四国八十八ヶ所 自転車遍路(高野山)

カテゴリ
 BICYCLE
開催日
2006年05月03日() ~ 2006年05月04日()

高野山 奥の院 ニ日目(2006/5/4)

高野山へは、7~8年前から何度も行きたいと思っていた。だが、それは旅行ではなく修行でのことだ。元々、「人間は何のために生きるの?」との純粋な思いから、その答えを求めて世界三大宗教の一つである仏教に興味を持ち、その関係の本を読み漁った。

最初は、坐禅を組むことで悟りを得るという禅宗(曹洞宗、臨済宗、黄檗宗)に心を魅かれ、永平寺に修行に行ってやろうかとも考えた。しかし、生来の落ち着きのない性格で、毎日とても坐禅なんか組んでられないことと、”何かを得ようと思うのではなく、ただそこに坐るのみの無所得の坐禅でなければならない。”という考え方が、”それならどうやって悟りを得るんだ?”というように理解できなかったことで、禅宗の寺での修行はきっぱりと諦めた。

それならば、どこで修行しようかと悩んだ。私は、巷にあるような葬式仏教には興味がない。あくまで、求めるのは生きることの意義である。坊主になるために修行をしたいのではなかった。そうやって思案している中、テレビで空海が唐に留学僧として渡航し、青龍寺で恵果から密教を授かり、それを元にして真言宗という宗派を開くまでのことをやっていたのをたまたま目にした。

密教とは、加持祈祷などの呪術的な要素ばかりがクローズアップされがちだが、根本となる教えは「即身成仏」である。この考えは、生きながらにして生身のまま悟りの境地に至るという教えであり、その教えを聞いた時、「これだ!」と思った。

生きながらにして生身のまま悟りの境地に至るとは、私の求めるものそのものである。おまけに空海という人物は、神のように崇められており、その伝説だけでも全国津々浦々に3000以上もある。いわば、日本の釈迦やキリストといった感じの人物なのである。こんな偉大な人物の言うことには信憑性があるし、例えそれが嘘だとしてもやってみるだけの価値はある。

これは、すぐにでも修行に行こうと、すごく安易に考えたのではあるが。思うようにはいかなかった。私は当時より結婚しており、仕事を辞めてまで修行に行くことには、当然ではあるが、嫁の理解を得ることはできなかったのである。それならば、何年か金を貯めて、そして、何か手に職なるものをつけてなどして、将来に備えてからにしようかと考えもしたのだが、私には向かい合わなければならない問題がどんどん増えて、それも無理になった。とてもではないが、責任や義務を放棄して、修行に行くことはできない。これは、しばらくは高野山行きを諦めるしかないのかなと思いつつ時間は過ぎた。

その間、私にはいろいろとあった。出会いや別れ、己の傲慢さや未熟さからくる失敗、たくさんの喜びなど。とりあえずは、人間ならば、誰もが経験することを私も経験してきた。また、私の心の拠り所である漢塾も友人達と立ち上げた。いろいろとあったが、良い事も悪い事も全てひっくるめて、今その全てが己の糧になっていることを考えると、すごく充実した時間を過ごしていたといえる。

おかげで、高野山へ修行に行きたいという気持ちは完全に無くなりはしないものの、心の隅に追いやられていたように思う。人生という修行の中で、その何年間かに私が悟ったことといえば、己の未熟さと、自分にはいろいろな可能性があるということぐらいだろうか。そんなの悟ったうちに入らないと言われるかもしれないが、これが、私なりのこの数年間の悟りだ。

アホの末が四国八十八ヶ所遍路に行かないか?と行ったのが、2年前の春。当時、自分としては自転車での旅については、大分、福岡、出雲、県内各所と、やれる範囲では自分なりにやり尽くした気でいたので、もうやるつもりはなかった。しかし、四国八十八ヶ所霊場は空海が開いたものであり、その最終目的地が高野山であると聞いて、私の心は動いた。

今は、高野山に修行に行ける身分ではないから、それならば「遍路」という修行方法で高野山まで辿り着いてやろうかと考えたのだ。アホの末に即OKの返事をし、その年のゴールデンウィークから4回の行程に分けた足掛け2年の旅が始まった。

サラリーマンの私達にとって1週間以上もの長期休暇をとっての旅は、ちょっとした冒険のようで、結構心浮かれたものだった。たくさんの人達と出会い、たくさんの貴重な経験をし、たくさんの感謝をした。休暇が取れるか分からずに、決行不可能かと思われた時もあったが、終わってみれば予定通りの日程で、しかも何事もなく無事に終わっていた。

だが、たくさんの思い出とともに終わるかと思われた私達の旅も、それだけでは終わることはなかった。それが、根性屋のテルさんとの出会いだ! テルさんとの出会いは、四国八十八ヶ所遍路から帰ってきた時にパソコンにテルさんからのメールが入っていたのがきっかけである。すぐにテルさんに返事のメールをした。その時から私達の交流が始まった。

テルさんが、最後の巡礼地である高野山のお膝元である和歌山市在住であることにも驚いたし、根性屋という漢塾と同じような活動をされているチームのキャプテンであることには、もっと驚いたものだ。そして、今回の御礼参りには、そのテルさんも一緒である。人との縁の不思議さを感じながらも、3年もの長き行程を終えて私達は、ようやく高野山の地に至った。

生きる意義については今でもたまに考えることはあるものの、今では修行によって、そのようなことが悟れるなどと短絡的なことは考えていない。これは、今から自分が生きて行く中で分かるのかもしれないし、分からないのかもしれない・・・。が、とにかく今は難しくは考えていない。よって、今では私の興味は真言密教の超人的な能力を発揮する修法の方へと移っている。果たして私は、この地で何を思うのだろうか?これから何年経ってもこの地で修行をしたいと思うのだろうか?

目覚め

060504_0739私が起きた時には、既にテルさんは起きていた。時刻は、午前6時ごろ。6~7時間ぐらい眠っていたことになるから、前日の疲れは感じなかったし、目覚めも良かった。私に続いてアホの末も起きた。こいつはいつも一番遅くまで寝ている。私より早く起きた試しがない。本当に幸せな奴である。

この宿坊では素泊まりなので、朝飯がない。よって、起きはしたが、しばらくは何をするでもなく、テレビを見ながらくつろいでいた。出仕度を始めたのが、午前7時ごろで、午前7時40分には部屋を出た。当初は、もう少し遅めに出発する予定だった。しかし、根性屋の皆さんとの懇親会を午後17時に予定しているということで、それに間に合わせるために出発時間を早くしたのだ。

出発時間が早くなるのは、構わないのだが、この時の私は、朝飯を食ってなかったので、激烈に腹を空かせていた。よって、最初にどこへ行くかということよりも、朝飯のことばかりが気になっていた。

ブレックファースト

宿坊を出てから、とりあえずは朝飯が食えるような店を探した。しかし、まだ店が開くには早いのか、どこも開いてなかった。少しの間、探し回ったら、小さいコンビニのような商店があったので、そこでバナナなり菓子パンなりを買って、腹を満たした。

私は、朝飯に対しては多くのものを求めてない。というか、何も求めてない。とりあえず、安くて満腹中枢を満たしさえすればいいのだ。そういう面では、宿坊の値段が高くて、おそらく不味い朝飯を食うよりは、断然この朝飯で満足していた。

最初は

朝飯を食った後に、テルさんと、今回行くスポットについて話合った。 高野山は広い。見るべきところは、たくさんある。できることなら、全部見てまわりたい。しかし、全部見ようと思ったら、とてもではないが、一日では足りない。もう一~二泊ぐらいしなければならないかもしれない。よって、奥の院と金剛峰寺は御礼参りで絶対に行かなければならないところだから、それ以外に、私が以前より見たかった根本大塔を加えた3ヶ所に行ってみることにした。

壇上伽藍

060504_0817まず、私達が行ったのは、壇上伽藍と呼ばれる高野山の聖なる中心であった。ここには、根本大塔をはじめとして、金堂、御影堂など見るべきところが多くある。そこにある全てが見どころのあるものばかりなのだが、その中でもとりわけ圧倒的な存在感を放っていたのが、根本大塔であった。

060504_0818高さ約50m。かなり離れないと、その全容が分からないほど巨大な根本大塔。前日に見た大門より更に巨大であった。下から見上げると、意識せずとも、口をあんぐり開けるようになる。この現在の根本大塔は、昭和12年に弘法大師一千百年御忌記念事業の一環として建立されたらしい。今から70年前に、一体どれほどの金をかけて作ったのだろうか?現在作るとすれば、何十億、いや百億単位の建設費がかかるかもしれない。その作りのすごさよりも、建設費のことの方が気になった。

根本大塔の中には入れるらしいのだが、入場料をとるということなので、金をケチって中には入らなかった。しかし、中に入らなかったことを後になって後悔した。何故なら、根本大塔の中には、私が以前から拝観したかった胎蔵界大日如来と、それを取り囲む金剛界の釈迦如来や阿弥陀如来、宝生如来、阿?如来といった貴重な仏像があったからだ。あれほど、これらの仏像を拝観するのを楽しみにしていたのに、何百円かの金をケチったばかりに拝観することができなかった。このことは、また次に来る時の課題となった。

金剛峯寺

060504_0839_01次に私達が寄ったのは、金剛峯寺であった。ここは高野山の中枢であり、高野山真言宗の総本山として4000ヶ寺に及ぶ末寺の頂点である。これまで、四国八十八ヵ所の立派な寺を見てきて、目の肥えたつもりでいた私達であったが、その肥えたつもりの目をもってしても、この寺は格が違うように見えた。

それもそのはず、ここには巨大な主殿をはじめとして、別殿、新別伝、奥殿、阿字観道場、護摩堂などのそうそうたる建築物が建ち並んでいたからである。また、国宝や重要文化財の数も数えきれないほどあるらしい。正に、ここは高野山真言宗の頂点にある寺に相応しいと思った。

060504_0842まず、私達は主殿の正面向かって右側にある入口から入り、拝観料を払ってから先に納経所で記帳を済ませた。拝観するのに夢中になって、記帳を忘れないようにするためである。それから私達は、主殿の中を散策した。見事な掛軸、見事な仏壇、見事な座敷、見事な襖絵。どれもが、度胆を抜くばかりに素晴らしいものだったが、私が一番驚いたというか興味を魅かれたのが、ピカピカに磨きあげられた廊下であった。その磨きあげられた廊下の表面は、まるで鏡面のようであり、見事に光を反射していた。おそらく、これはワックスなど使用してないはず。修行中の坊さんが乾いた雑巾で丹念に磨きあげたのだろう。その鏡面のような輝きからは、廊下を通る人に気持ちよく通ってもらいたいという人を思いやる気持ちが覗けたような気がした。

060504_0844_02その気持ちの良い廊下を通り、私達はひたすら奥へ奥へと進んだ。そして辿り着いたのは、裕に畳500畳分ぐらいはあろうかという大広間だった。大広間の床の間には向かって右に胎蔵界曼荼羅、左に金剛界曼荼羅、中央に空会の肖像が描かれた掛軸が置いてあった。

060504_0855胎蔵界、金剛界曼荼羅については他の寺でも見たことがあったから何も感じることはなかったが、空海の肖像については、テレビや本などで度々目にしていたから、「これが、よく目にしたことがある、あの空海の肖像か!」と少々感動した。私達が大広間に入ってからすぐに、40代くらいの坊さんが入ってきて、掛軸の前の演壇で説法を始めたので、しばらくは座ってその説法を聞いていた。しかし、5分も聞かないうちに退屈になってその場を離れた。

寺の中を大体見終えたと思った私達は、寺から外に出て最後から2番目になる納経を行った。これまで88ヶ寺の本堂と大師堂の計176回と慈尊院の本堂と大師堂の計2回を行ってきたから、これが179回目の納経となった。残すところ、奥の院の1回のみであった。金剛峯寺では、テルさんも納経にトライされるということで、後ろで一緒に納経しながらテルさんとアホの末が納経するのを見守った。

060504_0919つい一年前までは見ず知らずの人だったテルさんが、こうやって私達と一緒に納経するとは、考えれば考えるほど不思議なことである。 出会いは、四国八十八ヵ所遍路を結願した時だったし、御礼参りと根性屋、漢塾の合同イベントを兼ねることも正に絶妙のタイミングだった。全てが寸分の狂いもなく絶妙のタイミングで進んでいくことを思うと、テルさんとの出会いは決して偶然ではありえないことを再度、考えさせられた。

テルさんとの出会いといい、四国八十八ヵ所遍路を終えて私達が何を得たか、私達がどう変わったかなど、いろいろと思いを巡らせたかったが、それは最後の納経を終えた時にしようと、思考するのをやめた。私はもう分かっていた。だが、結論を出すのは最後を締めくくってからなのだ。

奥の院

060504_0955私達の旅の最終目的地である奥の院は、金剛峯寺から約2㎞ほどのところにあった。奥の院へ続く参道の両脇には、たくさんの杉の巨木が生い茂り、昼でもなお暗かった。それまでは、陽がさす明るいところに居たので、暖かかったが、ここは陽がささないからか、ひんやりとした冷気が漂っていて涼しさを通り越して寒いくらいだった。

奥の院への道の両脇には、10万墓とも20万墓ともいわれる、おびただしい数の墓石があり、そのどれもが立派なものであった。しかも、これらの墓は、全国の大名の墓や歴史上の有名人など、豪華メンツの墓ばかりである。

織田信長の墓や豊臣秀吉の墓もあったので、”本当に墓の中に骨が入ってるのかな?”とも思ったりしたが、真偽はともかく全国の大名がここに墓を作りたがったのは、この墓の数を見ても確かである。それだけ、由緒あるところなのだろう。この杉木立の参道は、入り口の一の橋から最奥の大師御廟まで、およそ2㎞も続いているというのだから、驚きである。

060504_1000私達は、多くを語ることなく歩き続けた。旅を終わらせることには、嬉しさの反面、寂しさも感じるものだが、この時は早く終わらせたかった。ノスタルジーに浸ってなんていられない。物事は、終わらせない限りは次が無いのである。前へ前へと進んでいくことを身上としている私にとっては、”終わる寂しさ””別れる辛さ”に浸るよりも”始める楽しさ””出会いの喜び”を得る方が重要なのだ。

ただ、そういう相反するものがあるからこそ、ポジティブな感情も、より引き立つ。また、マイナスがあるから、プラスを求めるようになる。そして、それらの相反するものが自分を豊かにしてくれることには薄々気づいていた。結局は、物事に良し悪しなんてないことも、自分の内面の変化を観察していて分かっていた。”全てを肯定的に捉えられる感性”これも、この2年あまりの”お遍路”を含めた生活の中で私が得たものではないかと、歩きながらふと思った。

“これも、この2年で私が得た宝”そう思うと、感情の高まりを抑えることが出来なかった。様々な経験を与えてくれた、自分を支えてくれた人への感謝の気持ちも、とめどなく溢れ出た。この時は、いつも強気な私が、妙にしんみりしているところなど、見せたくなかったから、下ばかり向いていたように思う。おかげで、周りの景色を堪能することは出来なかったが、そんなのはどうでも良かった。私にとっては、ここに来て自分が得たものに気付けたことの方が大切だったからだ。

入り口から25分ほど歩くと、納経所が見え、その奥に大師御廟に続く御廟橋が見えた。大師御廟は、橋を渡ってしばらく行ったところにある。 私達の長い長い旅の終わりは、すぐそこに見えていた。

戯れる

060504_1005そんなに急いで大師御廟に行かずとも、時間はあるということで、少し周りを散策してから行くことにした。御廟橋の手前には、たくさんの”お地蔵さん”や”観音様”が置かれてあり、参拝者達が、その手前にある手水鉢から水をすくって、それに水をかけていた。もしかしたら、”願をかける”のと”水をかける”のをかけているのかなとも考えたりしたが、水をかけることの本当の意味は分からない。でも、やるべきことは全てやっておこうと思った私は、同じように”お地蔵さん”や”観音様”に水をかけた。願うことはいつもと同じである。

そして、私には、以前よりここで是非ともやってみたいことがあった。参道横にある弥勒堂で、弥勒石を持ち上げることである。背負った罪が重い人は、石を持ち上げることができず、背負った罪が軽い人は持ち上げることができるというのである。背負った罪が重いか軽いかは、どうでも良いとして、なかなか普通の人では持ち上げることが出来ないというから、力試しにやってみたかったのだ。私達はすぐ近くに見える弥勒堂まで行った。

弥勒堂は、お堂と言っても、1.5m四方ぐらいの小さい建物である。中には弥勒石しか入ってない。その弥勒石はというと、長さ40㎝、高さ25㎝、幅30㎝、推定重量30kgくらいの、どこにでもある石であった。ダンベルで片手60kg上げることができる私にとっては、どうってことない大きさなのだが、問題は石の上げ方だった。

弥勒堂には、腰ぐらいの高さのところに、腕一本入るのがやっとの穴が一つだけ開いており、そこから手を突っ込んで石を上げるのである。しかも、石の大きさからいって、片手で石を上から掴んで持ち上げることは、大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントや鉄の爪のフリッツ・フォン・エリックでも無理であろうと思われた。

石を持ち上げるには、転がる石の下に上手に手を滑りこませ、あとはパワーで上げるしかなかった。”さあ、いざ実行!”思ったとおりに石の下に手を滑りこませ、あとは腕力の出力を最大にした。”ん?思ったより軽いぞ!”と思うよりも早く石は上がった。もしかすると、重さは30kgも無かったかもしれない。ある程度の力があって、コツさえ掴めれば、”上げられる人は結構いるのでは?”とも思った。

でも、何はともあれ、弥勒石を持ち上げられたことは嬉しかったし、やってみたかったことだから良い思い出にもなった。また、奥の院には、覗き込んで自分の姿が映らなければ、3年以内に死ぬという”姿見の井戸”という井戸があり、興味はあったのだが、自分の姿が映らなかったら怖いから見ることはしなかった。

大師御廟

060504_1009十分に戯れた私達は、御廟橋を渡った。橋から向こうは、写真撮影が禁止の区域であるため、写真を撮ることは出来ないのだが、そんなことはどうでも良かった。写真でなくとも、私の心の中には永遠の思い出として残せるからだ。橋を渡ってから300m余り。大師堂と思われる大きい建物の裏にひっそりと大師御廟は佇んでいた。

大師御廟の前には小さな門があり、その前に拝所で納経するようになっている。超人である弘法大師は、現在もこの御廟の中で生きていると言われ、現在でも僧が毎日二度の食事を運んでいるらしい。弥勒菩薩が降臨する、56億7千万年後の遥か彼方まで、この中で修行しているのだという。まあ、何ともスケールの大きい伝説めいた話だが、御廟の佇まいの荘厳さは、私達の最後を飾るのに相応しい場所であった。

ここでは、テルさんも交えて、3人で納経することになった。ここまで無事に来させていただいたこと、良き経験をさせていただいたことを感謝しつつ、私はある事を思い出していた。それは、第一弾の遍路のある寺でのことであった。「あなた達を高野山で見たわよ!」と私達に予言めいたことを言ったおばちゃんのことであった。”あのおばちゃんが見たのは、もしかすると、未来の私達の姿だったのかもしれない。”当時は半信半疑ながらも、そう思っていた。だが、実際にあのおばちゃんの予言は当たってしまった。

しかしである。今もし、あのおばちゃんに会えるのなら、「私達ともう一人いませんでしたか?」と、問いたい。果たして、おばちゃんにテルさんの姿は見えていたのか?それとも見えてなかったのか?もう確かめようのないことなので、どうでも良いのだが、あのおばちゃんの言葉が励みになったわけだから、あのおばちゃんにも感謝している。

納経も終盤にさしかかった頃、横で懸命にお経を唱えているテルさんを見てふと思った。私が得た宝は、もう一つあるんじゃないかと。お遍路を終えるまでは、見ず知らずの人であり、ホームページを設けてなければ、まず間違いなく知り合うことはなかったであろうテルさんと、こうやって四国八十八ヶ所遍路を締めくくる最後の旅をご一緒できるとは、本当に思ってもなかった。最初にお会いした時も、今まで何度もクドいくらいにそう感じたのだが、この時も “人との縁”の不思議さを改めて感じていた。ただ、私が思うには、私達は遅かれ早かれ出会う運命にはあったはずで、お大師さんか神様仏様かは分からないが、そういった目に見えない存在が私達を絶妙のタイミングで引き合わせてくれたのではないかと。 “人との縁”を与えてくれたこと。このことにも私は素直に感謝した。

そして、最後にもう一つ感謝することがあった。”私の思いを届けてくれたこと”である。ここへ来るまでの寺で、私はずっと願い事をしていた。それは、物質的なことでもなく、自分のことでもない。”願い”というよりは、切実な”思い”と言った方が適切だった。それが、届くかどうかは分からない。ただ、ここへ来るまで、純粋な気持ちで祈った。それは、私の強い思いからであるが、自分がそのような気持ちになれたことだけで満足であった。”これもお大師さんのお陰”と思い、心からそのことには感謝していた。

納経は、10分ほどで終了し、同時に私達のお遍路も終わった。この時は、終わったという喜びも感動もなかったのだが、それは、時間が経つごとにジワジワと感じてくるのかもしれない。

終わりは始まりでもある。ここ高野山において、足掛け3年にも及ぶ四国八十八ヶ所遍路を終わらせたことで、既に思いはここから離れていた。私の目は、もう次を見据えていた。

旅を終えて

060504_1606この地に来て何を思うか?最初、そのように構えていたのだが、結果から言ってみれば、”何も思わなかった”ということになる。期待していたものは何も無かったし、真言密教における超人的な修法、”悟り”といったものもどうでもよくなっていた。

今でも修行に来たいか?と問われれば、”別に今行く必要はない。”と答えるだろう。修行の場は、日常生活の中にあるということは、既に分かっていた。ただ、客観的に自分の生活を見つめることができなかったから、頭で分かってはいても実感を伴うことができなかった。だが、非日常の世界である”お遍路”の世界に飛び込んだことで、それができるようになった。

客観的に自分の生活や、自分の置かれている立場、自分自身をみつめることで、自分がいかに恵まれているか、いかに甘えた心の持ち主であるか、いかに我がままであるかが分かった。それが分かったこと。つまり、少しばかり謙虚になったことが、私達がお遍路を通して変わったことである。得たものについては、もう言う必要もないだろう。私達は、家でじっとしていては決して得られないものをたく さん得ていた。

これを書いているのは、高野山御礼参りを終えてから1年8ヶ月後である。何故、そんなにも時間が経ってから書くようになったのか?自分でも意識してなかったのだが、これには、しっかりと意味があったのだ。私の”思い”が届いたのである。それは、私の思いの力か?神様仏様のおかげか?それともお大師さんのおかげか?もう、そんなことはどうでも良い。

今は、ただひたすら全てのことに感謝している。


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