漢塾登山(茶臼山~三角山~面影山)

カテゴリ
 ANOTHER
開催日
2016年01月09日() ~ 2016年01月09日()

【プロローグ】

昨年ぐらいから、心身共に鍛えるのには、山登りが最適であると考えていた。いや、正確に言えば、もっと前からかもしれない。10年以上も前に行った四国八十八ヶ所遍路の時の遍路道の山登りで、その効果は感じていた。

肉体的には限界近くまで追い込みながらも、「何で休日にこんなキツいことをしなければならないんだ!」とブツクサと文句を言いながらも、登り終えた時には実に清々しい気分だったのを覚えている。とりあえずは、自分に憑いている穢れとか邪念といったものが幾らか落ちたような気がした。

それは、汗をかいてそれらのものを一緒に流したとか、脳内物質のセロトニンが生成されて気分がリラックスしたとかいうことだけには留まらない。山にある木々やその葉から出る癒しの成分、鳥のさえずり、風のざわめき、そして我々の思考を超えたものの存在、そういうもの全ての存在が私達に良い影響を与えていると思う。

古来より、修験道者や密教僧らは山で修業を行ってきた。金峰山や吉野山、石鎚山などは有名であり、今でも修験者の修業の場となっている。

思うに山で修業などしなくとも、海や川でも修業は出来るはずだし、他人と接触するのが嫌なら山でなくとも人里離れたところでも出来るはずだ。

だのに何故山に?

答えは簡単だ。山には全てがあるからだ。山には食べ物も、人が生きていくための叡智も、人を癒すためのものも、全てがあるからだ。私達に必要なものは全て山が自然が持っているのである。昔の人はそれを分かっていた。分かっていたから山に籠ったのである。

私達には家族や仕事があるから山に籠る時間は無い。また、宗教家でも求道者でもないため山籠もりには興味もない。ただ、山に籠らずとも山に登ることによって、心身共に鍛えられ、それと同時に癒されも気力を得られもする。更には、何か面白いことを発見する可能性だってある。

面白いことの発見はおまけとしても私達は、前述の“失ったもの”を取戻しに行くのである。全てがある山に!

【きっかけ】

漢塾漢稽古2016で温泉からの帰りの車中、私はふとアホの末に「山に登らんか?」と言った。アホの末も以前から自分の中で温めていたプランがあったらしく、すぐにお互い意気投合して翌週には実行しようということになった。

そして、登る山もアホの末の作ったプラン通りに茶臼山と面影山ということになった。茶臼山も面影山も名前だけは知っていた。だが、当然ながら登ったことはなかった。面影山は、私の住んでいるところからなら、どこからでも見える電波塔がある山だと認知はしていたが、茶臼山のある場所は分からなかった。

アホの末曰く、茶臼山にはその昔、矢倉があったかもしれないとのことだ。それには大して興味は湧かないものの、すごく身近にある誰も昇らない山に登るということで、日に日にテンションは上がるのだった。

【決行当日】

私の所要でアホの末との待ち合わせである萩駅には40分ほど遅れて到着した。そこに待っていたのは、アホの末とその職場の元同僚である。サミーだった。

サミーとは、砂の芸術祭でも一緒したことがあるから顔見知りではあった。だが、まさかここで一緒出来るとは驚きだった。どうやらアホの末が声を掛けたらしかった。アホの末とは遊び仲間で、しかも家が隣同士ということもあるため、今後も漢塾のイベントには多々絡んでくるかもしれない要注意人物だ。

IMG_4015お互いに準備が出来ていることを確認し、ビッグで昼飯を購入してから一路、茶臼山へ向かった。アホの末曰く、茶臼山の登り口は椿八幡神社の付近らしい。それらしき登り口は椿八幡神社前の道からは分からなかった。アホの末も手持ちのGPSを見ながら考えていた。

何十秒かGPSと睨めっこをしてようやく登り口が分かったようだった。登り口に続く道は椿八幡神社から50m離れた場所にあった。50m離れたぐらいなら、“付近”と言える許容範囲内ではある。登り口に続く道は、そこそこの傾斜のある坂道となっている。途中、1軒だけ民家があり、そこから出てきたおばさんが、怪訝そうな顔で私達を見ていた。まるで「こいつら何をしにここを登っていくんだ?」と言わんばかりに。確かに普段は誰も登らない山だけに怪しまれても仕方がないかもしれないが、あからさまに怪しむような顔で私達を見ないでもよかろうに。ただ、このことによりテンションがダウンすることはなかった。

IMG_4019茶臼山の登り口には、ここに続く道を登り始めてからすぐに着いた。何のことはない。どこにでもある普通の登山道である。普通の登山道と違うのは、道が整備されてないということだけだ。獣道と殆ど変らない、人が一人通るのがやっとの草がぼうぼうに生えた道だ。このことからも普段は誰もこの山を登らないということが分かった。

登り始めからいきなり道は二股に分かれていた。私の直感では左側の道であったが、ここでは直観をあてにするわけにはいかない。現代生活の中で直観力や第六感というものを退化させてしまった我々が頼みの綱にするのは、現代科学が生み出したGPSというアイテムのみだ。直観は、GPSの電池が切れて使用出来なくなった時に頼る最後の頼みの綱といったところか。

アホの末のGPSは、私の直感と同じく左側の道を選択。私の直感がまんざらでもないことを証明した形となった。

直観のような本来、人間の誰もが持つ感覚的なものは、自然の中で自然と対話しながら生きないと磨くことは出来ない。現代のシステム化された管理社会では、直観力というものが必要ないと誤解されがちだが、私はそれは違うと思う。直観力とは危険回避能力にも通じる。直観で「これはすべきだ!」、「これはやってはいけない!これはやるべきではない!」というように感じて、そのように行動すれば危険やミスを回避することが出来る。危険やミスを回避出来れば、過酷な現代という砂漠を生き抜くことが出来るのだ。だから獲物が獲れなければ飢え死にする原始時代と同じく現代でも必要な能力である。

直観を磨くとは、心の声に耳を傾けることだ。本来誰もが持っているものだが、私達の心の中には雑念が多すぎて、なかなか本当の心の声、すなわち直観を聞き分けることが出来ない。どれが雑念で、どれが心の声かの区別をつけることが出来ない状態だ。

自然は嘘をつかない。時に優しく、時に厳しく、ストレートに私達に接してくる。嘘のある人間とは大違いだ。だが、私達の体は炭素と水で出来ている。死ねば灰になり土に還り、また新たな生命の礎となる。そのことからも私達も自然そのものであることが分かる。

自分そのものである自然(山)の中に入り、雑念を振り払いながら心の声に耳を傾け、その声に従うことにより、登りの途中で迫りくるであろう様々な困難を克服していく。それを繰り返すことで、自分の本当の心の声がどれかということが分かる。つまり、直観を磨くということになる。山に登ることで直観を磨く、磨けるというのは以上の理由からである。

勿論、直観を磨くということのためだけに山に登るのではない。それはあくまで目的の一部だ。私達は失ったものを取り戻すために登るのだ。そして私達が楽しむために。

決意を新たに私達は、記念すべき漢塾登山の初めての1歩を踏み出した。

【遭遇】

IMG_4021しばらくは、一応は道らしき道が続く。石がゴロゴロ、木の枝や葉っぱが散乱した道は四国八十八ヶ所遍路の遍路道を思い出させる。つい懐かしい気持ちになる。おまけに空気も清々しく、気分は高揚する。だが、一人のおっさんとの遭遇で高揚した気分もぶち壊されることになる。

ハンターのおっさんとの遭遇だ。

イノシシ狩りをしているとのことだった。犬がイノシシを追い込んで来るのを待っているらしかった。おっさん曰く、上にもう一人いるとのことだ。

私達は、このことに戦慄を覚えた。ハンターが上にもう一人いるということは、登ってくる私達をイノシシと間違えて撃つという可能性があるからだ。イノシシと間違えなくても、流れ弾に被弾する可能性もある。

一瞬、互いに顔を見合わせ、登山を続けることを躊躇しかけたが、せっかくの第1弾漢塾登山をこのようなことで中断するのは癪だ。そこで考えたのは、大きい声で話ながら登ることで、私達の存在を上で待つハンターに気付かせようということだった。

さあ、登山を続けようとした時に先頭を行くアホの末が言った。「お前が先に行け!」と。多くは語らず、「お前が先に行け!」としか言わない。怖気づいたなら怖気づいたと言えば良いのに。いつもながら負けを認めようとしない。

順番を変わってやっても良いが、素直に変わったら面白くない。そこで、新婚さんではあるが、子供がいなくて後腐れのないサミーに先頭の役を譲ってやることにした。サミーは、少したじろぎながらも、年上の二人に詰め寄られては断ることも出来ず、先頭の役を泣く泣く引き受けることになった。

【第二遭遇】

私達は誰もが不安を感じながら歩を進めた。誰もが押し黙ってしまうと、私達の存在が分からなくなってしまうため、意識的に誰かが声を出していた。シーンとなりそうになったら誰かが声を出すというのは、私達の間の暗黙の了解事項であった。

それほどの恐怖というものは感じないものの、“もしかしたら!!”という気持ちは、心のどこかにあった。先頭を行っているサミーが撃たれるのか、最後尾のアホの末か、それとも私か。「どこが一番安全ということはなく、撃たれるかどうかというのは、運次第だな。」、「弾が当たったら『当たってラッキー!』と思うか、それとも『アンラッキー!』と思うか、それは考え方次第だな。」、「生き残ったら『ラッキー』で、死んだら『アンラッキー』ということかな。」、「でも、撃たれて痛い思いをするんだから宝くじで1等前後賞くらい当たらなければ割に合わないよな。」などと禅問答のような問答を頭の中で巡らせもした。

IMG_4022登山を再開してから10分ぐらいしたぐらい経ったころだろうか。上から流れ落ちる川の流れが一旦ブレイクする階段の踊り場のような場所に奴を見付けた。オレンジ色のベストに散弾銃を肩からかけるその姿はハンターそのものだった。

私達からの距離は約100m。その姿を見付けて安心した私達は、それでも会話を途切れさせることなく奴に近づいて行った。私達はハンターのおっさんのところまで行くと、おっさんに山の頂上に行くかどうかを確認した。

「行かない。」というおっさんの返答は、私達を更に安心させた。この時、生まれて初めての“撃たれるかも”という不安から完全に解放されたのだった。

【厄介者】

おっさんと遭遇した場所から100mほども行くと、いよいよ道が無くなった。私達の求めていた道無き道の始まりだ。

道無き道とはいえ、最初は足元もしっかりと見え、そんなに歩きにくくはなかった。だが、その状態は長くは続かなかった。途中から足元にシダが繁り始め、足元が全く見えなくなったのである。

IMG_4025しかもタイミングが悪いことにシダが繁り始めたところから、足元に倒木や大きい石などが転がるようになったのである。足元を良く確認しながら登らないと、つまづいたり、転んだりする可能性がある。おかげで、私達はシダを掻き分け、しかも掻き分けたシダをよく踏みしめて、足元を見易くしてから登るという手間のかかる作業を強いられた。

面倒臭い作業だった。普通に登るのに比べて2~3割増ぐらいの面倒臭さだった。それでもその作業を怠ると痛い目に遭うから、怠けるわけにはいかなかった。

おまけに登るにつれて、傾斜は更に急に、倒木や石の数は更に多くなった。また、私達の行く先を遮るように巨大な岩も現れ出した。岩があると、そのまま真っ直ぐ登ることは出来ないので、登るルートを考えながら行かなければならない。追加で、そのような面倒臭い作業も課せられることになった。

IMG_4023登る途中で、「ダーンッ!」と鈍い音が辺りに響き渡ったが、驚くことはなく、「あっ!さっきのおっさんがイノシシを撃ったんだな。」ぐらいにしか思わなかった。それほど登ることに集中して、他のことを考える余裕がなかったのだ。

全てはシダのせいだった。ただでさえ、登るのはキツいのに、こいつが現れたおかげで、面倒臭いことを多々課せらるようになってしまった。

正に厄介者といえる存在だった。

【悪戦苦闘】

シダの繁った道無き道はずっと上に続いている。先は見えない。ずっと続いているのではないかと錯覚させられる。

だが、登らなければ頂上には辿り着けない。私達は、これまでに行ってきた厄介者に対するルーチンをしっかりとこなしながら登って行った。足元を確認しながら登るので、下を向いている時間が長くなる。そのため、首が痛くなった。

途中で、アホの末が「あと300mぐらい」、「あと200mぐらい」というようにGPSを見ながら呟いてくる。私をそれを聞きながら、頭の中で「それはまっすぐ登った距離で、グネグネ迂回しながら登るから、その距離の2倍近くあるな。」と、想像していた。

平地での2~300mというと大したことはないが、道無き道の足場の悪い登り坂で、しかも厄介者をかきわけながら進むという行為においては、それと比べて体力と気力の消耗度が格段に違う。

普段よりランニングとスクワットで足腰を鍛えた私でも、ふくらはぎと太腿への多少の疲労を感じていた。たかだか300mほどの山だから、これくらいの疲労があっても問題なくやり遂げられるとは思った。ただ、これが1,000mを超えるような山だったらどうだろう。

登山道があるような山だったらともかく、茶臼山と同じく道無き道の山だったら。

本格的な山デビューをするつもりはないが、やるやらないは別にして高い山にでも登れるような足腰と体力の必要性を感じた。

サミーと順番を入れ替わったアホの末は、息を「ハァ、ハァ」させながら、時に無言で立ち止まり、時に「お前ら、そろそろ休憩せんでええか?」と、私達に問いかける。

運動不足から来るいつものスタミナ不足だった。休憩したければ、勝手に休憩すれば良いのに、別に休憩しなくてもよい私達に問いかけなくてもよいのに。全く負けず嫌いというか素直でないというか。

これも自転車にしろ、歩きにしろ、体力を使うイベントの時は、自分が疲れたら行う恒例のことだから「またいつものやつが出たな。」ぐらいにしか思わなかった。

少し登っては立ち止まり、時に足をすべらせ、時にバランスを崩して倒れそうになるということを繰り返しながら、やっとのことで私達は長い長い厄介者の森を抜けることになった。

この時、登山を開始してから2時間近くが経過していた。

【未知との遭遇】

IMG_4032辿り着いた尾根からは、ほぼ平坦なスペースを歩いて頂上を目指すようになる。私達がいる場所から頂上までは、直線距離で200mくらい。尾根の歩けるスペースの幅(以下、尾根道と記述)は、3~4mくらいで、人が歩くには十分な幅だった。

それまで登ってきた道なき道と比べると、ただ歩くだけなので、楽であった。予想していたのと違ったのは、登ってくるまでは杉の木などの針葉樹林が繁って暗く冷たく、空気がジメジメしていたのに対して、尾根は頂上付近ということもあり、陽当たりが良く、広葉樹林がまばらに生えて、空気がカラッとしていたことである。

IMG_4031この予想外の景色と、楽な道程は、私達の気分を高揚させた。おまけにアホの末が言っていたように頂上には昔の矢倉の跡があるかもしれないと思うと、気分は更に高揚するのだった。

IMG_4036そんなルンルン気分で行進する私達を出迎えたのは、異常な形をした蔓だった。尾根道の歩けるスペースのド真ん中にデンッ!と、真円に近い輪を形作った蔓が鎮座していたのだ。

直径は1.5mくらいか。二本の螺旋状に綺麗に絡まった蔓が、これまた綺麗な輪を形作っているのである。それが、尾根道のド真ん中にあるという光景に驚きと異様さを感じた。そう、まるで「この輪の中を通っていけ!」とばかりに。その感情から遅れて、「偶然でも自然にこんな形が出来るんやろうか?」という疑う感情が湧いた。

だが、疑うにしても目の前にある光景は事実だ。こんな誰も足を踏み入れないようなところまでわざわざ来てこのような手が込んだことをする奇特な者などおるまい。これは、自然が造った一種の造形美?であることは間違いなかった。

私は思った。この山には磁場異常があるのではないかと。それでなくとも、何かがこの山にはあるのではないかと。口では説明出来ないが、何故か感覚的にそう思った。

この蔓は、我々をあの世に誘う入口か、それとも異次元に誘う入口か。私達の誰もがその異様な蔓に興味を示しながらも、誰一人としてその蔓の輪の中をくぐる者はいなかった。

【探し物あらず】

蔓には触らないよう細心の注意を払い、行進していく私達の前に最後の頂が現れた。頂といっても。私達の立っている尾根道からの高さは15~16mぐらいしかない。

IMG_4039私達は、頂からずり落ちた倒木や剥きだしの木の根っこを綱代わりに、それをつたって頂まで登りつめた。頂は、畳にすれば20~30畳の広さぐらいだろうか。疲れた私達が腰を落ち着けるのに十分な広さがあった。

私達はすぐに登山の目的の一つであった矢倉の跡を探した。だが、それらしきものは見付からなかった。唯一、見付けたのは人の手が入ったであろう四角い石だけであった。この石が何かは分からないが、矢倉に使われたものという可能性もあった。

IMG_4041アホの末曰く、「ここに矢倉があったのは鎌倉時代のことらしいから、跡かたもないかもな。」と。

それを聞いて私は「鎌倉時代!えっ?」と言った。

私は江戸時代のことだと思っていたから「えっ?」と言ったのだが、確かにアホの末は、ここに登るまでに「矢倉があった跡があるかも。」とは言ったが、それがどの時代にあったかについては言及していなかった。

江戸時代だと思ったのは、単なる私の思い込みだったのだ。鎌倉時代と言えば、西暦1192年以降からだから800年~700年前のことだ。400年~150IMG_4044年前の江戸時代と比べると古さが断然違う。

これならば、跡かたなくても無理はないと思った。ここに矢倉があったかどうかは分からない。ただし、目前に繁る木々の隙間からほんのわずかに見える下界の景色を見ると、その見晴らしの良さから、ここには矢倉があった可能性が高いという認識に至った。

見晴らしの良い場所に通行人を監視する矢倉を作るのは、今も昔も変わらぬ矢倉作りのセオリーだからだ。

目前に繁った木を何十本か切り倒せば、視界は劇的に改善され、本来の見晴らしが取り戻せる。その景色を見れば、ここに矢倉があったかもしれないという認識は更に高まるであろう。

「ここにあった矢倉からどのような思いで通行人を見ていたんだろう?ここまで毎日登ってくるのは大変だったろうな。」などと、想像しながら、私達は頂で沸かしたコーヒーを飲んだ。

800年もの昔に思いを馳せながら飲むコーヒーは格別であった。

【次へ】

時間が止まったような、磁場が逆転したような、雰囲気を色にしたらセピア色になるであろう独特な雰囲気の茶臼山の頂。腰を落ち着けてゆっくりしたいところだったが、次の山へ行かなければならないので、コーヒーを飲み終わってから早々にその場を後にした。

おそらく、もう二度とは来ることのないこの頂に思いを残し。

当然のことながら、次の山へ行くには、ここまで来た道無き道を戻らなければならない。とりあえずは、あの厄介者であるシダの林が始まるところまで戻らなければならない。また、厄介者と格闘しなければならないのである。

「面倒臭ぇなあ。」と思いつつも、次の山に行くには、ここを通らなければならない。そう思いつつ歩く私達の前に奴は現れた。来た時よりも更にパワーアップして。

【格闘】

私達は、とりあえず通ってきた道無き道を下ることにした。通ってきた道無き道といっても、道ではなくシダを踏みしめた箇所なのだが。

IMG_4050この踏みしめたシダがマジで厄介者だった。踏みしめたシダは、土の水分で濡れたり湿ったりしていた。そして、重力に引っ張られるため、下りは登りよりも進むスピードが増すようになる。スピードを増した私達がその上に乗っかると滑りやすくなるのである。

疲れてカクカクの膝で懸命にスピードをセーブしながら、しかも滑ることに気を遣いながら下っていくことは登ることよりも大変な作業だった。おかげで、アホの末も私も何度か滑った。その内一回は、尻もちをつくほど派手に滑った。

気の遣いようは登りの比ではなかった。膝もケツも痛くなった。その格闘時間は、登る時よりかは短いながらも、苦しさのため、それよりも長く感じた。

どうにかシダの林を下りきった頃には、誰もが顔に疲労婚倍の表情を浮かべていた。

【ファイト一発】

シダの林を下りきった私達は、アホの末の言葉に耳を傾けた。やはり次の山へ行くルートも道は無いとのことだった。次の山とは面影山のことだ。茶臼山から幾つか山を越えてその山へ行くのである。

IMG_4054アホの末のGPSを見ると、私達が通るべきルートは、シダの林の左手にある急斜面になっていた。斜度60°くらいはあろうか。山に生えた木に木づたいで、もしくは幼木やしっかりした強度の雑草づたいで登らなければ絶対に登れない斜度であった。もし、そういったものを手放せば、真っ逆さまに下まで転がり落ちてしまうだろう。

目的には困難が付きものである。人生も似たようなものだ。「行くしかねぇよな!と」、お互いが顔を見合わせ、各々を納得させた私達は急斜面を登り始めた。

幸いにも最初は木づたいに登れる間隔で木が生えており、アホの末を先頭に、テンポよく登って行く。アホの末が休憩で立ち止まった頃には、登り始めた場所が見えなくなるほどの高さまで登っていた。

IMG_4055しかし、それもここまでだった。そこから先は、木と木の間隔が大きくなり、途中で細い幼木や太めの雑草、もしくは木の根っこなどに頼らなければ、次の木まで行けなくなったのである。

「やはり、目的にはトントン拍子に辿り着けるものではない。これも人生と同じだ。」と、私達は自分に言い聞かせ、自分達のいる木から一段高いところにある木へ移動するために、そのやむを得ない手段を使うことにした。

大抵は、私達の体重をどうにか支え得る強度のものであったが、どう考えても体重を支えるに足らないものしかない時もあった。そのような時は、斜面に思いっきり足先と指先を突き立てて足早に次の木まで移動した。滑って下にずり落ちそうになった時もあった。

私が滑ってずり落ちそうになった時にサミーが手を差し伸べてくれたが、その手は私には全然届いてなかった。幸いにも摑まるものがあって、ずり落ちずには済んだ。結果はともかく、サミーの私を助けようとしてくれた気持ちには心を打たれた。

どれだけ時間がかかったとか、どれだけ登ってからかは分からないが、ふと気付いた時は、この時自分が行っているアクロバティックな行為を楽しんでいたように思う。冷汗をかきながらも、滑り落ちる恐怖と隣り合わせながらも、登ることを楽しんでいた。

その時の私の心には、雑念というものが全く無かった。ただ単に、このリポビタンDのファイト一発の世界に心底没頭していた。

【三角山】

急な斜面を登りきってからは、シダの林まで登ってきたような普通の登山道になった。とはいえ、道無き道であることに変わりはないのだが。

藪も無く、足元に厄介者のシダもなく登りやすい道無き道であった。誰もが精神的に余裕が出てきたからか、この時ばかりはよく喋った。

その会話の中で“なるほどな!”と思ったのが、「冬でなければ、こんな道無き道を登ることは出来ないよな。」という会話だ。

確かに、これが他の季節であれば汗をかきまくるため、飲み水が大量に必要になり、装備が多くなる。結果、更に体力を消耗するようになる。おまけに蚊やブヨ、毛虫、ムカデといった毒虫、マムシやヤマカガシといった毒蛇対策も必要となる。

これが、冬の今ならば、装備は最小限で済むし、毒虫や毒蛇というものはいないので、それらの対策も不要だ。道無き道を行く登山を行うのは、冬の今が最適なのである。

「こんな楽しいことは今のうちにやれるだけやっとかないとな!」と、私達はお互いに確認し合った。IMG_4057

アホの末のGPS通り、目の前に現れた小高い丘を登り詰めると、そこが頂だった。ただし、この頂は、目的地の面影山のものではなく、そこへ行くまでの通過点である三角山のものだった。山頂であるという目印の石杭が打たれてあるので頂ということは、間違いなかった。

“三角山”、その名のとおり形が三角形の山なのだろう。「ふ~ん。」と、それ以上の感情は湧かなった。頂は、茶臼山の頂と比べて3分の1ほどのスペースだが、それでも私達3人が座ってくつろぐには十分の広さがあった。

丁度、昼どきということもあり、私達はここでランチをすることにした。

【文明の利器】

アホの末とサミーが取り出したのは、先ほどコーヒーを入れた時と同じアウトドア用の簡易バーナーだった。それでお湯を沸かしてカップラーメンを食うという。

IMG_4058簡易バーナーの下部に掌に乗るほどの小ささのガスボンベを取り付け、着火。バーナーは小さいくせに火力は相当に強く、カップラーメンに必要な300mlくらいの湯はすぐに沸いた。持ち運び用瞬間湯沸かし器と例えても過言ではなかろう。奴は、それくらいの実力を備えていた。

熱いカップラーメンを旨そうにすする二人を尻目に私は、自分で握った塩むすびを頬張った。塩が効いておらず、しかも冷たくて不味かった。横で他人の食うカップラーメンほど旨そうに見えるものはない。このバーナーさえ所持しておれば、二人と同じくカップラーメンを食えていたかと思うと、所持してないことを悔やんだ。そのため、この時私は、簡易バーナーの購入を真剣に考えていた。

もう一つ購入を考えたのが、折り畳みの椅子だ。この椅子は、折り畳むことで驚くほどコンパクトになり、リュックの中にも収納が可能だ。しかも軽くて丈夫ときた。

IMG_4059ケツを湿った土で濡らさないよう、固く冷たい石に腰かけて不快な思いをしている私とは対照的にサミーは、この折り畳み椅子に快適そうに座り、カップラーメンに舌鼓を打っているのである。サミーの振る舞いは、人跡未踏の茶臼須山や三角山の頂にも関わらず、全く下界と変わらないものだった。

「この差はなんだ?」という自分への問いかけに、瞬時に頭に浮かんだのは、「道具を所持しているかどうかの差だ」という答えだった。その通りなのだ。最近は、アウトドア用の便利な道具がたくさんある。その殆どがアウトドアでも自宅と変わらない、もしくはそれよりも快適な生活をおくれるような威力を秘めている。

現代文明に浸りきって軟弱な私達に、獲物を獲って、ドングリなどの木の実を集めて、槇を集めて火を起こして・・・して、というような真のアウトドア(サバイバル)は無理だ。私達が行うのは真のアウトドアではない。スポーツ性のあるアウトドアのようなもので、言わば疑似アウトドアである。その私達が行うアウトドアには、文明の利器=道具が必要不可欠なのだ。

IMG_4045よく考えると、アウトドアに限らず、私達の生活には道具が必要だ。仕事然り、料理然り、HPの更新然り、私達のすること全てに道具が必要だ。道具がなければ何も出来ないと言っても過言ではない。

私は、今回の登山にはおにぎりとお茶の入ったバックしか持参してなかった。おまけに格好は汚れても良いようにと作業着である。これでもどうにかはなる必要最低限の装備ではあるが、自然の中でのアウトドアの楽しみ方をワンランクもツーランクも上のものにしようと思えば物足りなさ過ぎる。

「道具は必要だ。」

残念ながら、横で旨そうにラーメンをすするこいつらを見ていてマジにそう思った。

【驚き】

寒くもなく、暑くもなく、下界の自動車の走る音がたまに聞こえるぐらいの適度な静けさの中で、私達はランチを終えた後もしばし歓談していた。茶臼山の頂と同じく、三角山の頂も居心地の良い場所だった。

だが、暖かいとはいえ季節は冬。日が暮れるのが早いため、日没前までには下山しておきたいと考え、歓談もそこそこに重い腰を上げた。疲労がボチボチふくらはぎや太腿に溜まり始めていた。それは、他の二人も同じで、皆足取りが重かった。

IMG_4061そんな私達の状態を天が気遣ってか、それともたまたまか、しばらくは勾配のなだらかな道無き道が続いた。例えれば茶臼山の尾根道のような感じである。陽当たりが良くて明るく、しかも歩き易かった。唯一茶臼山の尾根道と違ったのが、大木が多かったということだ。直径が1m以上もある大木があちこちに生えていた。しかも高さも申し分ないものだった。

くぬぎの大木といい、欅の大木といい、コナラの大木といい、通常は滅多に目にすることのない様々な種類の大木があった。しばらくは足の疲労のことも忘れて大木ばかり目で追っていた。おかげで歩くことが苦にはならなかった。

おそらく、ここが人が殆ど入ることのない人跡未踏の場所であるということが大木が多い原因であろう。人の手が入った里山では決して見ることの出来ない豪快な自然がそこにはあった。

それにしても、アホの末の家のすぐ真裏にこのような手つかずの自然が残っていることは驚きであった。

【洗礼】

私達は、どんどんと緩やかに下っていく斜面を下って行った。そのまま平行に行くわけではなく、しばらくは下るようだった。それもそうである。三角山の標高350mに対して面影山は標高250mである。標高差100のため、どこかで下るようになるのは当然だ。

とにかく下って下って下りまくった。途中から斜度が急になり、三角山を登った時と同じく、今度は逆に木づたいに下らなければ安全には下れなくなった。おまけに荊の藪も私達の行く手を遮るようになった。これを掻き分けながら進むのは、シダの林を抜けるよりも面倒なことだった。

何しろ奴は触れると痛い棘を持っている。うかつに手で掻き分けようものなら、手が血まみれになってしまう。故にそれを掻き分けるのは、足で踏むか目の前に木の枝ではらうかしかなかった。

シダに対しては、「面倒くさい奴だ。」としか思わなかったが、荊に対しては「とても嫌な奴だ。」という嫌悪感が湧いた。“チクッ!チクッ!”と、荊の棘の一撃を喰らう度に、それは増々増幅するのである。

そんな私達と荊の激闘をよそに、下りはしばらく続いた。私は、幸いにも転倒せずに済んだが、荊の棘の一撃を何度か喰らっていた。

シダに続く厄介者の洗礼だった。

【再会】

斜面をほぼ下りきると、最後に2mぐらいの高さの崖に行き当たった。下は湿地である。そこを勢いよく飛び降りて少し歩くと、久々の舗装道に出た。

アホの末のGPSによると、この舗装道を歩いて北側に行くようになっていた。久々の舗装道は歩き易くはあるのだが、山中のフカフカの土とは違い、クッションが全く無いため、疲弊した足腰にはキツいものがあった。

それでも、土のぬかるみや石ころで足をとられて足首や膝をガクガクさせる山中よりはマシだった。面影山までの直線距離は、大した距離はなさそうなものの、何故か山の奥へ奥へと入って行く。アホの末の家のすぐ裏の、しかも私の実家からも近い、いつも見慣れた山ながらも、その山中では、自分が今どこにいるかが分からなかった。

この時は、誰の方向感覚も全く機能しておらず、アホのGPSに頼るしかなかった。

舗装道に出て10分ぐらい歩いた頃だろうか。三叉路の前に崩れそうな小屋を発見、その前には軽バンが停まっていた。私達がそこに近づくと、軽バンの向こう側から、2番目に合ったハンターのおっさんが現れた。

「さっきはどうでした?」と聞くと、おっさんは、「ダメやったよ。」と返した。私達のような素人が思うよりも狩りは難しいようである。

面影山への道程を聞くと、「ここを真っ直ぐ行って、つき当たったら左へ曲がって、〇〇さんちのみかん畑を通って・・・。」と、親切に教えてくれた。散弾銃を持っているから怖い人かと思いきや、意外にも良い人のようだった。

【発見】

おっさんと別れると、途中まではおっさんに教えてもらった道を行った。だが、斜面に突き当たったところで、左に行かずそのまま真っ直ぐ行くことにした。アホの末のGPSが、そう示していたからだ。基本は、道無き道を行くのである。

比較的緩やかな斜面を上がると、またもや三角山を出発してすぐに遭遇したのと同じような大木の森に遭遇した。おそらくこの大木の森は面影山の中腹に位置するものと思われた。大木は、三角山の大木と比べても遜色のないものばかりであった。

IMG_4067ここの大木には、くぬぎの木が多かった。くぬぎの木といえば、樹液にカブト虫やクワガタ虫が集まる木だ。クワガタ虫好きの私としては、興味をそそられる木である。さすがにこの時期にクワガタはいないものの、側を通る度にどうしても木に目がいっていた。

ここでの発見は2つあった。

まずは、アホの末が足元に転がる石柱の一部を見付けたことだった。石柱の直径は17~18㎝ほど。縦に“毛利”という字が、上部には“一〇七”という数字が見てとれた。“毛利”と彫られているため、江戸時代のものだろうと推測出来た。見つけたのは、一部であるため、それが何を意味するかは分からなかったが、私の脳裏には“ピーンッ”とくるものがあった。

IMG_406310年前に和歌山県の高野山へ御礼参りに行った時に通った高野山石道にある石柱のことである。高野山石道とは、麓から高野山の頂上まで続く約22㎞ほどの古道だ。ここに108mおきに設置された180基の石塔があり、その一つ一つには“~番”というように番号が付けられている。この石柱は、頂上までの道標であり、石柱の番号を見れば、自分が麓や頂上からどのくらいの距離にいるかが分かるのだ。

高野山の石柱に比べれば、大きさでは比にならないくらい小さいが、どうもアホの末が見付けた石柱の一部はそれに違いないのではないかと推測するのだった。そしてそれは、もう少し時間を経過してから確信に変わることになった。

もう1つは、木に熊が爪で引っ掻いた跡を見付けたことである。堅そうな成木に、爪痕をつけていたのだ。それは、最深部で1㎝くらいの深さがあった。また、地上から1.3mくらいの箇所に爪痕を付けているので、1mくらいのIMG_4062熊であろうことが推測出来た。

1mくらいの熊となれば、体重は60~80㎏ぐらいあるかもしれない。私達の体重と同じくらいだ。熊の力は人間よりも遥かに強いため、同体重ならば喧嘩をすると全く相手にならない。もし襲われたら、ケガをすることは間違いないだろう。

そう考えると興味を抱きつつも怖くなったが、問題はこんな街中に近い山中に熊が住み着いているということである。そちらの方がもっと怖かった。

私には、動物愛護の精神のようなものはない。危険なものは”排除すべき”という考えだ。ツキノワ熊による人身被害は毎年数十件もあり、死亡者が出た年もある。そんな危険な生き物は、駆除しまくるべきだと思う。

IMG_4046ツキノワグマは、絶滅危惧種になることが危惧されている種だが、自然界で絶滅したって構いやしない。だって、自然の中で遭遇して楽しむなんで出来やしない。怖いだけだろう。

絶滅しない程度の個体を捕獲して動物園かそれ専門の施設で飼育すれば良い。そうすれば絶滅せずに済む。もっと危険なヒグマなら尚更そうすべきだ。危険な動物は、動物園で見て楽しめば良いのだ。

野生動物に襲われて殺される、食われるというのは、人間に襲われるのとは次元の違う恐怖だ。人間なら“話せば分かる。”ということも、理性の無い野生動物には全く通用しない。危険を排除するには、こいつらを駆除するしかないと思う。

やられる可能性があるのなら、やられる前にやってしまうべきだ。野生動物の保護より優先すべきは、人間の安全である。

爪で引っ掻いた木があるということは、この辺りがその熊の縄張りということだ。右前足で引っ掻いているから、巣は、この木の右方向にあるということを示している。匂いや話す声で私達の存在が分かるから近寄っては来ないと思うが、何かのはずみで遭遇する可能性だって少なからずある。森の中でクマさんとの出合うのはゴメンである。故に少し興味を魅かれながらも足早にその場を離れた。

【第三の刺客】

IMG_4065アホの末のGPSによると、面影山の頂までは、もう少しといった感じだった。“感じ”と表現したのは、GPSの目的地までのラインを見ただけでは要する時間や距離が大まかにしか把握出来ないからである。

GPSで距離が短いように見えても急斜面を登り下りする必要に迫られれば、時間がかかるし、距離も長くなる。要は、GPSは上から平面的に表示は出来るが、立体的に表示出来ないので、そこが弱点なのだ。

おまけに、これまでに悩まされたシダや荊といった厄介者が現れれば、尚更進むのに時間がかかるようになる。これは、GPSの弱点を克服したとしても把握するのは無理である。現地に行ってみなければ分からないことだ。

だが、私達には”大まか”で充分だった。GPSには、頂までのルートを間違えずに示してもらいさえすれば良いのだ。実際、GPSには、面影山に来るまでには随分と助けてもらっていた。これがなければ、トントン拍子で面影山までは来れなかったであろう。

そんな私の感謝の気持ちは、目の前に現れた枯れた倒竹の林で木端微塵に散った。第三の刺客の登場であった。この林には枯れてからかなり時間の経過したであろう倒竹が散乱しており、私達の行く手を遮っていた。ここを通るには、腰から上の倒竹を手ではらい、腰から下の倒竹を足で踏み砕きながら進む必要があった。

面倒臭いが、それをやらなければ通れない以上、私達はそれを忠実に行い、進んで行った。山中には「バキッ!バキ!、ボキボキ!パキパキ!ポキポキ!」という音が響き渡った。確かに面倒臭かった。シダや荊よりも労力は使った。

ところがである。面倒臭いのには違いないながらも、竹が案外簡単に踏み砕ける気持ち良さと、踏み砕く音の良さから、苦にはならなかったのである。いや、楽しかったと言っても過言ではない。あの、壊れ物を保護するビニール製の“プチプチ”を指で潰すのと感触が似ていた。そのため、自分の前の倒竹だけ踏み砕けばよいのに、それ以外の関係ない場所のものまで踏み砕いていた。余計な体力を使うほど楽しかったということだ。

おかげで、それまでの厄介者達により貯蓄されたフラストレーションは、一気に解消された。最後に現れた第三の刺客は、良い奴だった。癒し系と言っても過言ではなかった。

【ご褒美】

第三の刺客である枯れた竹林を抜けると、目の前には見晴らしの良い景色が広がった。私達は、暗い山中からみかん畑のある山の中腹の斜面に出たようだった。

IMG_4068みかん畑は、先ほどハンターのおっさんに聞いていた、〇〇さんのみかん畑に違いなかった。みかん畑といっても、夏みかん畑ではない。温州みかんの畑である。萩では珍しい温州みかんだが、この山の斜面は陽当たりが良いため、陽当たりの良い場所を好む温州みかんの栽培にはうってつけのようだった。

収穫はすでに終わっていたため、木には殆どみかんが付いてなかった。下界から見上げると、みかん畑があることすら分からない。農協などで、萩産の温州みかんが売られているのを買ったことはあるが、萩のどこで栽培されているとは知らなかった。よもや、こんな身近で温州みかんが栽培されていたとは。驚きであった。

ここでの驚きは、それだけではない。それ以上の驚きがここにはあった。

IMG_4072景色が絶景なのだ。

よく、田床山からの市街地の眺めや萩本陣というホテルのある山からの市街地の眺めが、テレビで頻繁に放映されている。そこに設置された定点カメラからの映像だ。

それらの山は市街地の南東側と東側に位置している。だが、これまでは市街地の南西側から市街地を望んだ眺めというものは放映されたことがなかった。写真も然りだ。

それは、茶臼山や面影山を始めとする西側の山々には一般人が登り下り出来るような登山道が無いということが理由だ。容易に人を寄せ付けるような山ではないため、定点カメラを設置するのが困難なのだ。

IMG_4087そのことは、幾多の試練を乗り越えて、このみかん畑まで来た私達がよく理解していた。

みかん畑から望む市街地は、初めてのアングルということもあり、私達の目には新鮮に映った。いつもの見慣れた景色とは違う景色が眼下に広がる。まるで違う街を見ているかのような錯覚を覚えそうになったが、左手に映る指月山の存在でどうにか「ここは萩なのだ。」という現実に踏みとどまった。

この景色は、このみかん畑の持ち主を始めとする、ごく限られた者しか見ることはあるまい。だって、この面影山のみかん畑には、関係者以外の者が来ることはまず無いであろうから。

そう思いつつ、しばらく私達は足を止めた。この景色を見ることの出来ない私達以外の者達に優越感を感じながら眼下の景色に見入っていた。また、「これは、ここまでそれなりの困難を乗り越えて来た私達に対するご褒美に違いない。」とも思いながら。

【確信】

私達は、何分かして止めていた足を再び動かし出した。景色が良いとはいえ、みかん畑で長らく休んでいるわけにはいかない。ゆっくり休むのは、頂に至ってからと決めていた。

しばらくは、あぜ道を行った。あぜ道の中やその横の斜面には、イノシシが掘った穴がたくさんあった。

IMG_4056この時思ったのが、茶臼山からこの面影山に至る山中には、大型動物の影が濃いということ。私達は、ここに至るまでにツキノワグマとイノシシの足跡以外にも、シカの糞も何ヶ所かで見付けていた。

当然、タヌキやウサギ、キツネ、イタチといった中小の動物もいるだろうが、大型動物がいるということは、これらの山々には大型動物を養うだけの食い物が豊富にあるということだ。確かに、この山へ来るまでには、クヌギ゙やドングリ、シイなど、動物のエサになる実を付ける広葉樹林が多く樹立していた。

大型動物がいるということは、これらの山々が豊かな山である証だった。

あぜ道が行き止まると、そこからは再び山中に入り登って行くようになった。茶臼山から面影山の頂に至る最後の道無き道の始まりである。ここでも面影山に来るまでに遭遇した第三の刺客と再会となった。枯れた倒竹の林である。

IMG_4075ここの倒竹の林が、それまでのと違うのは、倒竹の密度が半端ではないということ。左右からの倒竹が何重にも重なり、まるでピラミッドのような形状を為していた。それまでのと比べると3倍以上の密度があった。

これを壊しながら進むのは困難を極めた。山中には、倒竹を砕く「バキバキッ!ポキポキッ!」という音が再び響き渡った。この音の大きさといい、厚さといい、それまでのよりも更にパワーアップしていた。

そんな面倒くさい作業中であるにも関わらず、アホの末が山肌にしっかりと食い込む石柱を発見した。ここへ来るまでに見付けた石柱の破片の完璧バージョンであった。

IMG_4074石柱の頭には、“七七”と彫られていた。最初に見つけたのには、“一〇七”と彫られていた。数字が減っていた。それからも何十mかおきに、それを見付けた。彫られた数字は“七五・七四・七二・七一”というように明らかに減っていた。

これを見て確信した。やはり、この石柱は、高野山石道にある石柱と同じ道標なのだと。何メートルおきに設置されているかは分からないが、見付けた間隔から判断すると、おそらく30~50mぐらいだろうと感じた。高野山石道の108mおきの設置よりは間隔が短いが、道標であることは疑いようがなかった。

そして、道標があるということは、少なくとも茶臼山~面影山に至る私達が通った範囲には道があったということの証明になった。江戸時代に、ここに道が作られたということだ。

現在、これらの山の下には県道が通っているが、それは川沿いの道である。地形的に山が川縁まで迫り出しているため、護岸を整備したり、川や湿地を埋め立てたり、山を削ったりして現在の道にしている。この県道が開通する以前は、山道しかなかったはずで、当時の人々はどこへ行くにも山道を往来していた。

この私達が登っている道無き道も、その生活道の一部に違いなかった。ただ、この石柱がどこからどこまで続いているかは分からなかった。距離と番号から判断するに、“一”の石柱は、面影山よりもっと北側にあることが推測出来た。面影山に入る前に見付けた“一〇七”の石柱は、最後の番号ではないはずで、それが“一〇七”以降、何番まで続くのかは、既に面影山まで来てしまっていた、この時にはもう確かめようがなかった。

私は思った。おそらく、玉江浦という地区にある観音院という寺がある山に“一”の石柱があり、そこから面影山~茶臼山を経て、大屋という地区で萩往還に交わるのではないかと。

と、すれば最後の番号は百八十くらいかなと。そうなると、やはりこの毛利の石柱は、高野山石道の石柱を真似ているなと。要するにこれは、高野山の石柱のスケールダウンしたバージョンやと。

根拠も無く自分勝手に想像しただけだが、それが正解か間違いということよりも昔に思いを馳せて想像することが楽しかった。

名は、そのもの自身の存在を表現するものであり、定義するものである。名が無いと、会話の中にも頭の中にも簡単に登場させることが出来ない。故に記憶にも繋ぎ留めにくい。

自分達の登っている道無き道と思い込んでいた道が実は元は道であったことに驚きつつも、この道に名が無い(昔はあったかもしれないが。)ことを不憫に思い、私は萩往還に至る道という意味で“萩往還石道”と名付けた。(石道とは、石畳ではなく石柱があるという意味の道だ。)

自分の中から、この道の存在が消えないようにするために。

【ラストスパート】

石柱に気をとられ、忘れかけていたが、この面影山の頂に至る萩往還石道を登るのは困難だった。目の前には、どこまで続くとも分からない倒竹の林が広がった。

ただ、ゴールが間近なのが分かっているからか、それとも道無き道を行くのが慣れたからか、誰一人として弱音を吐く者はいなかった。おそらく疲れは溜まっているはずなのに。

IMG_4083倒木の林を抜けたのは、あまりの空腹感から、「頂に着いたら、たい焼きでも食うかぁ。」と、言葉に出そうとした時だった。突然、視界が開けたのである。そこは、植生が広葉樹で、比較的陽当たりが良く、見通しが良い場所であった。そこからは、わずかながらにも頂を拝むことが出来た。

立ち止まって、後ろを振り返ると、私達の登ってきた倒竹の林には、私達が踏み砕いた倒竹が折れ重なった道が出来ていた。人が通った跡には道が出来ると言われるように私達は、何百mかの道を作ったようだった。この道は、帰る時に私達に下る方向を示す道標になると思った。

頂へのラスト300mは、茶臼山から三角山へ行く時のような木づたいでなければ登れないような急斜面であった。ただ違うのは、地面の至るところから木の根っ子が出ているため、それを持ったり、足をかけることが出来たりして比較的登りやすかったということだ。

そのため、斜面の急勾配と、それまでの疲れにより、「ハア、ハア」と息遣いを荒くさせながらも、テンポ良く足を前に踏み出すことが出来た。私達の前には、もう障害はなかった。ただ単に登って行くだけだった。

最後に木と木の間の狭い空間を両手で木を持ち、「よっこらせっ!」の掛け声ですり抜けたそこが頂だった。

私達を待っていたのは、お馴染みの電波塔だった。

【祝杯】

IMG_4080目の前には、縦10m×横20mぐらいのそこそこ広い空間が広がった。その空間のど真ん中に鎮座していたのが、下界からも見ることの出来る電波塔だった。

それは、子供の頃より、この山を見る度に目に付いた電波塔だった。間近で見るのは初めてであった。ただ、下界から見るのと違うのは、電波塔の高さがかなりあるということだった。少なく見積もっても、20m以上はあるように思えた。

電波塔の足の部分が、下界からは木に隠れて見えないから低く見えたのだろう。実際に目の前にした電波塔は、高く大きかった。

IMG_4081私達は、ここまで来た互いの労を労うために、私の持参した冷凍たい焼きで乾杯をした。たい焼きの解凍具合は、少し冷たいながらも体の火照った私達には、ほど良い感じだった。たい焼きの甘さは、疲れて低血糖気味だった私達の血糖値を幾らかでも回復させるのに貢献した。

サルとバカは高いところに登りたがるという。私達もおサルさんであり、バカ野郎共である。山の頂に着いたからには、誰もがやる儀式をやろうとしたが、残念ながらそれは叶わなかった。

私達の背丈よりもはるかに高い雑草が、下界の眺めを阻んでいたのである。アホの末の日頃の行いの悪さか、それとも私の日頃の行いが良すぎたのが影響したのかは分からない。儀式が行えないのは残念だった。

IMG_4082その代りに、私達は電波塔の本当の姿を目にすることが出来た。おそらくこの建設に携わった者以外では誰も目にすることのなかった本当の姿を。

苦労して来た分だけ達成感はあったが、その達成感に浸っている暇はなかった。冬の日暮れは早い。暗闇が、もうすぐそこまで迫ってきていた。私達は、雑談もそこそこに重い腰を上げ、家路に着くため、ここまで来た萩往還石道を下り始めた。

膝をガクガクさせながら。

【終わりに】

茶臼山を始めとする3つの山々は宝の宝庫であった。茶臼山の異次元ループ、矢倉跡らしきもの、三角山の大木群、面影山のツキノワグマの痕跡、温州みかん畑に電波塔、極めつけは萩往還石道の発見。

まさか私の実家からも近く、アホの末の家のすぐ真裏の山々にこれほどの宝があったとは。事実は小説よりも奇である。これまでのように、ただ山を下界から見上げていただけでは発見出来なかった。これは、いつでも登れるが、その“いつでも”が、永久に来ないかもしれないほど、身近過ぎる山に意を決して登ったことで、得た成果である。

楽しかった。久々に楽しかった。

そのような無邪気な子供の頃のような気持ちに戻れて楽しめたということが驚きだった。

面白いことの発見は、当初おまけぐらいにしか考えてなかったが、これが一番の収穫になった。そして、これのおかげで、私は“純粋に物事を楽しむ”という、しばらくの間失っていた、私にとって大切なものの一つを取り戻すことが出来た。

「やはり、山には何かがある。」そう確信してしまうほどの成果を山から授かった、初めての漢塾登山であった。

それ以来、私は、いつもこの山々の前を通る度にこの山々を見上げている。

愛着と感謝の念を持って。

 

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です