肩書き

私には、漢塾塾長という肩書きがある。私の持っている唯一の肩書きであるし、一生つきまとう肩書きでもある。誰につけられたでもない、勝手に自分で自分につけた肩書きだ。この肩書きには、社会的価値はないし、これで飯が食えるわけでもないし、誰かに尊敬や崇拝をされるものでもない。だから、この肩書きは自分以外の人には何の価値もないないものである。

しかし、これからどんな肩書きが自分についたとしても、私にはこれ以上の肩書きはないし、これ以外のものは重要ではないと断言できる。何故なら、この肩書きのおかげで、心が歪みそうになっても、誘惑に負けそうになっても、くじけそうになっても、そうならずに済んだことはしばしば。また、そうなっても、すぐに元の自分に戻れたりもしたからである。

それは、塾長のあるべき姿というものを想い描き、「塾長はこんなことしない。塾長ならこうする。塾長はこれぐらいのことでは、へこたれない。」というように塾長という基準に照らして、それに沿って考え、行動するように努めるようになったからだと思う。

だが、塾長という基準で考え、行動するように努力しているとはいえ、自分の生活全てがそのようにできる訳ではない。それができていたら、既に私は立派な漢である。実際の私が漢からは程遠い人間のことからも、まだまだ塾長ということを意識しないで考え、行動していることが多いのである。

今はまだ塾長という肩書きが先にある状態で、私が後から肩書きに追い付こうと必死に追いかけている状態である。追いかけても、追いかけても追い付けないほどに塾長という肩書きからの距離は離れている。もしかすると、追いかけているつもりが、自分が後退して、ますます距離が離れているかもしれないし、また、長く生きてもせいぜい100年の人間の短い一生で追い付くことは不可能に近いとも思われる。

そう考えると、私にとってはあまりにも重い、漢塾塾長という肩書きであるが、この肩書きがあるおかげで、私はその肩書きに相応しい漢になろうと、日々精進することができる。この肩書きは、私に生き甲斐を与えているのだ。

 


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