ママちゃりレース2006

カテゴリ
 BICYCLE
開催日
2006年07月23日()

060722_1907ママチャリレースは、1チーム6人以内。2時間でトラックを回る数を競う。これに出場したのは、藤原、藤田、本清、大平、西川、私の6人である。

ママチャリにまたがり、ピストルの合図を待つ。先頭走者である私のスタート位置は、最後尾である。受付順で決まったから仕方ないのだが、これはかなりのハンデであった。先頭との差は、この時点で25mほど。28人が一斉にスタートして混雑するので、いきなりトップに出るのは限りなく難しいと思われた。

パーンッ!というピストルの音を聴き、皆が一斉にスタートした。私のパワーをもってすれば、目の前に群がる群衆に体当たりをかましてでも蹴散らしていくことは可能だったが、これはレースではあっても遊びなのだから、楽しむことを優先せねばと思い、はやる気持ちを押さえながら、とりあえずは後ろをついて行った。

私が後続集団に身を置いている間に、先頭集団との差はどんどんついていく。一周730mのトラックは、すぐに走り終えてしまうので、これはやばい!と思い、人の群れがまばらになったところで追跡を開始した。ほぼ一周を走り終えようかとする頃には、遅い者をどんどん抜き去り、どうにか真ん中の順位ぐらいにはなった。そして、1人のノルマである3周を走り終える頃には6番にまで順位を上げた。

060722_19082番手である西川にゼッケン(タスキ)を渡して、これで当分は自分の出番はないとばかりに思っていた。だが、その考えは甘かった。この時は、藤原さんが私用でチームに合流してなかったため、5人で走らなければならなかったので、1人がノルマの3周を走るのに大体、4~5分くらいかかるとして、間に4人だから20分弱で交代しなければならなかったのだ。

最初のうちは、そのぐらい休めば大丈夫だったのが、自分の出番が2回目、3回目と回が進むごとに体力が回復するのに時間がかかるようになり、4回目の走りを終えたぐらいの頃から、殆ど体力が回復しないようになってしまった。丁度、この頃からキャプテンの大平があまりの辛さからか、ノルマの3周をこなさないで2周でピットに戻ってきたり、藤田さんが休憩所で寝たまま、自分の出番のギリギリ前まで起きなかったり、本清さんが西川からゼッケンをもらって走り始めようとした矢先に足が攣ってリタイアしたりと、皆、疲労痕倍の様子だった。

そんな中で気を吐いていたのが、一番の若手であり、走れるデブである西川であった。こいつも疲れてはいただろうが、極力疲れている素振りを見せずに、黙々と己の仕事をこなしていた。これは、俺も負けてはいられないと思い、5回目の自分の出番を気合を入れて待っている時に、遅れに遅れて藤原さんが来た。この時、時間は既に1時間30分ほど経っていて、残り30分ほどしか余っていなかった。レースの終盤でようやく1人増えたことは、はっきり言って何を今さらという気もしたが、それでも1人増えたことにより、休憩時間が増えたので有難かった。

060722_1918まだ、1回目の走りなのに運動不足がたたり、フラフラになった藤原さんからゼッケンを受け継ぎ、5回目の走りに入ったが、疲れが溜まっているからかスピードが出ない。毎週のように100㎞ぐらい走っていた、毎週のように頂上まで4㎞以上ある田床山を重めのギヤで立ちこぎすることなく座ったままで上っていた4年前なら、このぐらいのことは鼻クソほどにも思わないのだが、お遍路以外では自転車で体を酷使することが無くなった今では、この程度のことでも非常に辛く感じた。

苦しさのあまり手を抜いてやろうかとも考えたが、後から抜かれるのは嫌だし、自分のすぐ前に人が走っていると、どうしても抜きたくなるので、私の性格上それは無理だった。

どうにか5回目を走り終えた時の残り時間が26分ほど。残念ながら先頭走者である私と私の次の西川ぐらいまでは、6回目の走りがまわってくる計算になった。もう1回走らなければならないと思うと、気が重たくなったが、「終り良ければ全て良し」と言うように、最後を気持ち良く締めくくるためにも、死力を尽くす気でいた。

全員が5回目の走りを終える頃には、全員がフラフラの状態であった。それもそのはず、全員が遊びとはいえ、一切手を抜くことなく、マジモードで走っていたからだ。特に普段運動をしない藤田さん、藤原さん、本清さんの3人は死ぬほどキツかったと思うが、なかなかの気合いの入った走りを見せてくれていた。やはり、この人達は根性が違う!

060722_1927最後のゼッケンを藤原さんから受け継いでから、これまでの5回の走りを越えるのではないかと思うほどのペースで走り続けたのだが、スタートしてから第3コーナーを回る時に事は起きた。コーナリングの時にママチャリを倒し過ぎたので、転倒してしまったのだ。「あっ!やってまった!」と思った時は時既に遅く、ママチャリから放り出された私は5mぐらい路面を引きずられてしまった。

ズボンが破れるほどの怪我。この時は、怪我のことはどうでも良かったが、それよりも集中力が切れて、ママチャリのところへ戻ってまた走りを再開するのが嫌で嫌でたまらなかった。すぐにママチャリに戻ったが、私がママチャリのとこまで戻る間にもどんどん人に抜かれた。おそらく10人ぐらいには抜かれたのではないだろうか。時間にすれば数秒だが、これからトップスピードに戻すことを考えると、20~30秒のロスになったのではと考えられる。大きなロスだった。

また走りを再開したものの、集中力が切れているせいからか、なかなか先ほどまでのスピードには戻らない。それどころか、ノルマの3周を走ることなく、このまま1周で棄権してピットに入ってやろうかとも考えていた。よく、マラソンランナーが転倒すると、ペースを乱したり、心が折れて棄権したりするが、やっていることのレベルは違えど、私もそれと同じような状態だった。

しかし、いくら元のように走れないとはいえ、走ることができるのに途中で棄権するのは私のポリシーに反するし、敵に負けるのは仕方がないとしても、自分に負けるのは絶対に許されない。そのことを思い出すと、棄権しようと考えていた自分を恥ずかしく思い、ピットをそのまま素通りしてペースを上げた。抜かれた分だけは抜かし返さなければならない。そう思い、前の奴を追いかけて走った。1人抜かし、2人抜かし、それから先は覚えてないが、おそらく7~8人ぐらいは抜かしたと思う。この間、抜かすことに集中していたので、きついとか痛いという感覚は全く無かった。気付くと、3周のノルマを終えて、目の前にピットがせまっていたという感じだ。

060722_1938結局、抜かれた分だけ抜かし返すということはできなかったが、少しは遅れを取り戻せたはずだ。ラストの西川にゼッケンを渡してピットに入ると、皆が何くわぬ顔で迎えてくれた。どうやら私が転倒した事を知らなかったみたいだった。私が転倒した場所は、ピットから見にくく、ピットから一番遠い場所になるので、それも無理はなかった。

060722_2138左肘と左膝の深く擦りむいたところを見せて、ようやく私が転倒したことを知ったみたいだが、そんなことはどうでも良かった。問題は、深く擦りむいているから治るのに時間がかかるということである。これでしばらくは、化膿した汁で汚れるから、カサブタができるまで布団で寝られない、肘が痛いからカール系の筋トレができないと思うと、気持ちがズーンッ!と重たくなった。 たかが遊びに頑張りすぎたために負った大きい代償。しかし、それとは逆に、転倒するまで死力を尽くしたんだという誇らしさもあり、清々しい気持ちでもあった。清々しさと重たい気持ちの両方があって、複雑な心境だったが、その複雑な心境もレースを終え、最終順位を聞いた時点で解消された。28チーム中7位だったのである。

1位の元競輪選手のチームとは2時間で10周も差がついているのだが、この寄せ集めのチームでこの順位は見事と言っていいだろう。全員の頑張りの成果であった。 真夏のサーキットに散った尊い血(転倒したのは私だけ)と汗。この晩のことは、忘れえぬ思い出となった。だが、レースという闘いは終われど、怪我との闘いはカサブタができるまで続く。風呂に入ったり、ものが触れたりすると、でら痛い!

開催状況
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バトンタッチ

交替はピットでゼッケンを渡して行う。なかなか手際が悪く時間をロスした。

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共有マシン

サドルが低かったのでガニ股になりこぎにくい。

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走れるデブ

走れるデブ西川。なかなかの走りをしていた。

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ヤンチャ坊主

大平の息子のいおり。やんちゃだがけっこう人見知りをする。

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さくら色の未来

大平の娘のさくら。将来が楽しみである。

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記念撮影

最後に参加者全員で集合写真。


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