手順を説明すると、まずタイヤチューブに空気を入れ、それを水の中に入れて手で圧力をかけ、空気が漏れる場所を特定する。空気が漏れる場所を特定したら、チューブを水から上げて、空気が漏れる場所をペーパーで擦る。これは、表面を凸凹にし、チューブと絆創膏との接着面積を大きくして、絆創膏が剥がれにくいようにするためである。それが終ったら、ゴム系の接着剤を塗り、乾くまで待つ。乾いたら、その上に絆創膏を貼り、絆創膏の上から堅いものでゴシゴシと力を入れて擦り付ける。これも、チューブの凹凸と、絆創膏の凹凸をしっかりとかみ合わせて、絆創膏が剥がれにくくするためである。後は、空気を入れて水の中に入れ、空気が漏れなければOKである。
言うは簡単だが、村上さんは初めてだったため、やはり手際が悪く、私が思うようにはサクサクと進めていくことはできなかった。
見えざる力
トロトロ遅い村上さんの修理をただ見守っていても時間の無駄というもの。この場所から道の駅は近い(400mぐらい)ということで、先ほどからの念願であった食料の調達に行った。腹を満たすようなものは置いてなかったが、活動するために必要な糖分を補える飴玉を購入した。とりあえず、この飴玉で、ここから山口市内まではどうにかなると思った。
私が、皆のところへ戻ると、今度はアホの末が、朝のお勤めがまだだったということで、私と入れ替わりに道の駅へ行った。アホの末が戻って来る時に、丁度村上さんの修理が終った。そして、長い修理が終って、やっと出発できるという時にセージが言った。「おかげで、よく休養ができたよ。」と。
これを聞いて私は、ハッ!と気付いた。全てが良いように回っているなと。もし、この修理時間がなければ、私は念願の食料の購入をすることが出来なかったかもしれない。もし、この修理時間がなければ、アホの末は朝のお勤めを道の駅ですることができずに、野○○するか、お○○ししていたかもしれない。もし、この修理時間がなければ、初めてのサイクリングで疲労の溜まってきていたセージが、体力を回復させることができなかったかもしれない。また、二度も違った方法でパンクを修理した村上さんは、おかげで両方のパンク修理のやり方を覚えることができた。
パンクをしたということ、時間をロスしたということは災難であるが、その反面私達は、その災難の恩恵を受けていた。こうやって結果として、各自に都合の良いことが続くと、これは何かの見えざる力が働いているのではないかと思えるのである。
町並み
二度目のパンク修理という長い休憩が終わって、ようやく私達は走りを再開することになった。二度のパンク修理で1時間近くも時間をロスした私達ではあるが、もともと急いでないので、全く問題なかった。ただ、昼飯を食うのが遅くなっただけのことであった。
休養も十分に取ったし、腹は満たされないものの飴玉で幾らかのエネルギー補給も出来た。精神的な余裕も出来た。おかげで、私の意識は、走ることでなく佐々並の町並みを見ることに向いていた。
それで気付いたのが、佐々並の町並みの素晴らしさ。造酒屋や醤油屋を始めとして、昭和以前の建物が充実しているのだ。萩にだってこのような古い建物はたくさんあるから、別に珍しいものではない。でも、佐々並の町並みは、萩の町並みとは趣きを異にする。萩のような見てもらうことを意識した観光地とは違う。佐々並の町並みは、ただ、ひっそりと自然のまま、そこに在るだけなのだ。
ここへ来るまで山の中や田んぼのあぜ道ばかりで、町らしきものが無かったからかもしれないが、私には、佐々並の町並みが山間のオアシスのように感じられた。
休憩
佐々並の町並を抜け、15分行ったばかりの場所に3番目の休憩所があったので、”まだ早い”と思いながらも休憩することにした。ここは、萩往還にある4つある休憩所の中でも唯一、日当たりの良い場所にある休憩所である。日当たりが良いからか、休憩所の周りには、花がたくさん咲いていた。
特に私の気を惹いたのが、休憩所の裏の湿地に咲いた、今が旬の菖蒲の花であった。紫や白といった花の色が、私を癒してくれるだけでなく、凛とした気持ちにさせてくれるのだ。私は、赤や黄といった明るい色の花を見ると元気づけられる。淡い色の花を見ると気持ちが落ち着く。このことからも、花は人間にとって単に目を楽しませてくれたり、ハチミツを提供してくれるだけのものではないということが分かる。花には、人間の心に働きかける力があるのだ。
ここら辺りが、全行程のちょうど半分付近である。そして、山口市内までは残り10㎞ぐらいといったところ。どんなにスローペースで進んでも1時間半もあれば、山口市内に入ることができる。
ある程度先が見えたことと、もう少し我慢すれば飯が食えるということが関係していたのだろうか。私達の表情はやけに明るかった。
登り
15分ばかりの休憩を終え、走りを再開してすぐに旧道から21世紀の森へと続く県道に合流した。ここからはしばらくは山を登るようになる。山口市内へは、この山を越えさえすれば、後は下るだけである。市内に入ってしまえば、もう険しい道は無い。よって、ここが萩往還最後の難所であった。
県道の坂は、比較的緩やかな傾斜だった。しかし、マウンテンバイクでの遠征が初めてのセージにとっては、キツいように見受けられた。萩往還も中盤で、体力が消耗しているということもあったのだろう。マウンテンバイクで走り続けることができずに何度もマウンテンバイクから降りていた。当然、後続の私もそれに合わせてマウンテンバイクを降りた。
後ろから見ていて思うに、セージは坂を登るのに適したギヤの選択が出来てないのだ。明らかにギヤを落とし過ぎて、足をシャカシャカと、高速回転させなければならない羽目になっているのだ。自転車というものはギヤを落とす度に、ペダルを回す回転数がどんどん増えていくが、こぐ力は少なくて済むようになる。逆にギヤを上げると回転数が減る代わりに、こぐのに大きい力が必要となる。坂を登るには、その坂の傾斜と自分の足の力を考えてギヤを選択しなければならない。ギヤを落とし過ぎると、回転数が上がり過ぎて、ダイレクトに地面に力を伝えることができず、ペダルが空回りしてしまう。そのため余分な力を使わなければならず、体力も消耗してしまうのだ。
そのことが分かっていれば、おそらくセージもマウンテンバイクを降りずに走り続けられたであろう。「ギヤをもう1段か2段上げた方がいいぞ!」と言おうかとも思ったが、こういうのは自分で確かめたり、気付いたりした方が良いので、いつか気付くであろうことを期待し、言うのをやめた。だが、私の期待に反してか、ここでセージがそのことに気付くことはなかった。
難所
途中の駐車場での休憩を挟み、ほぼ坂を登りきったところで、最後の難所である旧道の階段が現れた。ここは当然、マウンテンバイクを担いで階段を登らなければならない。マウンテンバイクを担ぐということは、手ぶらであることに比べて、体力を消耗する要らぬ作業である。
こんな時は、非常にマウンテンバイクを邪魔と感じるものである。マウンテンバイクを置いて行きたいが、そうするわけにもいかず、やむなく私達は担いで登り始めた。
階段の傾斜は急で、大変登り難い。だが、距離は短いし、階段を登りきってしまえば押して歩けるので、比較的楽である。村上さんとセージは、マウンテンバイクを担いで石の階段を登るという作業が初めてだったので、最初はとまどっていたが、いざやり始めると黙々とこなしていた。
最後の難所である21世紀の森付近の旧道は短い間隔で県道と交わっている。だから、階段を降りて旧道が終ったと安心しても、少し走るとまた旧道の階段が現れて私達をガッカリさせてくれた。4番目の最後の休憩所に辿り着くまでは、結局それを3回繰り返すことになった。
休憩
最後の休憩所に到着した時には、時刻は既に午後1時になろうかとしていた。幾ら、飴玉でエネルギー補給したとはいえ、さすがに昼時を大きくまわっているとあって激烈に腹が減っていた。だが、ここから山口市内まではひたすら下るだけだから、カロリーは消費しないし、もうすぐ昼飯にありつけるとあって焦ってはなかった。
ここで、私達は江戸時代末期まで活躍していた飛脚の話をした。飛脚とは今で言う、宅配マンやポストマンと同じような職業。要するに運び屋である。ただ今と違うのが、クルマやバイクを使うことなく人間が走って物を運んでいたということ。普通の飛脚で日に平均で120㎞、一流の飛脚で日に160㎞、超一流の飛脚で日に200㎞走っていたという。しかも現在のように走るのに適したシューズがなく、クッッションの効かない草鞋を履き、重い荷物を持って、舗装もしてない山あり谷ありの悪路を走ったのである。更にしかもだ。それがたまにではなく毎日だったというから超驚きだ。
現代の一流のマラソンランナーでも、よく走って日に30㎞~40㎞ぐらいなもの。普通の飛脚とでさえ、比べものにならない。当時の飛脚と同じ条件下で同じことをやれと言われたら、一流のマラソンランナーをもってしても無理であろうことは容易に想像できる。素人の私達だったら、数㎞も走らないうちに草履で足の皮が擦りむけてアウチであろう。飛脚は現代においては超人である。
しかし、飛脚も私達と同じ人間だ。今の人間の方が食い物のおかげで体が大きくなっているという違いはあるが、今の人間の方が文明の利器に浸ってヤワになっているかもしれないが、本質的には同じ人間である。だから、もし私達が、あの時代に生まれたのなら、今よりは遥かに足を使う必要に迫られて鍛えられるであろうから、同じことができるはずなのだ。飛脚の話は、結局”同じ人間だから同じことが出来る”という結論に落ち着いた。
何でこんな話をしたのかというと、昔ながらの道である旧道を通ってきて、”当時の人はどんな思いで、どのようにしてここを通っていたのだろう?”と、ここを通っていた人に思いを馳せたことが理由だった。私達は、話が終るとすぐに休憩所を後にした。飛脚が走ったであろう道に思いを残しながら。
下る
休憩所付近が山の頂上だったので、あとは下るだけ。丸太の段差が小さい階段があったが、マウンテンバイクに乗ったまま下るのには問題なかった。問題はそれよりも、大きい石が剥き出しの凸凹道だった。かなりのスピードで下るため、道の凸凹や石につまづくと、吹っ飛んでしまう危険があるのである。それが恐いから、ブレーキ全開で下ったのだが、それでも かなりのスピードが出るからやっかいだった。また、ずっとブレーキ全開のため、掌の力を酷使し過ぎて、握力がなくなり、凸凹道の振動で手が離れそうになることもしばしばあった。
下り好きのアホの末と、負けず嫌いの村上さんはすぐに私とセージの前から消えたが、クラッシュが恐いので私達は追いかけることはしなかった。途中、石につまづいて転倒しそうになった場面はあったものの、用心深くスピード抑え目に下ったおかげで、私達は無事、旧道の下りを終えることができたのだった。
下る2
旧道を下り終え、県道に合流すると、再び下りとなった。今度は、舗装道なので、つまづくことなど気にせず思いっきり下れる。やはり、アホの末と村上さんは、すぐに我々の目の前から消えた。
私達は、そのことを気にもせずにゆっくり下ったのだが、それでも時速50㎞ぐらいはスピードが出ていたと思う。私達は、疾風のようにダムの前を、瑠璃光寺前を駆け抜ける。おかげで、県道に合流してから10分ほどで山口市内へ入ることができた。市内へ入った私達の次なる目標は昼飯を食うところを探すことだった。
店探し
私はコンビニで好きなものを買ってガッつり食いたかったのだが、ちょうど良い場所にコンビニが無かったら、ラーメン屋でも定食屋でも良かった。とにかく腹に入れられれば何でも良かった。店選びは、先頭を走るアホの末に任せることにした。 道場門前の商店街に入って行くので、商店街の店で食うのかと思いきや違った。商店街を出てすぐのところにあるセブンイレブンへとアホの末が入って行ったのだ。
コンビニは、私の第一希望であったから、これはナイスチョイスだと思った。 ここでは、冷やし中華を始め、食いたいものを欲しいだけ購入した。
ガッつく
店を出ると、それぞれが駐車場に腰掛けて、購入したものを食い始めた。全員が激烈に腹が減っていたからか、殆ど話をすることはなく、食うことに専念していた。 萩往還を走る前に私はセージに、「たくさん走るとそれだけ飯もうまいぞ!」と、伝えていた。飯を食い終わってから、「実際どうだ?」と、感想を聞こうと思っていたが、結局そのことを忘れて聞くことはできなかった。
だが、セージのガッつき様から、間違いなく私の言ったことが実感できているであろうことは確認できた。マウンテンバイクでの遠征での楽しみの一つは、飯を食うこと。今回は、セージもそれを体験できたようだった。
食後の運動
30分ばかりの休憩の後、「面倒臭ぇけど、仕方ねぇから行くか!」と言って、重い腰を上げた。たらふく食ったから、食う前と同じように体を動かせるわけもなく、食後の運動程度に、非常にスローなペースで走り続ける私達。
この頃になると、太陽も真上に昇っており、しかもアスファルトやコンクリートの放射熱も手伝って、非常に蒸し熱かった。山の中や田んぼ横の旧道を走っている時は、こんなことはなかったのにだ。改めて街中は田舎よりも暑いのだと実感する。おまけに、どこまで走っても延々と街中の殺風景で面白くない景色が続くわ、クルマの排気ガスで空気が悪いわで、ウンザリしていた。やはり、走るのは街中より田舎の方が良いと思った。
休憩
街中を走ることに、さすがにアホの末も飽きたのか、いきなり裏道でマウンテンバイクを降りた。当然、それにつられて私達もマウンテンバイクを降りた。飽きたというのも当然あったかもしれない。だが、アホの末は地図で現在地を確かめたいがために、停まったみたいだった。
アホの末は、事前に”萩往還地図”というものを購入していた。私はそれを見ると、四国八十八ヵ所遍路の遍路地図というものを、つい思い出してしまった。それは、遍路地図とはボリュームが比べものにならないものの、漢塾アメリカ支部長のエテの会社が開発したユポ紙を使用しており、水に濡れても大丈夫だし、手で裂こうとしても裂けない優れものだった。その地図によると、ここからゴールの三田尻までは約12㎞ぐらいの距離だった。
これからの道中、途中、ある一ヶ所の場所を除いては、延々と平坦な、若しくは傾斜の緩やかな坂道が続くことを私は覚えていた。おかげで、気持ち的には既にゴールした気になって、すっかりダレてしまい、その距離を長く感じてしまった。難所が無いことは、安心する反面、刺激が無くつまらないものである。
防府市内へ
途中、一回の休憩を挟み、私達はようやく防府市内へと入った。この時、時刻は午後3時をまわっていた。ゴールへの到着予定時刻を午後2時に設定していたから、大きな遅れであった。
ただし、これは単に6年前に萩から防府市の三田尻までが、約7時間かかったということを基準に到着予定時刻を想定していただけなので、これより早かろうが遅かろうが、どうでも良いことだった。私は、はっきり言って、防府市内の旧道は全く記憶に残ってなかったし、裏道を通ってばかりなので、自分が現在、防府市のどの辺りにいるのかということが分からなかった。ただ、ついて行くだけの受動的な私。自分が現在、どの辺りにいるかが分かったのは、防府天満宮の前を通った時だった。
商店街
防府天満宮を過ぎ、閑散とした天神商店街を過ぎ、私達は”GINZA”と書かれた看板が掲げられた、アーケードへと入って行く。ここも萩の田町商店街と同様、シャッターの降りた店が目立ち、日曜日というのにアーケード内は、全くと言って良いほど人通りが無かった。これも郊外型大型店舗が出来たことの影響であろう。
どこの街も同じ問題を抱えているのだと感じた。今は、誰もがクルマで買い物に行くから、大きな駐車場が無い商店街は不利だし、値段や品揃えで勝負しても大型店舗には敵いっこない。個人商店には個人商店で良いところもあるのだが、初めての店だと店員の目が気になって入りにくいという欠点もある。
大量安価に販売し、誰もが入りやすい大型店舗が受け入れられるのは、大量消費で、人間関係が希薄になった今という時代の趨勢だと思う。それはそれで仕方がないことかもしれないが、商店街に思い入れのある私としては寂しさを感じるのである。
ゴール
アーケードを過ぎてから、10分ほどで私達はゴールである三田尻の旧毛利家屋敷に到着した。6年前に一度訪れただけの場所だったが、さすがにゴールということで、ここの様子は良く覚えていた。
6年前に比べると、おそらく、その半分の体力も使わない、私にとっては非常に楽なサイクリングだったが、セージという新たな仲間と一緒できたおかげで、6年前と同じく今回も特別なものになった。ゴールした時にセージは言った。”こんなに走ったのは初めて!”だと。これは、感動したからこそ、セージの口から出た言葉である。
普段は、何の運動をするでなく、体力には自信の無いセージだが、萩往還を完走したことで、”自分にも出来る”という自信が芽生えたと思う。これから、通勤をマウンテンバイクでするなり、それが無理なら休日に乗るなりして、乗ることに馴れていけば、もっと自分の思うように気持ち良く走れるようになる。そうすれば、もっとサイクリングが面白くなるはずだ。
セージとは今後、萩八十八ヵ所遍路や出雲二十ヶ所遍路で一緒することを約束した。これ以外にも何か予定すれば、こいつには必ず声を掛けるようにするつもりである。旧友との再会を与えてくれ、現状に感謝する気持ちを与えてくれ、道中の自然の美しさを再認識させてくれた今回の萩往還。
萩往還はいつも何かを私に与えてくれる。
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