根性試し2

天台宗の行に「千日回峰行」という行がある。足かけ7年、千日間で4万kmを歩き、9日間続けてお堂に籠るという難行だ。

行の手順は次のとおりである。

① 1~3年目は、無動寺谷で勤行の後、午前2時に出発し、真言を唱えながら比叡山中の260箇所を巡拝する。この約30kmの行程を6時間以内に歩く。これを100日行う。

② 4~5年目は、これを200日行う。

③ 5年目700日の行が満了すると、「堂入り」が行われる。「堂入り」は、明王堂で9日間に渡って行われる。この間、不眠・不休・不臥・不食・不飲で不動明王の真言を唱え続ける。

④ 6年目は、これまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わる。この約60kmの行程を200日行う。

⑤ 7年目は200日行う。はじめの100日は、京都大回りという84kmにも及ぶ行程を行う。これを16~17時間で歩く。残りの100日は、比叡山中の30kmに戻る。

実際には、975日の行であり、足らない25日は「一生かけて修行する」という意味らしい。1200年以上の歴史を誇る延暦寺のこれまでの記録では、47人がこれを満行し、このうちこれを2回行った者が3人という。幕末からの160年の歴史の中でも満行者が10数人しかいないというから驚きだ。

1~5年目の30kmを歩くということをトータルで700日続けるということは、気力と体力が充実していれば、私でもどうにか可能であるように思えるが、問題は③の「堂入り」だ。

人間が、9日間も眠らないということが可能なのか?9日間食べないということは可能でも、果たして9日間飲まないで生きるということが可能なのか?人間の水分を摂取しないで生きられる限界は3日間であると、世間一般では言われているため、その3倍の期間も水分を摂取しないで生き続けられることが果たして可能なのだろうか?大いに疑問だ。これを成し遂げた者が存在するということ自体が奇跡的だ。

よって、ここでつまづく。これを行う資格を得て、これを行ったとしても生還は出来まい。故に④、⑤の日に60km・84kmの行脚も考える必要がない。「堂入り」より先を考えることが出来ない以上、これに挑戦することは出来ない。

何故なら、行を途中で放り出すと、自害しなければならないという暗黙の掟があるからだ。放り出しても出さなくても挑戦して満行出来なければ、待つのは“死”なのである。

“死ぬ覚悟”とは、生きるために持つ覚悟だ。死ぬために持つ覚悟ではない。確実に死ぬのが分かっていることに対して“死ぬ覚悟”を持つことは出来ない。

私は、根性的なことに関しては、“誰かが出来て自分に出来ないわけがない!”という奢った心をこれまでには持っていた。この奢った心を打ち砕いてくれたのが、この行の存在である。

死の淵を乗り越えなければ、満行出来ないというとんでもなく凄まじい行。

それが、「千日回峰行」。

いくら根性があっても、死ぬ覚悟があっても出来ない。

唯一、私が挑戦するとしたら。それは・・・。

生きているのが嫌になった時であろう。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です