同行二人 ≪萩高校同窓会誌より≫

カテゴリ
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開催日
2004年05月01日() ~ 2006年05月04日()

【漢塾とは】

漢塾(おとこじゅく)を主催している。私の漢塾での肩書は塾長だ。

漢塾といっても学習塾でもなければ何かの団体でもない。漢塾は、“ご縁”をいただく場である。

どうやって“ご縁”をいただくのかといえば、様々なイベントを行い、その都度、参加者を募り、縁をいただくのである。

漢塾は、これまでに様々なイベントを開催してきた。開催したイベントには、住吉神輿に寒中水泳、ランニングイベント、自転車イベント、アームレスリング大会、萩焼の窯入れ、イカ釣り大会等、たくさんのイベントがある。

殆どが肉体を酷使したイベントながらも多少ではあるが、文化的なイベントも行ってきている。これが、漢塾が知的体育会系と呼ばれる所以である。

漢塾が、これまでに開催してきたイベントの中でも、個人的に最も思い入れのあるのが、自転車イベントの中の一つである「四国八十八ヶ所自転車遍路」だ。

その、四国八十八ヶ所自転車遍路で出会った、その後の私の生き方に強い影響を与えた方々を当時に思いを馳せながら紹介させていただく。

初めて四国の地に足を踏み入れたのは、平成16年の春だった。同じく漢塾を私と共に主催している萩高の同級生である漢塾参謀の、「四国八十八ヶ所霊場を自転車でまわってみんか?」の一言が、四国に足を踏み入れるきっかけだった。

四国八十八ヶ所霊場巡礼は、真言宗の開祖である空海が作ったとされる。徳島県の第一番霊場 霊山時から香川県の第八十八番霊場 大窪寺までの約1300㎞とも1,400㎞ともいわれる日本では最古で最大の霊場巡礼である。

その長丁場を自転車でまわるという。しかも、昔ながらの非舗装道である遍路道を必ず通って最後まで辿り着こうというのだ。遍路道が非舗装道ということが、私をネガティブな方へと引っ張った。

“これは、自転車に乗っていられる時間は短いかも!”と、思ったからだ。

だが、そんなネガティブな思いも、これから始まる冒険で起こるであろう出来事や出会いに対する期待に比べれば、大したものではなかった。

一回の期間が約1週間で、高野山お礼参りまで含めて全5回の区切り打ち、足掛け3年に及ぶ私達の大冒険は、大きな期待と僅かな不安をリュックと一緒に背負い始まった。

【達観者】

記念すべき四国八十八ヶ所遍路は、平成16年の5月2日から始まった。当時、柳井市に単身赴任で一人住まいをしていた同級生の宿舎から出発し、まずは防予汽船で松山市の三津浜港へ。これが私にとっては、初めての四国への上陸だった。

それから電車を2回乗り継ぎ、約7時間かけて第1番霊場のある徳島市へ。移動を終え、第1番霊場 霊山時へお参りしようとする時には、萩を出発してから既に20時間が経過しようとしていた。

この日は、約1時間ほどで、第3番霊場の金泉寺までお参りし、第一次世界大戦でドイツ軍の捕虜を収容していたという収容所跡地で野宿をすることにした。

この収容所跡地で、私達は衝撃的な出会いを果たす。寝床を作ろうと、復元したであろう収容所に入ろうとした時のことだ。「土足で入るなよ!!」という大きな声が収容所の暗闇の中から発せられたのだ。

一瞬、〝ドイツ兵の亡霊かも!〟という思いが頭の中をよぎったが、そうではなかった。暗闇の中に蠢くのは、亡霊ではなく生きた人間であった。暗闇で顔が良く認識出来ないものの、声の様子から60歳を超えた男性であるということが認識出来た。

お互いに存在を認め合ったところから、私達の会話が始まった。

この男性は、定年退職後に財産を全部処分してからここへ来たという。1年間で四国八十八ヶ所霊場を3回結願し、これからは千日行として四国八十八ヶ所霊場を3年間かけて回るという。

この男性の行うことは、天台宗の行である〝千日回峰行〟に似ているなと思った。

なおも、この男性は続けた。「君達は、お遍路は初めてなんだろう?ならば、お寺を巡るとういのもいいが、それよりも何よりも、本当のお遍路とは、この遍路道を自分を良く見つめながら行くことだよ。ここは良いところだ。しっかりと自分をみつめながら行きなさい!」

男性が、見ず知らずの私達に与えてくれた言葉は、何とも言い難い温かみがあった。そして、翌日の別れ際に男性は、また私達に言葉を与える。

「見付かるといいな!!」と。

お遍路を行う者は、人生の壁にぶつかり、今後の生き方を模索したり、見付けようとする目的で行う者が殆どであろう。だが、一部には観光目的や興味本位で行う者が存在するのも確かだ。

私達は、明らかに後者だった。

ただ、私はこの時にまだ人生の壁にはぶつかってはいないものの、就職したくらいから、「これからどう生きて行けば良いのか?人生において何をすべきなのか?」ということを常に自分に問いかけていた。

見透かされた気がした。その男性の一言である〝見つける〟ということが、その後の私の人生の課題となった。

【予言者】

次に私達が出会ったのが、不思議なおばさんだった。お遍路2日目の第8番熊谷寺でのことだ。

私達が熊谷寺の大師堂で納経を終え、その場を立ち去ろうとした時に見知らぬおばさんに声をかけられたのである。

「あなた達、高野山で会わなかった?間違いなくあなた達と思うけど、二人で本を見ながらお経を唱えているところを見たのよ。」と言われた。「お遍路は始めたばかりだし、高野山は、最後に行く予定で、まだ行ってないから、人違いでしょう。」と言ったが、おばさんは高野山で会ったのは、私達だったと言い張るのだ。本人達が「行ってない!」と言うのに、おばさんは「確かにあなた達だった!」と、自分の言うことを曲げなかった。

そこまで自信を持って断言されると、〝もしかしたら本当に自分達の未来を見たのでは?″という気にさえなる。

この時は、このおばさんの言うことにあやかって、「これは、四国八十八ヶ所霊場を結願して高野山の御礼参りまで辿り着けるよ。」という〝天からの声〟だと、受け止めることにした。

実際、途中で幾多の困難に遭いながらも私達は、おばさんの言う通り、結願を果たし、高野山まで辿り着くことが出来たのである。

正しく、おばさんの言葉は、天からの声であった。

【悩める者】

三日目のことだった。阿波之国一番の難所である第12番焼山寺へ行く途中のことである。標高930mまでの13㎞も続く登りを途中で出会った若者と、抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げた。

結局、若者の無尽蔵な体力の前に敗北を喫したのだが、そのおかげで予定よりも2時間早く第12番焼山寺へ辿り着けるという副産物が付いてきた。

普段から体を鍛えている私達が舌を巻くほどの体力と脚力を持つこの若者に対しては、〝世の中にはすごい奴がいるものだ!〟と、つくづく感心したものだった。

この若者とは、その日のうちに第16番 観音寺で再会することになった。 再会により芽生えたお互いの親近感が、寡黙であった若者の口を開かせた。若者は、あることで苦悩しているようだった。その苦悩が、若者をこの四国八十八ヶ所霊場に向かわせたようだった。

若者の身の上話を聞き終えた後に私は、若者に一言だけ言った。何を言ったかは、今でも良く覚えている。思ったことを言っただけの率直な一言だった。

その一言で、沈んだ表情の若者の顔から翳りが消えた。若者は、「そうか、そういうことか!そういうことだったのか!」と、私の言った一言を繰り返し呟いていた。

よほど私の一言が心に響いたのだろう。別に慰めるつもりで言った一言ではなかったのだが、結果としてその一言が若者を救うことになったようであった。

若者とは、この寺で別れることになり、それからは二度と出会うことはなかった。私の一言で、活路が開けたという若者は、その後どうなったのだろう。

現在、36歳になっている若者は、新潟で元気にやっているのだろうか。

【求道者】

第13番大日寺で出会い、三日目の宿となる接待宿の栄タクシーで再会した のが、この春に高野山専修学院を卒業したばかりの21歳の密教僧であった。

名前の一字に〝光〟という字を冠するこの若き密教僧が、この四国の地に来た目的は、これからの自分の進むべき道を見極めるためであった。

高野山管轄の寺のサラリーマン僧侶となるか、静岡では有名らしい祖父の寺を継ぐか、それとも密教の様々な修法を習得するための求道の道を行くか。

本人は迷っているようだったが、私には、この密教僧の行く末が分かった。普通ではないその目の輝きから、この密教僧の器は、職業僧侶として収まる器ではないと思ったからだ。それに、四国の地に来ることからしても、この密教僧の行く末は、決まったようなものである。

以前より真言宗、天台宗といった密教に興味を持っていた私は、この若い密教僧に根掘り葉掘り密教における修行のこと、その他のことを聞いた。

密教僧からは、テレビや本では知ることの出来ない、大変興味深い話を聞くことが出来た。そして、密教僧の言葉の端々から、真言宗を心底愛していることが私によく伝わった。〝極めたい!〟という気持ちもよく伝わった。密教僧は、人生の明確なビジョンというものを持っていた。

この密教僧は、正しく求道者だった。

私は、このような人間を見たのは初めてだった。

【放浪者】

四国八十八ヶ所遍路、最後の寺である第八十八番大窪寺で出会ったのが、ノリちゃんだった。ノリちゃんとは、仮名で本名は分からない。

母親を亡くした後に親父と仲が悪くなり、家を飛び出したのだという。北海道以外の全国各地を放浪し、最後に辿り着いたのがこの四国の地であるということだ。

この若者で分かることは、歳が26歳であるということと、絵を書くのが好きだということだけ。丸坊主で、放浪者とは思えないでっぷりした風貌は、画家の山下 清を思わせた。

大窪寺の境内周辺には、1ヶ月以上住みついているとのことだった。若者と話している間にも食堂のおじさんが、若者に差し入れをしていた。差し入れをいただくのは、食堂のおじさんだけではないという。

この時、ノリちゃんが、周りの方々からの接待に味をしめたがためにここに居着いたということが分かった。ここに1ヶ月以上住みついているということは、居心地が良くなったということに他ならない。しばらくはここに居着くのだろうと思った。

若くして世捨て人で芸術家。しかし、甘えん坊。そして、おそらく寂しがり屋。世間から見れば、ロクで無しの部類に堂々と入るノリちゃんも、私の目には、新鮮に映った。

あれから、ノリちゃんはどうなったのか。そのまま四国に居着いたのか、それとも親父に見付かって家に連れ戻されたのか。

私は、〝身の回りの煩わしいものを捨てる。〟という人生もあるのだということをノリちゃんによって知ったのである。

【同志者~同行二人】

四国八十八ヶ所遍路を結願した私達は、そのまま香川県から大阪に渡り、高野山にお礼参りに行くか、それとも一度萩に戻って日を改めて出直すかで口論となった。

結局は、台風が近畿地方に近づいているという事実が味方して、私の主張する〝日を改めて出直し〟論が採択されることとなった。

2日間かけて萩に帰り、パソコンのメールをチェックした時のことである。知らない人から漢塾のホームページのメール配信システムを通したメールが入っていたのである。メールの内容をしっかり読む前は、いたずらメールかと思っていた。

ところがである。メール内容に怪しい箇所は一切なく、メール文の最後には住所・氏名・携帯番号まで書かれていたのだ。しかも、その住所を見て!!と、驚きの感情を露わにすることになった。

何と、メールの差出人の住所は和歌山県和歌山市に在住の方だったのだ。これから私達が行こうとする高野山の麓にある町だ。更にだ、メールの差出人であるテルさんは、漢塾と同じようなコンセプトで活動している〝根性屋〟を主催されており、また漢塾と同じようなホームページまで作成しているのだ。

私達と似た思考を持ち、住所は高野山のすぐ近くである。〝これは、すぐに連絡せねば!〟と思い、早速メールを返信した。

テルさんからは、すぐにまたメールが届いた。

そこから、私達の交流が始まった。テルさんは、早速その年の内に夫婦で萩に来られた。その次の年には、高野山へのお礼参りの段取りをしていただき、しかも同行までしていただいた。その後も、一緒に九州を回るなど、私達の付き合いは現在まで続いている。

お遍路さんが歩く時に弘法大師が一緒に回ってくれることを〝同行二人〟という。テルさんの存在は、正しく同行二人の弘法大師そのものだった。〝志を同じくし、共に歩む者〟である。

テルさんとの出会いは、結願を果たした私達が、頑張ったご褒美として神様から授かった素敵な縁であった。

【悟り】

四国八十八ヶ所遍路では、たくさんの貴重な経験をした。食べ物は美味しかったし、景色は綺麗だった。昔ながらの遍路道を自転車で行くという行為は、ある意味、歩き遍路に近いくらいの過酷さだった。

山を登る時は、自転車を降りて、それを抱えて歩かなければならず、歩き遍路に比べるとハンデを背負うようになるからだ。

それでも、あえて〝近いくらい〟と表現したのは、全行程の4割くらいは自転車に跨ることが出来たために歩き遍路に比べると、登りのハンデを差し引いても、まだ楽であったためだ。

ただ、歩き遍路よりも楽だとしても、過酷であることに変わりはなく、途中で起こる様々なアクシデントに悪戦苦闘しながらも私達は、どうにか結願を成し遂げることが出来た。

遍路を行う中で、私達は多くのものをお土産として持ち帰ることが出来たが、その中でも最大のお土産が、これまで紹介してきた方々との縁だった。縁は、勿論これだけではない。他にもたくさんの良き縁があった。

ここで紹介したのは、印象により深く残り、その後の私の考え方や生き方に影響を与えた方々との縁である。

四国八十八ヶ所遍路には、行かなかったとしても今はあるだろう。だが、行ったおかげで、行かないのとは違った今がある。

一つ分かったことがある。私達は、四国へ行かずとも人生というフィールドで、毎日お遍路を行っているということだ。それは、人生という死ぬまで続くお遍路だ。

死を結願とすれば、〝今自分は、人生のお遍路のどの辺りにいるのか?〟、四国八十八ヶ所遍路を終えてから10年以上経った今でも、たまにそのようなことを考えている。

【お蔭様】

この4月30日に萩高のラグビー部の恩師である大井先生の退職慰労会を行った。私達の卒業期43期を中心にその前後2期に渡り、20名以上のラグビー部の教え子達が、大井先生の元に集結した。

大井先生と再会するのは、20年ぶりであった。大井先生は、年相応に若干弱々しくになられただけで、外見も中身も殆ど当時と変わっておられなかった。

大井先生には、ラグビーでもプライベートでも大変お世話になった身である。他の仲間達も同じだ。誰もが大井先生にはお世話になっている。そして、仲間の誰もが大井先生を人生の師として慕っている。

萩高のラグビー部に入部してというよりも、萩高に入学して得た最高のものは、大井先生と、大井先生という大きな傘の下に集まった仲間達である。大井先生をはじめとするこの仲間達とは、死ぬまで共に歩んで行くことになると思っている。私にとっては、仲間達はお大師さんの代わりだ。共に人生というお遍路を続けていく相方だ。

正に、同行二人である。

こんなことを思うようになったのは、私が歳をとったからか、お遍路での経験からか、

それともお大師さまのおかげか。

いや、大井先生のおかげである。

 

 

 


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