四国八十八ヶ所 自転車遍路(第二弾)
- カテゴリ
- BICYCLE
- 開催日
- 2004年10月07日(木) ~ 2004年10月11日(月)
三日目(2004/10/9)
あれ!!?
何か楽しい夢を見ていたのだと思う。どういう夢かは覚えてないが、目覚めた時は、すごく幸せな気分でだった。時刻は午前3時。起きるには、まだ早い時間である。アホの末は、隣で大いびきをかいて寝ている。起きている時は、穢れて穢れて穢れまくっているため、人間性のかけらも見うけられない奴ではあるが、寝ている時は普通の人間と同じに見える。穢れきった魂が、向こうに里帰りしているからなのだろうか?それなら、いっそ、こいつには魂なんて無い方が良いのかもと思った。しかし、魂の無い人間なんて生きていられるのだろうかと、疑問に思ったりもしたが、考える時間が勿体ないので、寝ることにした。
そして、もう一度寝ようとした時に気付いた。そういえば、今は、台風の真っ只中なのだと。そう思い出して、雨風の音に耳を澄ますのだが、何も聞こえない。「あれ!!?」と思って、窓を開けて外の様子を確かめてみようと思ったが、布団から出るのが面倒臭いので、台風はまだ来てないのだろうと思いこんで、そのまま寝入った。
ラッキー!
午前7時に起きて、外の様子を確かめるのだが、小雨がシトシト降っているだけで、風も全く吹いてない。一体どしたのだろう?と思って、すぐにテレビをつけた。ニュースで、確認すると、台風は東よりに進路をとったようで、高知県には上陸しなかったようである。
何たるラッキー!やはりこれも、私の日頃の行いがよいからだと思い、末に「またしても俺のお陰やなあ!」と言ったところ、「いいや、お大師様のお陰と思うぞ!」と、やはり期待どおりの返答。朝飯の前ということもあり、言い争いをして無駄なカロリーを使いたくなかったので、「お前もそのうち分かるようになる。」とだけ言って、この内容のない会話を終わらせた。
朝飯
朝飯は離れのレストランで食べるようになっている。午前7時半ぐらいにレストランに行くと、既に何人かの人が来ていた。朝飯は、客が席に着いたことを確認してから店員が持ってくるようになっている。私達が席に着くと、1分もしないうちに店員が朝飯を持ってきた。内容は、大体前日と同じようなものだった。
ここの朝飯も美味かったらいいなという期待を込めて、出されたものを口に運んだのだが、ごはんは軟らかいは、味噌汁は塩が辛いはで、全然×である。飯が美味いかどうかは、宿の大きさも新しさも関係ないということを改めて感じた。
それでも、食えないというほどの不味さではないので、遍路のことも考えて、出されたものは全て食し、ごはんも3杯おかわりをした。
出発
部屋に戻って、旅支度を済ませ、忘れ物が無いように、よく確認をしてからチエックアウトした。時刻は、もうすぐ午前9時になろうかとしている頃。歩き遍路さんに比べると、随分ゆっくりした遅めの出発だが、これが自転車で遍路する私達の利点である。苛酷な遍路道や山道を除くと、歩き遍路さんの何倍ものスピードで進めるために、時間には余裕がもてるのだ。でも、あまりのん気にもしていられない。限られた短い時間で、出来るだけ、たくさんの寺で納経をしようと思うと、時間を無駄にはできない。だから、もうこんなに遅く出発することはしないつもりだ。
私達が自転車に乗って走りだそうとした頃には、小雨もすっかり上がっていた。
28番 大日寺
大日寺までは、かとり旅館から3~4㎞ほど。平坦な道だけなので、難なく到着することが出来た。この寺は余裕だったなと思って、気を緩めかけたところに、またもや階段が!
急な坂を登ることや、山中の長い階段を登ることと比べれば大したものではないが、何もないと思いこんでいたので、この階段はすごく余計なものに感じた。「またかよぉ~」とぶつくさ言いながらわずかばかりの長さの階段を自転車を抱えて登った。
階段を登ると、この日初めての寺の山門が現れた。「第28番大日寺」、どこかで聞いた名前だと思ったら、それもそのはず、4番と13番の寺も大日寺だったからだ。何故、同じ名前の寺が3つもあるのだろうか?おそらくこの寺の宗派である真言宗の中心仏が大日如来であることからの由来なのだろう。何も同じ名前をつけなくても・・と、思ったりもしたが、さすがにそんな芸のないことはしないだろうから、もしかすると意味があってのことなのかもしれない。
私達が本堂で、納経をしている最中に、ツアー客らしき30人ぐらいの白装束の集団が来て、私達の横で納経を始めた。ツアーコンダクターらしきおじさんが一人前に出て、大きい声でお経を唱え、それについて後ろの者もお経を唱える。お経の一区切り一区切り、大きい声で非常にゆっくり、はっきりと唱えるので、聞いていてすごく滑稽に聞こえた。四国では、当たり前の光景なのかもしれないが、他の場所で、このような光景を見たら、かなり怪しい集団に見えるはずだ。こんな奴らと一緒にいたくないので、ハイスピードでお経を唱えて、本堂での納経を終え、大師堂でも、この集団が来る前に納経を済ませた。
大師堂で、納経を終えると、久々に雲の合間から青空が見えた。青空はいい。やはり、太陽に当たると元気がでる。しばらく空を見上げていると、俄然、やる気が体中にみなぎった。当然のことながら、天気というものは、やる気を左右するものだとつくづく感じた。
お遍路グッズ店
納経所で記帳を終え、山門を出て次に行こうとした時に、門の斜め前にお遍路グッズを売っている店があるのを見つけた。一番の寺で売っている値段よりもかなり安く売っている。他の寺で売られているものもそうだったから、今さら驚きはしなかったが、最初に立ち寄る1番の寺で購入される人は必然的に多くなることから、人の足元を見た商売をしていることに、つくづく憤りを感じるのだった。寺を維持管理するのに金が要るから、寺が商売するのも仕方ないとは思うのだが、せめて値段を他と一緒にして欲しいものだ。
店内に入ることはしなかったが、専門店だけあってかなりの種類と品数の商品を置いてある店であることは、外から見ても分かった。そして、店内で陳列されている遍路着を見て遅ればせながら気付いた。そういえば、今回は遍路着の半帷子を持ってこなかったなと。気が緩んでいたのだろうか。
何だろう?
大日寺から国分寺に行く前に竜馬歴史館に寄ることにした。行く途中にふと山の方を見ると、何と山頂に城が建っているではないか。「あれは何だろう?いかがわしいホテルだろうか?それとも誰か趣味の悪い人の家だろうか?」と想像しながらも、さすがに山頂まで行って確かめるのは面倒臭いので、想像するだけにとどめた。
竜馬歴史館
竜馬歴史館に着いた時は、開館したばかりとあって、私達以外には誰もいなかった。高知県が輩出した高知県の英雄、いや、日本の英雄である坂本 竜馬の記念館は是非とも訪れてみたかったところだ。
思えば、坂本 竜馬の熱狂的ファンになったのは、「お~い!竜馬」という漫画を読んだことからだった。幕末という閉鎖的な武士の時代にありながら、当時としては考えられないほど柔軟で大きいものの見方をしていた竜馬に私は心酔している。
幕末~明治維新の頃の人物には、魅力的ですごい人物が多いが、それらの英雄の中にあっても竜馬の存在は一際輝きを放っている。すごい人は世間に知られてない無名な人の中にこそ多いとは思うが、その人達を含めても近世の日本においては、誰一人として竜馬に並ぶ人なんていないのではなかろうかとさえ思えてしまう。幕末という、私からすれば4~5代前の比較的近い時代を生きた人なので、他の歴史上の英雄よりも親近感が湧くのも無理はないかもしれないが、多分いつの時代にあっても一番好きな人物には間違いないと思う。
いろいろと竜馬に思いを馳せながらも、どんな竜馬に会えるのだろうとドキドキしながら歴史館の中に入った。
思ってたのと違う・・・
歴史館の中に入ると、懐に右手を突っ込んだ有名なポーズの蝋人形の竜馬が私達を出迎えてくれて、思わず感動した。これは、この先、期待出来るかとも思ったが、奥に進んでいくにつれて、期待は失望に変わった。どうやらこの歴史館は蝋人形を並べて竜馬の歴史を表現しているだけで、私が想像していた当時の写真や竜馬の書いた手紙、記録などの資料を展示する資料館とは違ったのである。
ガッカリはしたが、蝋人形の背後に飾ってある掛け軸などは、当時の有名人が書いた本物であり、それがたくさんあったものだから驚きだった。
1,050円という高い入館料を払っているから、面白くはないけど、元を取るためにじっくり観てまわった。30分ぐらいで退場し、お互いに眉をしかめながら顔を見合わせて、「あの掛け軸が良かったなあ!」「いや、俺はあの置物が良かった!」と、物の良さも分からないくせに褒め合って、入館したことを後悔しないように努めた。それにしても、1,050円を勿体ないことしたとは思いたくないものだから、心にも思ってないことを言い合ってお互いを納得させようとする自分達って、みみっちい人間だと思った。
一応、自分達は竜馬が死んだ歳と同じ歳なのだけど、こんなみみっちさでは、竜馬の鼻クソにも遠く及ばない。
あぜ道
竜馬歴史館から29番 国分寺までは約10㎞ほどの道程。これまで80㎞や30㎞以上の長丁場を走ってきた私達にとって、このぐらいの距離は短いものだ。日常生活では、走りたくない距離ではあるが、この時は余裕に思えた。
途中、広い畑の中のあぜ道を通ったため、方向がつかめなくなって、少し迷ったが、それでも予定していた昼前頃には29番 国分寺に到着することが出来た。
29番 国分寺
またもや国分寺。確か15番の寺も国分寺だった。奈良時代に聖武天皇が全国に建立させた寺だから、土佐の国にもあるのは当然だが、ということは伊予の国と讃岐の国にもあるのかと思った。
到着した頃には、空がすっかり晴れわたっていた。天気予報では曇りのち雨となっていたのに。天気予報も当てにならない。台風が直撃する予定だったからか、やはり私達以外に3~4人しか人がおらず、ガラ~ンとした境内は寂しかった。本堂で納経を終え、大師堂に行くと、先に一組の夫婦らしき人が納経をしていた。
その横で、私達も納経をしたのだが、面倒臭くなり、前日と同じくハイスピードでお経を唱えたので、先に始めていた夫婦より先に納経が終わってしまった。それに驚いたのか、奥さんの方が「お経がお上手ですけど、もしかしてどこかのお寺の住職さんですか?」と話しかけてきた。すぐに「違います。違います。ただ速く唱えていただけですから。」と言って弁解した。どうやらお経を大きい声で速く唱えていたから、上手に聞こえて本職の人と勘違いしたらしい。「大きい声で速く唱えれば、それなりに聞こえるんだなあ、心はこもってないのに。」と、適当なことをして勘違いさせたことを申し訳なく思った。
それはどうでもいいとして、連れの旦那さんが元気なさそうにしているのが気になった。何か病気を患っているのだろうか?さすがに聞くことはしなかったが、奥さんが旦那さんに肩を貸すような感じで寄り添っていることからも、それは間違いないと思った。だから、おそらく病気平癒のために願をかけて寺をまわっているのだろう。楽しさや経験というものを追求して寺をまわっている私達とは、対照的である。去っていく夫婦の後姿を見て、いろいろな事情の人がいるんだなと、しみじみ思った。ちょっと、しんみりした気分になったが、その気分も青空を見上げるとどこかに行ってしまった。
時刻はもうすぐ正午。腹が減ってはいるが、次の寺まで近いこともあり、そこで納経してから昼飯にすることにした。
縁切り寺
30番 善楽寺に向かう道中で「縁切り寺」と書かれた看板を見つけた。名前のインパクトが強いので、つい自転車をこぐのをやめて、看板を見るために立ち止まってしまった。その看板には、「縁切り」の他にも運勢鑑定や各種の祈祷などのことも書いてあった。看板を見る限り、いかがわしい寺のようにも思える。
横で、末が「俺もお前と縁が切りたいから行ってみようかなあ。」なんて言っている。自分もこいつと縁が切れるのなら行ってみてもいいかなとも思った。
しかし、人の縁を人が切ることができるのか?切れたと思っても、切れてなかったりするんじゃないのか?と疑問に思ったりもした。
高知市突入!
いかがわしい看板から10分も走ると、ついに高知市に突入した。一昨日から「高知市まであと○㎞」と書かれた標識を目標に走ってきたから、何だか一つの目標を達成した気になった。しかし、まだまだこれからである。当初の目標である36番の寺までは、何があっても行かなければならないのだから、ここで気を緩めるわけにはいかない。
そう思って、ペダルを踏む脚に更に力をこめた。
土佐神社
30番 善楽寺と書かれた看板を頼りに、それらしきところに到着したが、何かが違う。何で入口に山門ではなく、鳥居があるんだ?ん?何か雰囲気も違うぞ!と思ってガイドブックを見たら、ここは善楽寺ではなく、土佐神社だった。入口も敷地も同じなので、間違えるのも無理はない。明治の神仏分離令が出る以前は、寺も神社も混在していたから、その名残りかとも思った。
実際、この神仏分離令が要因となった廃仏毀釈で、一時は廃寺となり、昭和の始めに復興したと、ガイドブックには書いてあった。
廃仏毀釈では、この寺だけではなく全国で多くの寺が破壊されたり、おびただしい数の仏像や経文、仏具などが処分されたというから驚く。こんなことしなければ、後世に残すべき貴重なものが、たくさん残っていたのではと思うと大変悔やまれる。おそろしく無駄で馬鹿なことをしたものだと思った。
30番 善楽寺
土佐神社の敷地の中を100mほど歩いて、善楽寺に到着。この寺は子宝祈願にご利益があるらしい。結婚してまだ子供がいない私にはうってつけの寺だが、祈願はしなかった。
この寺では、国分寺で出会った夫婦や、大日寺で鬱陶しいと感じた白装束の集団と再会した。白装束の集団は納経の真っ最中で、相変わらず、うるさくて鬱陶しかった。大人数で、大合唱するものだから、納経するのに気が散るのだ。全員で一斉に唱えることなどせずに、各々でやればいいのにとも思った。迷惑な集団だ。
納経を済ませると、既に午後1時になろうとしていたので、高知市内で飯屋を探すことにした。
さすがは四国!
激烈に腹が減っていたということもあり、ランチにはトンカツやステーキなどの肉をがっつきたいと思っていた。しかし、市街に入ってそれらを食わせてくれるような店を探すのだが、見つからない。
あまり探しまわるのも体力を消耗するだけなので、丁度通りかかったチェーン店らしきうどん屋に入ることにした。この店も徳島で入ったうどん屋と同じくセルフサービスの店で、かなり評判が良い店なのか、店の中は客がいっぱいだった。
うどんの本当の美味さを味わうには、ざるうどんに限ると思い、ざるうどんをチョイス。チェーン店ということで、全く期待はせずにガブついた。 一口食べて、自分の認識が甘かったということに気付かされた。そのうどんの美味さときたら、これまでに食った中で一番美味いと思った高松駅のうどんに並ぶぐらいのものなのだ。麺のコシといい、ツルツル感といい、麺つゆのダシ加減といい、絶品である。チェーン店のくせにこの味はどうしたものか。おまけに値段も安い。客が多いわけも分かる。さすがは四国、恐るべしと思った。
駅のうどん屋やチェーン店のうどんで、こんなに驚いていては、うどんの本場である讃岐の老舗のうどんを食ったら一体どうなるのだろうか?あまりの美味さに黙り込んでしまうか、感動して泣いてしまうかもしれない。「いやあ、これは美味い。」「マジで美味い。」と2人で何度もつぶやきながら、うどんを食した。うどんを食い終えた2人の顔はとても満足気で、店を出てからも、しばらくは、その味の余韻に浸っていた。
また迷う
31番 竹林寺までは、うどん屋から5㎞ぐらいのはずで、大して距離はないが、結構、込み入った高知市街を走るので、迷ってしまう。遍路道の小さい看板も道路標識や商売看板などの様々な障害物に阻まれて非常に見にくい。おまけにただでさえ狭い道の中央を市電が走っているために、自分のすぐ側を自動車が走るようになるので、走りにくくて非常に怖い。
何度も何度も同じ道を行ったり来たりしながら、ようやく遍路道の看板を見つけて、遍路道に入ることが出来た時には、ホッとした。
遍路道
この日初の遍路道らしい遍路道。竹林寺は五台山公園内の小高い山の頂上にあるため、公園内の遍路道を通るようになる。公園というだけあって、公園内の樹木や遍路道は手入れが良く行き届いている。麓から山頂までの山全体が立体的な公園といった感じで、様々な樹木や風情のある石畳などが、遍路道を登って行く私達の目を楽しませてくれた。
ただし、目を楽しませてくれたといっても、急で険しい遍路道には変わりなく、それを登っていくことは、かなり体力を要した。
遍路道を登る途中で、後ろを振り返ると高知市街がよく見える。かなりの絶景である。この景色を気に入ってか、途中で何度も足を止めた。
そして、遍路道も終盤にさしかかろうとした時に目の前に緑のトンネルが現れた。その緑のトンネルに木洩れ日の差しこむ様があまりにも美しいので、思わず足を止めて、末がトンネルの中をくぐろうとする瞬間を写真に撮った。こんな美しい情景には滅多にお目にかかれるものではないからだ。普段なら、気にも留めないで、見過ごしてしまいそうな情景かもしれないが、遍路道を登ることに集中して心が限りなくピュアに敏感になっているからこそ、その美しさに気付いたのかもしれない。
これまでの遍路でも、こういうハッ!とすることが幾度かあった。そういうことがある度に心が震えるほどに感動するのだ。こういう気付きや感動があるからこそ遍路というものは面白い。でも、それはお遍路に限ってではなく、普段の生活の中にも同じくあると思う。ただ、自分が気付かないだけ、気付こうとしないだけだ。
31番 竹林寺
竹林寺に到着すると、まずは山門の前にあるみやげ屋で高知名物アイスクリンを購入して食す。アイスクリンとは、アイスクリームとシャーベットが合わさったような食い物で、ザクザクした食感が食べていて心地良い。汗をかきまくって喉が渇いていたから、とても美味しくいただけた。余談ではあるが、この店で飼われている子犬はとても可愛く、ついつい手が伸びそうになった。しかし、犬とじゃれている暇はないので、犬を触りたい気持ちをグッとこらえたのだった。
竹林寺はとても趣きのある寺で、境内には見所がたくさんある。重厚な石階段、たくさんの広葉樹、真っ赤な五重の塔など、見応えは十分だ。
これは、納経を終えてもすぐ去るのは勿体ないと思い、納経を済ませた後に少しだけ見てまわることにした。境内を見てまわって、まず目についたのが、夢窓疎石によってつくられたという見事な庭園で、一切の装飾を排除した簡素で落ち着いた雰囲気の庭であった。
次に目についたのが本堂の中の曼荼羅だ。曼荼羅には胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅があるのだが、ここのは胎蔵界曼荼羅だった。遠くから見ていても実に見事な曼荼羅だった。寝室に貼ったら良く寝れそうなので、こんなに大きくなくてもいいから、自分も1枚欲しいとも思った。また、ここの曼荼羅がこんなに見事ならば、前回の遍路で出会った坊さんの祖父の寺の日本一の大きさを誇る曼荼羅なんて、どれほどすごいのだろうかと、思いを巡らせもした。
その他にも五重の塔などひととおり見てまわってから、最後に本堂の横にある赤い帽子と前掛けをつけた可愛い大師像に挨拶をした。お地蔵さんみたいなその大師像を見て、弘法大師というは人間でありながら神格化されているのだと感じた。それだけ、人智を超えた人物だったのだと思われるが、死して千年以上も人々に親しまれ、慕われている理由というのは、決して超常的な力を持っていたという理由だけではないはずだ。やはり、人々に慕われるのは、その人となりや人格によるところが大きいのではないかと思われる。いくら超常的な力を持っていても、人格者でなければ鬼や妖怪と呼ばれるだけだろうから。
時刻はもうすぐ午後3時。もうここに留まっている時間はない。「ここのもみじは紅葉の時期はさぞ綺麗なんだろうな。いつかその時期に来てみたいな。」と、思いを残し、竹林寺をあとにした。
お墓参り
次の32番 禅師峰寺までは約6㎞の道程。その次の33番 雪渓寺まで納経を済ませたいと思っていたから、かなりスピードを出す。幸いにも、高知市街からちょっと郊外になったところなので、道は比較的緩やかで走りやすかった。スピードにのって心地よくとばしている最中に、前を走っている末が急ブレーキをかけたので、こっちも急ブレーキをかけた。どうやら、土佐勤皇党の党首でもあり、「お~い!竜馬」の漫画の中では竜馬と親友という設定だった武市半平太(瑞山)の墓を発見したらしい。
同郷で、同じ時代を生き、同じように活躍した人であるから、交流はあったのかもしれないが、親友という設定はどうも怪しい。しかし、歴史を動かした偉大な人物の一人には間違いない。折角、見つけたのだから、挨拶をしていくことにした。
武市半平太は、土佐郷士であった。郷士とは一応、武士ではあるが、上士といわれる身分の武士よりも身分が低く、武士とは名ばかりで、農民と同じく虐げられた存在だった。そんな土佐郷士のリーダー的存在が武市 半平太である。文武両道に長け、人望も厚い、まさしくリーダーの器を持った人だったらしい。多くの偉業を成し遂げたが、最後は土佐藩の家老を暗殺した首謀者ということで、土佐藩に切腹させられてしまう。波乱の人生を生きぬいたすごい人だが、私はこの人が成した偉業よりも、死ぬまで妻のお富さん一人しか愛さなかったという、この人の誠実で純粋な人間性に魅かれている。あの頃の有名人の殆どが妾をつくっていたからこそ、武市半平太の純愛に心打たれるのだ。
武市半平太の墓は、思っていたよりも質素な普通の墓で、その横にはお富さんの墓が仲良く寄り添うように建っていた。お富さんは、武市 半平太が死んだあと、生活に苦労しながらも、大正の時代まで生きて、晩年は幸せに暮らしたという。
「お二人仲良く安らかに眠ってください。」と手を合わせる私の頭の中には、「お~い!竜馬」の中の半平太とお富さんが出てくる様々な場面がうかんでいた。
魚釣りしてぇ
武市半平太の墓参りを済ませ、禅師峰寺へ向かう途中に大きい池を発見した。水草が多く茂っていて、魚がたくさんいそうな雰囲気はある。案の定、あちこちのポイントにブラックバスをターゲットにしているものと思われる釣り人が多く見られた。釣っても食べない魚を釣ることには興味がないが、これだけの数の釣り人を見ると、自分も久々に釣りをしたくなった。しかし、ブラックバスなんて所詮、どんなに大きくても40~50cmぐらいしかない。今までに、数々の大物を釣った瞬間に立ち会ったことのある私には、この釣りは物足りない。「男は大物を求めて海に出るのさ!」と、自分に言い聞かせて、何の未練も残さずにその場を通り過ぎた。
32番 禅師峰寺
途中で、やはりお約束の階段付きの急な登りの遍路道があったが、距離が短いので、そこそこ疲れながらも難なく登りきり、禅師峰寺に到着した。禅師峰寺もやはり小高い山頂にある。ここから見渡す、蒼い太平洋の眺めは最高である。そういえば、前日まで天気が悪かったから、晴れた日の太平洋は初めてだ。高いところから見ると、太平洋の雄大さがよく分かる。前日までは、全てを破壊しつくすような、荒れ狂った海だったが、この日は全てをやさしく包み込むような、穏やかでおおらかな海だった。
人間の表情が変わるように海の表情も変わる。それは、どこの海でも同じかもしれないが、ここの海はスケールが大きいので、そのことが強く印象に残るのだ。
いくら眺めていても飽きない素敵な景色なのだが、時間がないのでいつまでも眺めているわけにもいかない。次の寺まで行かなければので、急いで納経にとりかかった。全てを終えて、納経所を出た時は、既に午後4時をまわっていた。
ここから33番 雪渓寺までは約11㎞ほど。途中にある無料フェリーに乗れば、3㎞は短縮できるらしい。納経所の閉まる時間まで50分しかなく、間に合うかどうかは微妙なところだが、1つでも多く寺をまわりたいと思っていたので、迷わずに行くことにした。
全力疾走!
時間が無い!と焦り、持てる力を振り絞って自転車をこぐ。下りもブレーキをかけるどころか、逆にペダルを踏み込んだ。カーブで大きく膨らみ、自動車やガードレールにぶつかりそうになるも、おかまいなしだった。それは、坂を下りきってからも同じで、どこから人や自動車が出てくるかも分からない見通しの悪い狭い道でもとばしまくった。
切羽詰った時というのは、普段なら気になる身の安全のことも気にならないもので、しかも普段以上の力が出ていたようにも感じた。ただ、時間が無いとお互いに焦りながらも、末とは違って私の方は、多少は、身の安全に配慮するだけの心の余裕もあり、何かあっても真っ先に犠牲になる可能性が大きいのは先頭を走っている末だと思い、どんなにスピードをだしても車間距離だけは必ず一定の間隔に保って走っていた。
フェリー乗り場
全速力でとばしたおかげで、どうにか午後4時35分頃には町営フェリー乗り場に到着することが出来たが、時刻表を見て愕然とした。フェリーは1時間に1本しか運航しておらず、次の出航時間は午後17時だったからだ。納経所は午後17時に閉まるので、とてもフェリーを待っているわけにはいかない。
地図を見ると、町営フェリー乗り場から33番 雪渓寺までは、陸路で6㎞ほど。あと25分ほどあるから、途中で何もトラブルがなければ、間に合うはずなので、フェリーに乗ることを諦めて、すぐに来た道を引き返した。
この町営フェリーは、わずか1㎞ぐらいの区間を往復するだけの瀬渡しフェリーで、乗船するのは無料らしい。どんなフェリーなのか興味があったから、是非とも乗ってみたかったのだが。残念である。
迷う
向こう岸に渡るには、浦戸大橋という橋を渡らなければならない。しかし、この橋が近くに見えるものの、橋に辿り着くことができない。どう走って行ったら目前の橋まで行けるのか?最初は、適当に橋の方に向かって走っていたのだが、路地が迷路のように入りくんで、どうしても橋に辿り着くことが出来ない。
こんなことで時間を無駄にするわけにはいかないと思い、助けを求めて八百屋に駆け込んで、おじさんに橋までの行き方を聞いた。八百屋のおじさんの教え方は分かりにくかったが、言うことはどうにか理解することが出来た。聞いたとおりの道を3分も走ると、橋に辿り着くことが出来たので、ひとまず安心したが、橋を目の前にしてその作りに愕然とした。
浦戸大橋
この橋は、大きくて長いくせに車道、歩道、路側帯ともに非常に狭いのだ。車道の幅が6m、段差があって一段高いところにある歩道の幅が40㎝、路側帯の幅が線の太さも含めて約15㎝ぐらいしかなく、自動車専用の橋と言っても過言ではなく、歩行者や自転車のことを全く考えてない作りに見えた。しかも、橋の中央まではかなりの急な上りである。走りにくいこと、危険なことこの上ない。この時、橋を通りにくい歩行者や自転車のために町営の無料フェリーがあるのかと、悟った。
しかし、フェリーに乗れない以上、向こう岸に渡るためには、この橋を渡るしかなく、覚悟を決めて橋に突入した。
事故と隣り合わせの恐怖
横にフェンスのある、40㎝しか幅のない歩道は、さすがにバランスを崩して車道に落ちて事故する可能性が高くて危険なので走ることが出来ないから、やむを得ず、車道を走ることにした。路側帯も15㎝しかないので、体の幅の70~80㎝は車が走るスペースにはみ出てしまい、片側3mしか幅のない車道では、自動車が自分のすぐ横すれすれを走っていくようになる。おまけに最初は登りだから、体全体に力を入れて自転車をこぐので、気をつけていても、どうしても体が横に揺れて、車道にはみ出る幅が大きくなってしまう。その度に私達を追い越して行く自動車が対向車線にはみ出て走ったり、対向車がある時には、私達の後ろで待って、対向車がなくなってから私達を追い越したりしていた。私達が走っていることで、自動車に迷惑をかけていたことは間違いない。自動車との接触の恐怖に晒されながらも、どうにか橋を登りきり、次は下りだから楽だとふんでいたのだが、そうはいかなかった。
下りはスピードが出るので、更に、自動車との接触には気を使わなければならないし、左側の段差のある歩道に接触しても、車道に弾かれてしまうので、登りの時よりも更に慎重に慎重に自転車を操作する必要があったのだ。針の穴に糸を通すように精神を集中させてハンドル操作をしたので、無事下りきることが出来たのだが、かなり気疲れしてしまった。
自転車で走るので、こんなに怖かった、気疲れしたのは、3年前に博多に行く時に3号線を通った時以来のことだった。
邂逅
橋を下りきり、すぐに道路脇の遍路道に入った。残り時間は、10分ほどしかない。雪渓寺までは、残り2㎞ぐらいなので、時間的には大丈夫だと思われたが、先ほどのように迷うということがあるかもしれないので、全力疾走する。あと一回でも迷うことがあったら完全にアウチだ。
途中、若者2人が歩いているのを「お先に!」と挨拶をして抜き去った。この時、背の高い方の若者が「すげえ!」と言っていたのを私は聞き逃さなかった。多分、猛スピードで走っていたのを見て、そう言ったのだろう。少し得意気になりつつも走るスピードは緩めなかった。
この時は、後で、この若者達2人と再会するとは知る由もなかった。
到着!33番 雪渓寺
雪渓寺への案内看板を見逃すことなく、迷わずに走ったので、5分を残して雪渓寺に到着できた。2人ともうつむいて息をハアハアさせていたが、息を整えている暇はない。急いで、納経するより先に納経所に駆け込んだ。納経所は午後5時に閉まるから、先に記帳してもらって、その後に、ゆっくり納経をしようと考えたからだ。
こういう時は、順番が逆になるのは仕方がないのだ。
変な爺さん
納経所に入ると、おかっぱ頭の爺さんと若い男が2人で筆を走らせていた。私は若い方に記帳してもらい、末は爺さんに記帳してもらった。私は、1分も経たないうちに終わったのだが、末の方は爺さんが、ぶつくさ話しかけるので、なかなか終わらない。
爺さんが話すことというのも、訳の分からない脈絡のない話ばかりで、横で聞いていても辛かった。結局、終わるまでに5分ぐらいかかったのではなかろうか。髪形と同じように変な爺さんだと思った。
この日は、もう次の寺には行く必要がないので、ゆっくり丹念に納経をした。きちんと心を込めて納経したというのも、今回初めてのことで、急いでいるからとはいえ、今までの納経が雑だったことを反省した。
またもやラッキー!
納経を済ませたところで、今日はどこに泊まるかという話になった。次の寺までは、ここから7㎞ほど。天気も良いので、次の寺の近くまで行って野宿しようかと、話していたところに、納経所の若い男が来て、「今日、通夜堂に泊まられる方ですか?」と聞いてきた。そんな予定にはしてなかったので、その時は「いいえ、違います。」とだけ言ったのだが、少し経ってから、もしかするとここの通夜堂で接待してくれるのかもと思い、納経所に戻って泊まらせてくれるよう、お願いしてみることにした。
先ほどの若い男にお願いしようと思ったのだが、不幸にも納経所には、変な爺さんしかいない。この爺さんでも仕方がないと思い、「今夜、通夜堂に泊めさせてもらえませんか?」とお願いした。どのような返事が返ってくるかドキドキしたが、帰ってきた返事は期待していたものと違った。「そこのインターホンを押しなさい。」としか言わないのだ。「そうじゃなくて、泊めてもらえるか、それともダメなのかの返事が聞きたいんですが。」と言っても「押せば分かる。」としか言わない。こんなことで言い合うのも時間の無駄なので、言われるとおりにインターホンを押した。
インターホンを押すと、中から中年の女性が出てきて、「ご予約されてた、お2人の方ですか?」と言われた。「いいえ、予約はしてないのですが、泊まらせていただけたらと思って。」と返事をすると、「あと2人ぐらいだったら泊まれるからいいですよ。」と言って通夜堂に通してくれた。
どこかで野宿するつもりだったから、通夜堂に泊まれることになってとてもラッキーだった。やはりここでも、「俺のおかげだ。」「いや、お大師様のおかげだ。」と言い合いになった。大人気ない2人だ。
それにしても、あのジジイ!そういうことなら、最初から「私ではなく、寺の人にお願いしなさい。」と言えばいいのに、こっちはジジイが寺の者だと思いこんでいるから、「インターホン押しなさい。」だけでは何のことか分からないではないか。やはり、この人は頭の回路が常人とは違うと思った。しかし、私の周りでは滅多に見れない、我が道を行く珍しいキャラには違いない。
通夜堂
通された通夜堂は、境内の入口の近くの隅にある6畳ぐらいの広さのプレハブ小屋だ。天井からぶらさげられた裸電球以外、何もない簡素な作りの部屋だが、泊まるにはこれで十分である。部屋に入るなり、2人とも疲れた体を休めるためにしばらく床に寝転がった。
予約していた者が2人ほど来ると、先ほどのおばさんが言っていたが、それは、ここに来る時に抜き去った2人だと直感していた。案の定、窓から外を見ると、あの2人が寺の境内に入ってこようとしているではないか。
今回初の、接待をうけた宿での、他のお遍路さんとの交流。しかも2人とも若いとあって、これは楽しい夜になるぞと、内心ワクワクしていた。
前途有望な2人
しばらくして、2人が通夜堂に入ってきたので、お互いに挨拶をする。若い2人も私達のことを、ここへ来る前に出会った自転車の2人だと覚えていたようだ。ここでは、背の高い方をサイケン(仮名)、背の低い坊主頭の方をリッキーと呼ぶことにする。
サイケンは神戸から来たそうで、今年の12月より警察官になることが決まっているらしい。警察官になるまでに、何かしようと思い、遍路をすることにしたそうだ。
リッキーは、現在、仕事を辞めて無職だが、将来は何か自分のやりたいことをやろうとしているみたいで、自分探しのために遍路をしているようだった。
2人とも25歳と23歳と若く、前途有望のように思えた。若さは力だ。若さ故に無知なところも多いが、失敗しようが、痛い目に遭おうが、若さのパワーでどうにでもなる。好奇心が多いのも若い頃だ。若い頃に経験した様々なことは、将来の自分の肥しになるから、こうやって遍路のような非日常的で貴重な経験をするのは、彼らにとってすごくためになることだと羨ましく思った。
私が彼らの歳の頃は、彼女のことや遊びのことばかり考えていて、自分の将来のことを考えたり、いかに生きるかということを真剣に考えてなかったから、彼らのことをしっかりしていると、感心した。
サイケンは髪を染めていて、見た目は今の若者そのもの。性格はとても明るく、関西弁でくだけた話し方をする面白い奴だが、見かけによらず、とても礼儀正しかった。
リッキーの方は、坊主頭で見た目は地味。性格も明るいとは思えず、自分のことをあまり話したがらない奴だが、真面目に見えて、実はかなり壊れたところがあり、そのギャップが面白かった。サイケンもリッキーも良い奴だった。
サイケンやリッキーと、とことん膝を突き合わせて話そうかと思ったが、2人とも、今から自炊をするというので、それは後にして私達も晩飯と風呂に行くことにした。それにしても、経費節約のためとはいえ、自炊をするとは驚きだった。2人のリュックを見ると、私達のとは比べものにならないほど大きい。リュックの中には、折りたたみテントから寝袋、コンロや食材まで、キャンプ出来る物が一式入っているという。歩き遍路だと、1日でどのくらい歩けるか分からないから、もし、周りに泊まれるようなところが無かったとしても、寝られるようにとの装備なのだろう。それだけの物が入っていれば、リュックの重さもかなりのものになるため、それを背負って、険しい遍路道を歩くというのは相当重労働なはずだ。
やはり、いくら自転車を抱えて山を登るのがきついとはいえ、歩き遍路さんに比べたら私達は随分楽をしているものだと感じた。
Re変なジジイ
風呂に入りに行こうと思ったのだが、風呂がどこにあるか分からないので、やむを得ず、庭掃除をしていたジジイにこの近くに温泉か公衆浴場がないか聞いた。しかし、ジジイは、普段は風呂に入らないからそんなものは知らないと言う。「ええ~っ!」と、私達が後ずさりしてから、ジジイが更に「戦時中にフィリピンの山奥で暮らしていた時から入ってないぞ。」と続けて、更に「ええ~っ!」となった。
絶対に嘘だとは思うが、あまりにも面白い冗談を言うのでジジイのことを「何て素敵な人なんだ!」と、肯定的に捉えるようになった。80歳にもなって、こんな面白いことを言うジジイなんて見たことがない!でも、このジジイの独特なキャラからか、嘘だとは思いながらも本当のように思えてしまうのだ。本当のことだったら恐ろしいことだが。
余談ではあるが、私が教えてやるまで、末はこのジジイのことを婆さんと思っていたらしい。確かに髪の毛は長くてフサフサしていて、顔もそう見えなくはないから、間違えたというのも分からないでもなかった。
本日3回目
ジジイに聞いても分からなかったので、自分達で風呂を探すことにしたが、どこにあるか見当もつかず、同じところをウロウロしているだけだった。そのうち、変な道に迷いこみ、街中からどんどん離れてしまった。周りは既に真っ暗なので、結構不安だったが、30分も走ると、最初に通ってきた道に戻ることが出来た。
あてもなく探すのも疲れるので、通りがかりの人に聞いたが、寺の近辺にはないとのことだった。仕方なく、汗をかいたついでに寺から4㎞ほども離れた桂浜ホテルに行くことにした。
晩飯
桂浜ホテルに向かう途中にあったシーフードレストランで晩飯を食うことにした。本当は、ラーメン屋か定食屋に入りたかったのだが、田舎であるこの近辺には、ここしか飯を食う店が無いと思われたから、仕方なしでのことだった。私は海鮮オムライスを末は鰹のたたきと海鮮丼を食した。私のオムライスはというと、もう二度と食いたくないぐらいの不味さで、思わず残そうかと考えてしまった。また、末の注文した鰹のたたきを分けてもらって食べても、スーパーで買うのと味は同じようなもので、これならコンビニで弁当でも買った方が安上がりで良かったとも思った。しかし、当たりハズレがあるからこそ、旅での飲食店選びは楽しいわけで、良くも悪くも思い出には残る店となった。
桂浜ホテル
桂浜ホテルは、桂浜をすぐ下に臨む山頂にある。真っ暗で桂浜の様子は分からないが、桂浜ホテルに向かう坂を登りながら、この下にあの桂浜があるんだ!と、少し感動していた。思ったよりも急で、晩飯を食ったばかりのお休みモードに入っている体には酷な坂を上り終えると、目の前に大きなホテルが現れた。この時は、やっと風呂に入れると、喜び勇んでホテルに入った。
特別配慮
ホテルのロビーに行き、女性社員に「風呂に入りたいのですが。」と言うと、「本日は、入浴客の方は6時で終りなのですけど。」と言われた。この時は、既に午後8時になろうとしていたから、全然時間オーバーである。「どうにかしてもらえませんか?」と言って粘って女性社員を困らせていると、奥から上司らしき人が出てきて、「いいですよ、どうぞお入りください。」と言って中に入れてくれた。
さすがにこの上司、伊達に歳はとってない。私達が苦労してここまで上ってきたことを私達の汚い格好を見て気付いたようだ。ある程度の権限があるから出来たことだとは思うが、おかげで風呂に入れることになったので、この人の融通を効かせた気遣いに感謝した。
展望風呂
風呂はホテルの最上階にあり、風呂から桂浜や太平洋が一望出来るようになっている。が、真っ暗なので何も見えず、ガッカリした。しかし、大きい風呂に首までドップリと浸かることは、かなりの気持ち良さだった。のぼせてくると、風呂から上がって熱を冷ましては、また入るということを何度も繰り返したため、これまでと同じく長風呂になってしまった。遍路でも他の運動でもそうだが、体を激しく動かした後の風呂は、いつもより気持ち良いのだ。
汗や垢と一緒に1日の疲れまで流せたようで、風呂から上がった2人はボーッとしていて、軽い放心状態だった。
くつろぎタイム
折角、風呂で汚れを落としたのだからと思い、帰りは汗をかかないぐらいの適度なスピードで走った。海岸沿いを走っていると、そよそよと潮風が顔に当たって気持ち良い。ほぼ一日中、体を酷使する遍路生活にあって、風呂に入った後は、寝るだけなので、1日を振り返ることの出来る、貴重なくつろぎの時間である。だから、毎日このくつろぎタイムが訪れることを心待ちにしている。この時は、潮風に吹かれながら、今日はよく動いたなと、充実感に浸っていた。
一期一会
途中、コンビニで皆で食べる夜食と次の日に食べる朝食を買いこんで、通夜堂に帰った。私達が帰った時は、午後9時を過ぎていたので、サイケンとリッキーは食事も後片付けも済ませて、寝仕度をしているところだった。カレーを食ったとのことだったので、部屋の中は香ばしいカレーの香りが充満していた。皆、朝が早いので、もう寝なければならない時間かもしれないが、折角、遍路が縁で出会えたのだから、皆で夜食を囲んで宴会ならぬ雑談会をすることにした。
一人一人の身の上話から、馬鹿な話や、どうでもいい話まで、いろいろなことを話した。私は相変わらず、自分の体の自慢や漢塾のことばかり話していたように思う。内容のある話も、ない話もあったが、見ず知らずの若い人達と肩肘張らずに、思うままに話したいことを話すのは楽しかった。
お互いに遍路に来なかったら会うこともなかったし、私達がこの日にこの寺まで来ることを諦めていても会えなかったと思うと、この出会いをすごく貴重なものに感じるのだった。おそらく、彼らとはもう出会うこともない、一生に一度の出会いであろう。だから、この貴重な時間が少しでも長く続くようにと願った。
裸の付き合い
雑談会が盛り上がると、皆ますますヒートアップして、折角だから肌を合わせようかということになった。肌を合わせると言っても、いかがわしい行為をする訳ではない。誰もそんな趣味はないから、裸での記念撮影と腕相撲をするだけのことである。
まずは記念撮影をしたのだが、サイケンもリッキーも痩せていながらも、引き締まったなかなかの肉体をしていて、鍛えればそこそこの体になるのではと感じた。
腕相撲は、私が自分の強さを見せつけるために、無理やり?させたのだが、サイケンもリッキーも思ったよりもマジにエキサイトして、今にも血管がブチ切れそうな素敵な表情を見せてくれたので、相手をしながら笑いをこらえることが出来なかった。
2人が、あまりにも私の強さに驚くので、それならばと、調子に乗って2人を自分の腹筋の上に乗せてジャンプさせた。またまた2人が驚くので、それならばと、更に調子に乗って今度は胸筋を思いっきり殴らせた。2人は憎しみを込めて思いっきり殴る。いくら殴っても効かない(本当はちょっと痛い)ので、2人はまた驚く。
さすがにそれ以上はさせることがないので、今度は自分の武勇伝の話になった。調子に乗ると、どんどん無邪気に子供化してしまう大人気ない私。こうして楽しい時間は過ぎていった。
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