四国八十八ヶ所 自転車遍路(第二弾)
- カテゴリ
- BICYCLE
- 開催日
- 2004年10月07日(木) ~ 2004年10月11日(月)
五日目(2004/10/11)
最高の
夜中に一度も眠りから覚めることなく、午前6時前に目覚めた。これまでにないほどの最高の目覚め。瞼も、頭の芯も重いことはなく、とてもスッキリした気分だった。おまけに、この日はこれまでで一番の快晴で雲一つ無い最高の天気だった。
既に他の部屋の人は、宿を出始めているようで、部屋の外の廊下はガヤガヤ騒がしかった。私達は、ここで納経をして帰るだけなので、急いで宿を出る必要はなく、時間にはゆとりがあった。この時は、アホの末はいびきをかいて寝ていたので、これ幸いとばかりに、この朝のさわやかな時間に前日の記録を書いておくことにした。アホの末のいびきが邪魔ではあったが、それを除いては、すごく心地良い時間だったので、記録を書くのがはかどった。それでも、前日はいろいろとたくさんの出来事があったので、簡潔にまとめても書き終わるまでに1時間を要した。そして、丁度書き終わろうとする頃にアホの末が起きた。
出仕度
テレビを見ながらゆっくり朝飯を食って出仕度をした。アホの末も私もお互いに、辛い移動をしなくてよいのと、この日には家に帰れることから表情は明るかった。しかし、折角、遍路の生活に慣れてきた頃に帰らなければならないことに幾らかの寂しさはあった。帰ってしまえば、また半年は四国へ戻って来ることができない。その間には、寒い冬を越さなければならないし、いろいろなことをクリアしなければならない。勿論それは、ここへ来るまでも同じで、やはりいろいろなことがあったし、クリアしなければならないことも多々あった。また、いろいろなことをクリアして来るのは面倒くさい、このまま遍路を続けた方が楽でいいと思ったが、サラリーマンである以上、そんな長期休暇を取れるはずもなく諦めるしかなかったのだった。
この時は、次来るまでにいろいろ経験して、いろいろなことをクリアして今とはまた違った自分でこの地に立つのが良いのだと自分に言い聞かせていた。
出発
出仕度を整えて、午前8時過ぎに部屋を出た。1階に降りて宿代を支払おうと、勘定するところを探すが、いくら探しても見あたらない。どうやらこの宿坊には勘定をするところが無いのだ。おまけに玄関付近にも誰もいない。アホの末と冗談交じりに「これなら泊まり逃げ出来るのお!」と話したが、当然そんなことはするはずがなく、人がいる納経所まで行って、勘定はどこでしたら良いか聞くことにした。納経所で、爺さんに聞いたところ、ここが勘定をするところだという。納経所が宿代を支払うところだと聞いて驚いた。普通は、宿の中で支払うものと思っていたからだ。でも、よく考えたら2日目に泊まった旅館も、敷地内にあるレストランが支払い場所だった。それを思い出すと、こんなのもありかなと思った。しかし、支払い場所の案内ぐらいあってもいいものだとも思うのだった。お遍路さんには、支払わずに帰るような人は居ないと思うが、中には支払い場所が分からないのをいいことに支払わずに帰ってしまうような輩もいるかもしれない。支払い場所の案内をしていないのは、泊まる人の人間性を信用してからか、それともただ単に忘れているだけなのか、考え込んでしまったが、よく考えたらそんなことは、どうでも良いことだった。
ここでは、友人への土産を買い、宿代と一緒に支払いを済ませ、最後の納経をしに本堂へ向かった。
37番 岩本寺
岩本寺の本尊は、不動明王、観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩の5体である。普通は、本尊というと1体であるから、5体もまつっているのは珍しいように思えた。多分、他にはこのような寺はないのではなかろうか。本当ならば一度に5体もの本尊を拝めて有難いところだろうが、そんなものに興味のない私達にとっては、何体まつってあろうが関係のないことだった。
一応、最後の納経ということで、今回の遍路の初日から祈り続けていたことを、なおさら念を入れて祈った。祈っていることが叶えば嬉しいし、叶わなくてもこれだけ祈ったのだから諦めもつく。祈るために遍路にきている訳ではないが、今回はこれが主になっているような気もした。
祈り終わってから、「もうこれで終り。」と、きっぱりけじめをつけた。後々に夢に出てくるかもしれないが、もう祈ることも思うこともないだろう。
本堂と大師堂での納経を15分ほどで終え、今回の遍路の全てが終了した。
ヒロくん
大師堂から出て、納経所へ行こうとした時に初めて、自分達の泊まった宿の全容を見た。宿坊といっても、寺が経営しているただの旅館という感じの建物だった。寺が宿屋なんかやるなよと思ったが、一応は世話になったので、それは思わないことにした。しかし、泊まるのが宿坊ではなく、当初予定していた通夜堂であったならば、4千円が浮いていたと思うと、諦めがつきにくいというのが本音であった。
再び、納経所へ行って記帳を済ませて外に出ると、納経所のベンチの上に犬が居るのを発見した。ベンチの横には、「ヒロ君は機嫌の悪い日があります。」と書いてある。どうやらこの犬の名前はヒロ君らしい。犬好きの私は、さっそくヒロ君を触ろうとしたのだが、この日は丁度機嫌の悪い日だったらしく、軽くガブッ!と噛まれてしまった。攻撃されると、こっちの闘争本能にも火が点く。報復攻撃として殴ってやろうかと考えたが、他人の犬なので殴るのをやめた。
しかし、ワン公のくせに機嫌の良し悪しがあるとは生意気である。うちのジョイにはそういう教育はしておらず、私と一緒の時はいつも機嫌が良いのである。こいつにも教育の必要ありとも思ったが、これまた他人の犬ということで自分には関係のないことだと思い、教育するのもやめた。
という訳で、触ることは叶わないと思い、眺めているだけにした。わがままな馬鹿犬ではあったが、その仕草は可愛いかった。
?
ヒロ君と別れ、寺の門をくぐって境内から出ると、門のすぐ側で、一人のお遍路さんが托鉢をしていた。坊さんなら境内でも托鉢をして良いのだが、一般のお遍路さんは、境内で托鉢をすることは出来ないので、門の外で托鉢をしているのだ。髭がぼうぼうに伸びているため、一見老けて見えるが、よく見ると私達よりは若いようだった。坊さんは修行の一つとして托鉢をしているのだが、こいつは自分が楽するために托鉢しているように見えた。なまじ覚えたばかりの十三仏の真言なんて唱えやがって、誰が金なんか入れてやるものかと思った。坊さん以外で、托鉢をしてその日の糧を得ようとする輩は、こいつばかりでなく、他でも目にしたが、何度見ても胸クソが悪くなる。法に触れることではないが、やるべきことではないと思う。
接待しようとする人は、一生懸命に歩くお遍路さんを見て、何かしてあげたいと思って自分に出来ることをしてあげるわけだし、接待を受ける人は、接待をする人の気持ちを有難くいただくわけだ。この気持ちの関係が崩れるともはや接待ではない。こいつがやっているのはただの物乞いである。極端な言い方かもしれないが、物乞いみたいなことをしていると、哀れに思って仕方なしに金や物を与える人がいるかもしれないし、与えてもらう方も、与えてもらったものに対して不満があることもあるだろう。そんなことが容易に想像できる。お互いにそんなことは思いたくないから、やはりそういうことはして欲しくない。
接待というものがある以上、それにあやかろうとする者がいるのは仕方ないことかもしれないが、こういう輩が絶滅して欲しいものである。
窪川駅
岩本寺から窪川駅までは、自転車をゆっくりこいでも5分ほどで着いた。電車の発車時刻を調べる前にまずは、自転車を解体して輪行バッグに詰めることにした。自転車を解体して輪行バッグに詰めるのは、相変わらずの面倒臭さだったが、何度も同じことをやっていると手際が良くなるもので、初めてやった時よりは格段に早く、そして美しく輪行バッグに詰めることができた。
自転車の解体詰め込み作業が終わってから、駅の中に入って電車の時刻表を見た。丁度、運が良いことに30分後の午前10時3分発の左回りルートの電車があったので、それに乗ることにした。この時は、横に長い高知県の左端に近いところまで来ており、ここまで来た右回りルートの電車に乗るよりは、左回りルートの電車に乗る方が、到着時刻も遥かに早く、乗り換え本数も少ないので、これに乗ることにしたのだ。30分という時間は、待つにはほど良い時間だった。
四国へ来た時は雨で、帰る時は晴れ。このことは、私達の先々のことを示唆しているかのようにも思えた。帰りたいような帰りたくないような、半分後ろ髪を引かれるような思いであったが、どう思ってもやはり帰らなければならない。「また来るぜ!」と心の中で叫んで電車に乗り込もうとした時に、先ほど自転車を解体した場所に目をやると、私達二人が立っているのが見えた気がした。
私達の思いが残っていたのだろうか?それとも未来が見えたのだろうか?おそらくは気のせいか、またここへ戻って来たいと強く思う気持ちからだと思うが、いつかまた、私達二人がこの地に立っていることは間違いない。次回遍路はここ窪川駅から始まるのだ。
鈍行電車
私達が乗ったのは、両側の席が向かい合った一車両だけの鈍行電車である。窪川から特急電車に乗り換える宇和島までのわずかばかりの距離をこの鈍行電車に乗るわけだが、鈍行だけに各駅停車のため、特急だったら1時間もかからないところを2時間以上もかかってしまうのだ。
通常ならば、落ち着きのない私が、暇を持て余しそうに思えたが、実際そうはならなかった。何故なら窪川駅を発車してからの景色がとにかく素晴らしかったからである。窪川駅を発車した電車は、高知県と愛媛県の県境をまたぐためにひたすら山を登っていくようになる。電車から望む渓谷や山々の景色の美しさに見とれていたのは勿論だが、私が特に魅了されたのは眼下に望む四万十川の景色だった。テレビでは何度も見た四万十川だが、この目で見るのは初めてであった。日本最後の清流と言われているだけあって、離れたところから見ていても、その美しさを感じることは出来た。そう感じると、欲が出るもので、出来ることなら、もっと近くで見たい、川に入ってみたい、そして幻の魚と言われる赤目を釣ってみたい、と思ったのだった。魚釣りをしている暇はないので、赤目釣りは無理としても、その他の願いは、次回の遍路で叶えられることであろう。車内では、あっちを見たりこっちを見たりで、鈍行電車に乗っていた2時間は、あっという間に過ぎ去った。
宇和島駅
宇和島に着くと、乗り換えの特急列車に乗るために特急電車の発車する別のホームまで急いだ。ここでの乗り換え時間は、30分ほどあり、十分に時間の余裕はあるのだが、なるべく早く電車に乗り込んで自転車を置く場所と、良い席を確保したかったのだ。
大きい駅ではないものの、鈍行電車から特急列車のホームまでは結構距離がある。ただの手荷物なら問題ないが、自転車の入ったとても持ちにくい輪行バッグを抱えていては、すごく走りにくい。おまけに走ると、自転車のサドルやハンドルが体にゴツゴツ当たってとても痛いのだ。それでも、目的のために痛みを我慢して特急列車のホームまで走りきった。走ってきたおかげで、ホームには一番乗りだった。否、走ってこなくても一番乗りだっただろう。何故なら、私達の他には、しばらく誰も来そうになかったからだ。それなら、痛い思いをして走らなくても良かったと後悔したのだった。
アンパンマン列車
ホームについて5分ほどして、特急列車がホームに入ってきた。何とその特急列車は車体全体にアンパンマンの絵が描かれたアンパンマン列車だった。期間限定でこういうことをやっているのかは分からないが、これは子供が喜びそうなことをするものだと思った。アホの末は、息子がいるから、こういうのに乗せてやりたいと思うからか、やけに「こういうのはええのぉ!」と感激していた。そのようなアホの末とは対照的に、エコノミストの私は、この8車両全部にアンパンマンを描くには、どれくらい金がかかったのだろうかと計算していた。
アンパンマン列車を眺めるのもほどほどに一番に列車に乗り込むと、輪行バッグをデッキの手すりに括りつけてから、安心して席についた。私達が席についてから10分ほどで、アンパンマン列車は発車。松山へ着くまでの1時間と少しばかりの時間は、ずっと今回の遍路のことばかりを考えていた。本来の目的である自分を見つめるという作業が、自分の願いばかり祈るという作業になっていたことを反省したのだが、その時その時に思い詰めていることに囚われるのは凡夫である私にはやむ得ないことなので、「仕方ねえよな!」と、しきりに自分を納得させるのだった。
しかし、反省するばかりではなく、自分にとって良いこともあった。実は、思い詰めていることが原因で、今回の遍路は、どこか明るくなりきれない何かを引き摺るような気持ちで始めたのだが、こうやって帰る時の心境は、全く濁りのない明るいものになっていたのだ。これは、遍路のおかげと言えば、そうなのかもしれないが、何かに夢中になること、他のことを忘れるほどに一生懸命になれるもののおかげだと思った。
幸いなことに遍路でなくても、私は日常生活の中にそういうものを持っている。そういうものがある限り、「何があっても大丈夫!」とまでは自信がないものの、「どうにかなるやろ!」と思える。それが分かっただけでも、今回、遍路に来た甲斐はあった!
松山駅
松山駅には、午後14時過ぎに到着。窪川駅からは約4時間ほどの時間だった。右回りの徳島方面⇔松山と比べると、断然楽なものだった。この日は、連休の最終日ということもあって、駅は人が多かった。
ゆっくりしていたかったのだが、三津浜k港まで自転車で移動しなければならないため、すぐに自転車を組み立て始めた。毎度のことながら、自転車の組立て解体作業をしている時というのは、よく目立つ。道行く人の視線を嫌というほど浴びるが、既にそれも慣れた感があった。
組立て作業を10分ほどで終え、キヨスクで土産を買ってから松山駅を後にした。四国へ来る時も四国から帰る時もこの松山駅が拠点となるため、この駅に対する思い入れというものは大きい。「また、半年後もここへ来れますように!」と駅を振り返りながら、何度も心の中で呟いたのだった。
屈辱
時刻は、午後14時を過ぎていたが、まだ昼飯を食っていなかったため、三津浜港へ行くまでの道中で、どこかの店に入って飯でも食おうかということになった。それなら、前日の大ポカの貸しを返してもらおうと、肉を食わせてくれる店を捜した。が、ラーメン屋やうどん屋ばかりで、肉を食わせてくれる店がなかなか見つからない。
このままでは三津浜港へ着いてしまうと思った時に見つけたのが、とんかつ屋とステーキ屋だった。どっちにしようかと迷った挙句、選んだのがとんかつ屋だった。選んだ理由は、ステーキ屋の方はチェーン店で、値段が安そうであり、とんかつ屋の方が老舗っぽくて値段が高そうに感じたからである。
「さあ、お前の奢りやから、好きなものを食わせてもらうぞ!」と言って先に店内に入ろうとしたところ、アホの末から待ったがかかった。「お前、人に奢ってもらうのにその態度はないやろ!俺のことをヨン様と呼んで先に俺を店内に入れんか!」と言ってきたのだ。
「とんかつを奢るぐらいでええ気になりやがって!」と思ったが、口をつぐんだ。こいつにヨン様なんて、口が裂けても言いたくないが、ここで奢ってもらっておかなければ貸しを返してもらう機会を永久に失う。人に奢ったり、施しをしたりすることの絶対にないアホの末が珍しく奢ってくれると言うのだから、ここはこいつの下僕に徹しようと思い、「ヨ・ヨ・・ヨン様、お先にどうぞ!」と言って先にアホの末を店内に入れた。
ヨン様と言える要素など微塵もなく、どこからどう見ても、ウサマ・ビンラディンにしか見えないアホの末をヨン様と呼ぶことは、泣きたいくらいの苦しさで、いくらとんかつを奢ってもらう為とはいえ、自分の中の大切なものを捨ててしまった気がしたのだった。
とはいえ、ヨン様と呼んでしまった以上は、とんかつを奢ってもらうまでは、そう呼び続けるしかなく、「徹するんだ!徹するんだ!我慢しろ!我慢しろ!」と、自分に言い聞かせた。とんかつ屋では、下僕に徹するということで、席までアホの末をエスコートし、おしぼりも渡し、水も店員さんが持ってくる前に自分で取りに行った。アホの末にとっては、正に至れり尽くせりのサービスだったことであろう。
そして、いざメニューを見ながら注文をしようとする時に、私に断りもなく一番安い並のとんかつ定食を注文しようとしたので、今度は私が待ったをかけた。私に選ばせることもなく、一番安い並のとんかつ定食を注文しようとするとは本当にケチな奴だ。私にここまでさせているのだから、一番高いのを奢ってもらうぞということで、並のとんかつ定食の倍以上はする特上のとんかつ定食を注文した。
特上のとんかつ定食を注文したことで、アホの末の顔が曇ったが、私にはそんなことはお構いなしだった。しかし、特上のとんかつ定食を注文したことで、アホの末の執拗な攻撃が始まったのだ。
とんかつ定食が運ばれてくると、やれ「ドレッシングを野菜にかけろ!」だとか「ソースに入れる胡麻を擦れ!」だとか、「俺より先に食うなよ!」だとか「飯のお代わりを店員に言ってくれ!」だとか私に命令してすごくウザかったが、これも特上とんかつ定食のためと思い、言われたことを黙々とやった。
だが、アホの末の攻撃はこれでは終わらなかった。定食の付け合わせのたくあんと漬物を私に食えと言ってきたのだ。たくあんと漬物の嫌いな私にとって、それは一番酷なことだった。特にたくあんは、3歳の時にそれを食って気分が悪くなって以来、見ることさえ嫌になっているほどなのだ。30年ぶりにこの世で一番嫌いなたくあんを食えと言われて、どうしようかと迷った。これを食わないと、特上とんかつ定食2,520円が自腹になってしまうが、そんなことはどうでも良くて、本音を言えば、タップアウトしてしまいたかった。
考えた挙句、やはり俺には無理やとタップアウトしかけたところで、待てよと思いとどまった。ここでタップアウトしたら、これまで俺がこいつの下僕に徹してきたことが無駄になってしまう、そして何よりもアホの末から奢ってもらうというこの世で一番難しいことを成し遂げるためには、そのくらいのことは我慢しなければと、気が変わったのだ。そう思ったら、すぐに口の中に漬物を放り込んだ。不味いと思ったが、飲み込むような感じで難なく食い終えた。そして、いよいよ問題のたくあんである。意を決して口の中に放り込めたものの、水か汁物なしでは、胃に流し込むことができない。そう思って、コップに手をかけたら、アホの末が胃に流し込むのは禁止で、しかも30回以上はよく噛んで食えと言うのだ。「ええ~っ!」と思ったが、口の中に入れた以上、出すわけにもいかず、ここはアホの末に言われたとおりにするしかなかった。たくあんは、噛むごとに口の中にたくあんの甘い汁と、嫌な臭いが広がって、何度も吐きそうになった。
それでも、ここで負けてたまるかと自分に言い聞かせて涙目ながらに、どうにか30回噛み終えて、胃の中にたくあんを流し込んだ。たくあんを食い終えてから、すぐに水を飲んだのだが、気分の悪さはしばらく治らず、残りのとんかつを食っても味がよく分からなかった。折角の特上のとんかつもアホの末のいぢめのおかげで美味しく食べることができなかったのだが、私としては、アホの末から奢ってもらえさえすれば良かったのだ。
それで、問題の会計のことだが、アホの末に逃げられないように私は3つの対策をたてていた。まず、アホの末に逃げられないように入口に近い席に私が座り、請求書はアホの末の方へ置き、食い終わって出る時は、私が先に席を立つということだった。食い終わって、席を立つまでは、私の対策通りにことが進んだ。そして、アホの末より先にレジまで行き、アホの末をレジで待つのだが、アホの末がなかなか来ない。金を出したくないのか、先にレジに行った私が払ってくれると思ったからなのかは分からないが、業を煮やした私が「ヨン様早くお願いします。」と言うまではレジに来なかった。
そう言われて、しぶしぶレジに来て金を払ったのだが、その金を出す仕草の嫌そうなことと言ったら見ていてとても気分の悪くなるものだった。こいつと知り合ってから20年以上になるのだが、こいつがここまでドケチだったとは、この金払いの悪さを見るまでは分からなかった。アホの末が金を払い終わるのを見届けてから、やっと勝利を確信した。こいつに奢らせるまでの私の苦労は、筆舌に尽くしがたいものだったが、見事奢らせたことで、その苦労も報われた。
奢ってもらいさえすれば、こいつに媚びる必要もなく、店を出てからは、タメ口に戻した。下僕に徹するという仕事を終えてホッとしたのだが、ドケチのアホの末に奢らせるとはいえ、あそこまで媚びる必要があったのかと深く反省した。それ故に、奢らせたことには満足ながらも、その反面何か釈然としないしないものがあったのも事実である。
ともあれ、こいつのことをヨン様と呼ぶことは、金輪際、未来永劫ないことだろう。
三津浜港
とんかつ屋を出て、少し走ると三津浜港に着いた。丁度良い時刻のフェリーがあるかと思いきや、10分前に出航したばかりで、次のフェリーまで50分ほど待たなければならなかった。時間に追われている時なら焦るが、この時は帰るだけだったなので、待つのも苦にならなかった。フェリー乗り場のベンチに座って、コーヒーを飲みながらくつろいでいると、末の携帯にパゲからメールが入ってきた。よほど、一緒に四国へ来たかったのだろう。その内容は、負け惜しみともとれることばかりだった。そんなに気になるなら、意地を張らないで一緒に来れば良かったのにと、アホの末と話したのだった。
初めての・・・
出発予定時刻の10分前にフェリーが入港したので、すぐに乗り込んだ。これまでは、夜中にしか乗ったことが無かったので、昼間に初めて乗れたことに感動した。明るいうちに乗れたということは、フェリーからの景色を十分に堪能できるということなので、船室には入らず、外に設置された展望席に座って優雅に景色を楽しむことにした。
フェリーは午後16時15分頃に出航。見かけによらず結構スピードが出ているので、三津浜港はどんどん小さくなっていった。出航して40分も経つと、完全に陸地が見えなくなり、周りは大海原と他の船しか見えなくなった。それにしても、瀬戸内海には何と船が多いことか。漁船からタンカーから貨物船まで、様々の船がひっきりなしに航行しているため見ていて飽きない。船を見ながら、「おっ!あの船はとてつもなくでかいな、あの船はあんなに小さいのによくこんな沖まで出ているな!」という会話ばかりしていたように思う。
午後17時を過ぎる頃には、風も冷たくなったので、船室に入ろうかとも思ったが、折角だから夕焼けと夜景も楽しもうと、そのまま外に居続けることにした。上着を着ても少し寒かったが、そんなことは苦にならず、早く夕日が見たいとばかり思っていた。私の期待に応えて、それから30分もすると、見事な夕日を見ることができた。遥か彼方に沈む夕日を望みながら、今の自分の心境をそれに重ね合わせた。朝焼けに始まり、夕焼けに終わる旅。もうすぐ旅も終わると思うと、やはり寂しくなった。
午後18時半を過ぎると、辺りは真っ暗になった。10月も半ばにさしかかろうとすると、日が暮れるのも早くなるものだ。季節はどんどん冬に向かっているのだと思うと、旅の終りの寂しさと相まって、尚更寂しくなってしまった。しかし、その寂しさを吹き飛ばしてくれたのが、大島大橋の美しい夜景だった。こんな綺麗な夜景は、むさくるしいアホの末とではなく、恋人か嫁さんと一緒に見たいと思ったが、最後の最後に絶景を見れたことはとても有難かった。
柳井港
柳井港へは、18時50分頃に到着。フェリーのゲートが開くと同時にダッシュで飛び出て、そのままアホの末の寮まで急いだ。フェリーに乗ってすっかりくつろぎモードになっていたため、寮までのわずか3㎞ばかりの距離がとてつもなく長く感じた。
到着!
出発点のアホの末の寮には午後19時に到着。アホの末は、これで終りだが、私はこれから2時間半くらいかけて萩まで帰らなければならない。萩まで帰ってようやく旅も終りとなるのだ。アホの末と別れて、事故をしないよう、慎重に車を運転をして帰った。途中で、晩飯を食いにどこかの店に寄ろうかとも思ったが、早く家に帰りたかったので、寄り道はしなかった。
萩の我が家には、午後22時前くらいに到着。アパートの私達の部屋には明かりが点いていた。ぽん太郎さんは、今日は夜勤ではないんだ!ラッキー!と思い、急いで部屋に入った時に愛妻のぽん太郎さんが発した第一声は、「汗臭い~!」だった。お前に会いたかったのに、6日ぶりに会ったのに第一声がそれかよ!と思ったが、ぽん太郎さんの声を聞いて何だか安心してしまった。旅が終わったのは寂しいが、やはり我が家は良い。
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