漢の旅路
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- 2009年09月18日(金) ~ 2009年09月22日(火)
二日目(平成21年9月19日)
イッシー探索
イッシーとは、江戸時代から目撃が続く体長10~20mの巨大未確認動物(UMA)である。最近では、30数年前より波をたてながら巨大な生物が水面下を泳いでいる姿が目撃されたり、ビデオに撮られたりしており、また数十人という大人数に一斉に目撃された例もある。
これにより、池田湖には何か巨大な生物が生息しているかもしれないということで、生息確認のための調査がテレビ局や関係機関などにより行われたが、残念ながら今日に至るまで存在の確認には至ってない。
何故イッシーの存在を確認出来ないのか?それは調査の仕方に問題がある。幾つかのポイントにおいて魚群探知機や暗視カメラ等でちまちま調査しても水中を動き回るイッシーの存在を確認することが難しいのは明白だ。
そんなことするよりも、惑星内部をも鮮明に映し出す人工衛星からの電磁波スキャンの電磁波を池田湖全体に照射すれば、イッシーのような巨大生物がいることは即分かる。また、一番簡単で手っ取り早いやり方が池田湖の水を抜くというやり方である。これをやればイッシーだろうがネッシーだろうがチャンプだろうがオポコボだろうが一網打尽だ。
だが、この単純明快で一番確実なことが出来ないでいるのは、いるかいないかも分からないような生き物にそのような金も労力もかかるようなことをするのはアホらしいからだ。と、いうわけで私達は、そのような確実なやり方を夢見ながらも、今回は現実的なやり方で調査を行う。
現実的なやり方。それは、ただ池田湖に行くというだけの最もシンプルで原始的なやり方である。現地には、イッシーに会いたいという強い思いとデジカメだけを持って現地に乗り込む。会えるか会えないかは、その時の運次第だ。
到着
現地に到着したのは、午前4時過ぎ。高速道路を5時間以上も走ってようやくの到着であった。有名なイッシー像の前に漢号を停めて仮眠するが、なかなか眠りに就くことが出来ず。午前6時前くらいから周りの散策を開始した。ちなみにテルさんは、私よりも早く起きて、駐車場から遠く離れたところまで散策されていた。
桟橋付近に何かが潜んでいそうな気配が。池田湖は直径3.5㎞、周囲15㎞、最深部233mの九州で最大の湖である。体長20mを超えるイッシーが潜むには十分な広さである。
開聞岳
駐車場から開聞岳を望む。薩摩富士と呼ばれるだけあって、その形は富士山にとても似ている。手前の“世界一のおおうなぎ”と書かれた建物に行ってみたのだが、中には入れなかったため、大うなぎの入っている生簀は外から見ることは出来ても、残念ながらその中の大うなぎまで見ることは出来なかった。
イッシー君
イッシー像の名前は“イッシー君”らしい。プレシオサウルスのような首長竜をイメージして作ったのだろうが、私のイッシーに対するイメージはこのイッシー像とは違う。首長竜のような爬虫類もしくは哺乳類であれば、呼吸をするために頻繁に水面に出るか、陸地に上がってくるはずだから、もっと人目についても良いはずである。滅多に目撃されることはないということなので、そうなるとエラ呼吸をする両生類や魚類といった可能性が高いと思えるのだ。
しかし、だからと言って、見てない以上、イッシーが何かを断言することは出来ない。今のところは、首長竜のような姿を想像しておくのがロマンティックで良いのかも。
撤収
私は寝不足で面倒臭いからか、湖のほとりを100m歩いただけで調査終了。テルさんはかなり範囲広く歩かれたらしかったが、何もイッシーの手がかりを見付けることは出来なかったとのこと。次の予定が押しているので、潔くイッシー探索は諦め、池田湖から撤収することに。
諦めが良い、いやフットワークが軽いというところが私達の長所である。
朝日
神秘的な美しさの池田湖から昇る朝日。美しいのは朝日だけではない。池田湖の透明度の高い澄んだ水も周りの景色もひたすら美しく、イッシーには会えなくても、これらを見るだけでもここに来た甲斐はあった!
一対
手前と漢号が停まっている付近に一体づつのイッシー像がある。一体しかないと思い込んでいた私には驚きのことだった。しかし、何故二体あるのだろうか?それは作者にしか分からない。
思いを新たに
今回はイッシーを見つけることが出来なかったわけであるが、私は湖底に潜むイッシーの気配をはっきりと感じることが出来た。そして、イッシーも私を見ているということを感じることが出来た。イッシーは恥ずかしがり屋さんである。故に人目につくことを嫌う。そのことは、同じく人前に出ることの苦手な恥ずかしがり屋の私には良く分かった。故に、今後私は何度もここへ足を運ぶ。何度も私の匂いや雰囲気というものに触れれば、そのうち親近感を感じて何時かは必ずやイッシーも私の前に姿を現してくれることだろう。
今回は、そのための第一歩を踏み出したといえる。私達はイッシーには会えなかったが、いつか会うための種は確実に撒いたのだ。
特攻記念館
実は13年前に私は、職場の研修で特攻記念館へ立ち寄ったことがある。研修のプログラムの中に組み込まれていたため、ただ受動的に現地を訪れただけなのだが、館内を見て回って、それまでの軽い気持ちが吹っ飛んだことをよく覚えている。
そうなった理由の一つが、館内に展示されていた隊員達の写真や手紙である。写真には笑顔で写った隊員のものはあれど、悲壮感や絶望感を表情に滲ませて写ったものは一枚として無い。また、手紙にも泣き言や後悔の念をつづったものは無い。
このことには、心を動かされると同時に不自然さを感じたものだった。そういうものが在っても敢えて展示しないのか、それとも当時の教育や世相というものがそうさせたのか。いずれにせよ、本心を写真にも手紙にも表せず、自分の中にしまい込んで死にに行かなければならない隊員のことを思うと、悲しくやるせない気持ちになったものだ。
今回、おそらく人生で最後になるであろう再訪をするにあたり、自分の中で決めていたことがあった。それは、数ある隊員達の家族に宛てた手紙の中で私が最も心を惹かれ、感動した手紙との再会である。
あれから13年たっており、私もいろいろと経験したために考え方や物事のとらえ方も変わっているものと思われる。よって、再びその手紙と対峙した時にどのような感情が沸き起こるのか?そのことだけを楽しみに二度目の特攻記念館に臨む。
開聞岳
特攻記念館へ向かう信号待ちの車中から開聞岳を望む。標高は900m台しかない山なのだが、薩摩富士と呼ばれるだけあって、その存在感は桜島の御岳に負けてない。御岳が男性的な山の象徴ならば、開聞岳は女性的な山の象徴である。
どの景色にも映え、その姿はひたすらに美しい。
特攻記念館
13年ぶりの特攻記念館。館内の何百とある特攻隊員の手紙をじっくりと見たのだが、結局お目当ての手紙には再会できず。展示するものを入れ替えたのだろうか?
しかし、目頭を押さえたり、鼻をすする人の何と多かったことか。13年前に既に同じものを見て免疫のついた私にとっては感動や驚きの薄いものであった。
ただ、私より一回り以上も若い若者が“お国のため!”という大儀名分の元、命を捧げなければならなかったことを思うと、胸が痛くなる。この若者達も今生きていれば80代~90代の爺ちゃんであり、孫やひ孫も出来ていたろうに、たくさんの経験が出来てたろうに・・・。
西郷隆盛という漢
私にとって明治維新の英雄は坂本竜馬と勝海舟である。我が郷里には、吉田松陰と高杉晋作という偉大なる師弟関係にある人物がいるが、その二人よりも前述の二人の師弟の方を敬愛している。
特に坂本竜馬においては敬愛してやまない。“お~い!竜馬!”という漫画で竜馬に目覚め、幾つかの竜馬関係の文献を読み漁り、今は竜馬に関する書籍で最もポピュラーな司馬遼太郎の“竜馬がゆく”を購読中である。もし、タイムマシンというものが実現出来て、それに乗せて竜馬に会わせに行ってくれるということならば、10万円でも払うというほどの敬愛ぶりである。
そんな竜馬ファンの私の中で、竜馬の影にスッポリ隠れているのが西郷隆盛という漢だ。竜馬と並び称される明治維新の巨頭である西郷隆盛であるが、私の西郷に対する評価はいたって普通。可でもなく不可でもない。
そうなる理由に、西郷隆盛のことを上辺だけで、本当の西郷を知らないということがある。下級武士の西郷が島津斉彬に取り立てられてから、西南戦争で没するまでの大体の過程は知ってはいても、それに付随した西郷の人となりが分かるようなエピソードには疎いのだ。
それを知るには、西郷の故郷へ行って西郷の足跡を辿るしかない。足跡を辿れば、どれほど西郷という漢がグレイトだったのか、どれほど器の大きな漢であったかを私は知ることになるであろう。
いざ出陣
代々の島津家の御魂を祀った神社近くの駐車場へ漢号を停め、いざ市内観光へ向かう。
腹ごしらえ
観光へ向かう前に腹ごしらえということで、鳥居の前にあったラーメン屋へ立ち寄る。薩摩黒ブタからとったスープということでかなり美味であろうと期待して食ったのだが、はっきり言って不味かった。
ご一緒
鹿児島市内を望むように高台に建てられた西郷さんの銅像と記念撮影。このことからも、ここでは西郷さんがこよなく愛されていることが分かる。
鶴丸城跡
城は解体され、現在では石垣だけが残る。ちなみに城があった場所には美術館?博物館?のような大きな建物が建っている。
弾痕
西南戦争の遺産である石垣の弾痕。何千、何万というおびただしい数の弾痕から、相当激しい銃撃戦が行われたことがうかがわれる。
終焉の地
銃弾で負傷した西郷さんが、「ここいらでよか!」と言って、切腹をする際に別府晋介に介錯をさせた場所。終焉の地として後世に残されるなんて、すごい!西郷さんの愛されようは尋常ではないものがある。
城山
すぐ近くにある城山を上る。当時の写真を見たのだが、現在の城山及びその周辺の景色に当時の面影は無い。当時より130年以上も経っているのだから当然といえば当然か。
桜島
城山の頂上から望む桜島。雄大なその姿はひたすら美しく、思わず時間を忘れて見入ってしまう。当時と変わらないものは無いと思っていたが、違った。景色は変わっても、桜島や開聞岳、池田湖といった自然は当時のままである。これらのものは、年月とともに形を変えていっても、この後何千年、何万年と残る。よく生きて100年の人間の寿命に比べれば、何とその存在の大きいことか。西郷さんや篤姫も見た桜島は今もこれからも残る。
鹿児島市内
城山から望む鹿児島市内。西郷さんが生きていたら、当時との変わりようにさぞかし驚かれることだろう。今の市街地の殆どは、“埋め立てられて作られたらしい!”と、誰かに聞いた。
迷う
城山の頂上付近から西郷隆盛洞窟へ行こうと、通りすがりの爺さんにルートを聞いたのだが、目的地へ辿り着くことが出来ず、何度も同じ道を往復することに。
「あの爺さん信用出来んなあ!」と、愚痴っている最中に何と本人と再会。もう一度念入りにルートを聞いてどうにか目的地に辿り着くことが出来た。しかし、そこは城山の頂上付近から、かなり距離が離れていた。爺さんは確かに「坂を下って行って、信号を右に曲がったらすぐや!」と言っていたのに。この爺さんは嘘つきか、それとも距離感がとてつもなく私達と違うのか!
西郷隆盛洞窟
私学校の幹部である桐野利秋、別府晋介らと5日間過ごした洞窟。洞窟といっても幅7~8m、奥行き2mくらいの小さくて狭いもので、洞穴と言った方が相応しいかもしれない。
西郷さん達はここで過ごした5日間は何を考えたのだろうか?
西郷隆盛洞窟遠景
洞窟には入口が2つあるが、中で繋がっている。私達がここへ来た時も既に人がいたが、私達がここを発つ時も人がゾロゾロ来た。このことからも、誰にとっても思い入れの強い場所であることがうかがわれる。
命預ける
明治維新は武士達によって成し遂げられた革命である。しかし、皮肉にも明治という新しい時代に不要となったのが武士である。そのために各地で士族の反乱が起きるのだが、その反乱の中で最大で最後のものになるのが西南戦争だ。その時の薩軍側の勢力は、それに協力する諸藩の勢力も含めて最終的に約3万人であったらしい。
その総大将に就いたのが西郷さんである。西郷さんは、新政府に反感を持つ士族達や私学校の生徒達の気持ちを汲み取り、やむをえず挙兵したわけであるが、かつて維新で共に戦った仲間や大久保利通といった幼馴染と戦わなければならない西郷さんの胸中とはいかばかりのものであったろうか。
全面戦争という道をやむなく選択した時に私学校生徒達に言った“おはんらにやった命”という言葉が胸を打つ。この潔さと人を思いやる気持ちの強さが西郷さんの人を惹きつける理由であろう。
小噴火
桜島が小さく噴火していた。こんなことは、日常茶飯事らしい。実際、路面にはうっすらと僅かではあるが、火山灰が積もっていた。
大久保利通生家跡
現在では石碑が建っているだけ。西郷さんの生家跡のすぐ近くである。
維新ふるさと館
当然のことながら私達は、ここへ立ち寄った。館内は写真撮影禁止のため撮影はしていないが、薩摩藩士の維新での活躍を知るのに参考にはなった。
この館に陳列されているもので面白かったのは、西郷さんと大久保利通の等身大像であった。両者とも男子の平均身長が156㎝の当時で178㎝も身長があったというから驚きだ。
現在での身長に換算すると192㎝にもなる大男である。
西郷さん生家跡
これも大久保利通と同じく残念ながら家は残ってない。両者の家の近くには大きな川が流れており、この大きな川の流れが西郷、大久保という英雄を育んだのかと、当時に思いを馳せる。
高台から望む
市内の少し高くなった場所から桜島を望む。桜島は見る場所によってその雰囲気を変える。生命力の大きな塊のような存在であり、何度見ても飽きることはない。
薩摩示現流
南州墓地へ参拝した折に「きええっ!!」「えいやぁぁっ!」という奇声が聞こえてきたので、墓地の下の空地を覗いてみたら、おっさん達が3人で剣術の稽古をしていた。
薩摩といえば示現流。“これが示現流の稽古かぁ!”と感動し、しばらく眺めていた。この時は、1人が木刀ではなく木の棒で、残りの2人が地面に立てた木の棒を気合とともになぎ倒していた。
打ち込み
太めの木の枝を10本ばかり束ねた木の束を木の棒で気合と共に打ち込む姿。腰をしっかりと落とし、棒を垂直に頭上に振り上げ、「きええっ!!」という気合の声と共に連打する姿は迫力がある。この稽古は、腕を主とした全身の強化にある。一撃必殺といわれる示現流の一の太刀は、この稽古から生まれる。硬い物を硬い木の棒で渾身の力を込めて打ち込めば、相当に前腕部や肩、背中などに負担があるだろうに。この時、私はこの稽古が“アームレスリングに役立つのでは?”と感じた。
敬天愛人
私学校の生徒や幹部達の墓に囲まれて、南州墓地の真ん中に佇む西郷さんのお墓。死してなお、生徒や幹部達に慕われているように思えた。
天を敬い人を愛するという意味の敬天愛人という言葉をこよなく愛した西郷さん。その生き方は、まさにその言葉どおりのものであった。
西郷さんという人間を一言で表すなら、“愛情深い人”と表現できる。私の敬愛する竜馬だって愛情深い人だった。このことにより漢とは、自分のように他者を愛する、いや自分以上に他者を愛することが出来る者であると定義できる。
私達にも愛はある。だが、その愛は自分とその周りの者に対してのみ限定して向けられているものだ。それが、他者にも同じように向けられるようになった時にようやく私達も漢の仲間入りが出来るのではなかろうか。
私達にも愛はあるのだから。後はそれを広げて行けば良いのだから。
桜島を望む
南州墓地からは、桜島が良く見える。おそらく西郷さん達のために“ここなら桜島がよく見えるから安らかに眠れますよ!”との思いを込めて墓地をここにしたのであろう。西郷さん達を思う地元の人達の気持ちには胸を打つものがある。
地元では英雄どころか神様のように崇められる西郷さん。この旅により西郷さんは、私にとっても英雄となった。
温泉
簡単ではあるが、西郷さんの足跡を辿る旅を終え、一日の疲れを霧島にある温泉で洗い流す。シルバーウィーク真っ只中であり、浴場内は人でごった返していたが、ゆっくり湯船に浸かれ、さっぱり出来たのであった。この後、私達は晩飯を持って高千穂ヶ峰の8合目(標高970m)にある駐車場へと向かう。
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