四国八十八ヶ所 自転車遍路(第一弾)
- カテゴリ
- BICYCLE
- 開催日
- 2004年05月02日(日) ~ 2004年05月06日(木)
三日目(2004/5/4)
目覚め
夢を見ていた。友人をおっかけても、追っかけても捕まえられない夢を。待ってくれと言っているのに、笑いながら逃げる。この野郎と思い、全力で走ってやっと捕まえたと思ったら、捕まえたものは、友人ではなく、ただの葉っぱだった。
俺は何をしていたのだろうと、何とも言えない虚しさを感じたところで、目が覚めた。目が覚めてからも、夢の余韻が残っていて、何だか虚しかった。
時刻は、午前5時。大阪のおじちゃんも、埼玉の兄ちゃんも既に起きている。末だけが、気持ち良さそうにいびきをかいて寝ている。夜中に降りだした雨も、勢いは弱まったものの、まだ降り続いている。こりゃあ、今日は濡れにゃあいかんなと、覚悟を決めた。どうせ雨が降らなくても、汗で濡れるのだから、同じことだ。
埼玉の人は、身支度を整えて、朝飯を食って、すぐに出発された。大阪のおじさんは、予定変更して、焼山寺へは行かず、もう1日ここへ留まるという。時間がある人はいいなあと思った。
まだ、午前6時にもならないというのに、他の棟の人達もどんどん出発し始めている。1日に40㎞ぐらい歩くから、早く出発しないと、夕方までに距離が稼げないのだろう。それに影響されて、午前7時頃に出発する予定だったのだを、30分ほど早めることにした。勝手に出発時刻を変更して悪いと思いながらも、気持ち良さそうに眠っている末を起こして、出発する準備をした。
出発
午前6時30分に出発。小屋の外は雨。歩き遍路さんは、合羽を着て歩いているが、私達は何も着ていないので、すぐにビショ濡れになった。雨に濡れるぐらい、どうってことないが、雨はやる気を殺ぐので、よくない。昨日の清々しい出発とは異なり、重苦しく憂鬱な出発となった。
藤井寺に着くと、既に結構な数の人が来ていた。皆、今から焼山寺を目指すのだ。その中に昨日のエセ山伏一行がいた。鴨の湯にはいなかったから、どこか他のとこに泊まったのだろう。
また写真撮影を頼まれたので、やむなく応じる。エセ山伏は、写真撮影の後、でかい法螺貝を吹いていた。法螺貝を吹いたのは初めて聞いた。かなり音がでかい。結構、吹く姿が様になっていたから、もしや、こいつは本当の山伏かと思ったが、本当の山伏が女の子とチャラチャラするわけはない。目障りだから、いい加減その格好はやめろよと思った。
本堂で旅の無事を祈るお経を唱えて、焼山寺へと続く遍路道の入口に立った。ここで、近くにいたおじさんに記念撮影をお願いする。
私達が、自転車で、山を登っていくと聞いて驚いていた。少し前にも自転車で行こうとした若者がいたらしいが、どうなったかは、分からないとのこと。君達なら大丈夫だろうとも言っていた。
今更、他の奴等がどうのこうのいうのは、興味がない。他の奴にできて、自分にできないわけがないのだ。それだけ自分の体力には自信がある。焼山寺までは、ここから約13㎞の道程。標高930mの高さまで、登っていかなければならない。日頃、鍛えたこの体と体力を試す、絶好の機会だ。
おっしゃ~!と、気合を入れて階段を登り始めた。午前7時10分 登頂開始。
登頂開始
いきなり、急な階段が続いて、タメ息がでる。階段を登る時は自転車を押さなければならない。段々になっているところを押すと、車輪が、ガッタンガッタンして鬱陶しいので、端の平らになっているところに車輪を走らせると、ガッタンガッタンしないで楽であることを発見した。
しかし、それをすると楽であるものの、車輪を階段の端の平らになっているわずかなところを外さないように走らせるよう気を使わなければならないので、私は、途中でやめて自転車を脇に抱えることにした。
それをすると、体力をより消耗するようになるが、気を使うよりは、ましだ。末は慎重に気を使いながら、階段の端に車輪を走らせることを続けていた。ここに二人の性格の違いが表れているように感じた。
しばらく行くと、階段が終わり、ラッキーと思ったのものの、雨で道がぬかるんでいるために、滑って登りにくい。気を抜くと、石や葉っぱで滑って転びそうになる。
特に岩が地表にむき出しになっているところを、歩く時は、注意を要する。岩が濡れている上に、それに付着した苔で、かなり滑りやすくなっているのだ。実際、何度かこけそうになった。
再会
30分ほど、登り続けると、下界を見渡せる開けた場所にでたので、そこで休憩した。
下界の景色を見て判断したところ、100mぐらいは登ったのではないかと感じた。焼山寺までへの道中は、山の中なので、店などあるはずもなく、そのことは見越していたので、飲み物や、食料というものは、準備していた。食料といってもカロリーメイトとキャラメルぐらいのものだが、それがあるだけでも、全然違う。
5分ほど休憩して出発して、少し行くと、少し下りになったので、自転車に乗ることができた。3分ぐらい自転車に乗ることができただろうか。下りは、かなりスピードをだしたので、私達より先に出発していた埼玉の人の追いついた。
埼玉の人は、午前7時から登り始めたという。私達より出発が、10分早いから、それだけ時間を縮めることができたことになる。
「先に行かせてもらいます。」と、抜いたものの、再び上りが始まると、自転車という大きい荷物を抱えているために、歩きの人よりは、全然スピードが遅くなる。多分、半分ぐらいのスピードしかでてないのではなかろうか。
そのため、すぐに埼玉の人に抜かしかえされた。しばらく急な上りが続くので、これは、もう埼玉の人に追いつくのは無理かなと思いきや、また、下りになったので、埼玉の人を難なく抜き去ることができた。しかも、この下りが終わってからも、今度は、上りも比較的緩やかなので、かなり距離を稼ぐことができた。
これで、しばらくは、追いついてこれないだろうと、安心する。山道を登っている時は、気がつかなかったのだが、単調な景色の山道と思いきや、進むごとに景色が少しづつ違ってくるのだ。生えている草木の植生や、道の幅や状態、日のあたりようで、違って見えるのかもしれない。おかげで、同じような景色に見飽きることはなく、いろいろな景色を楽しませてもらった。
まあ、登っている最中は、下を向いて必死こいて自転車を押すので、周りの景色を見ている余裕なんてないのだが。
長戸庵
先程から上り下りを繰り返しているのだが、最初に考えていたような、ずっと上りではなく、上り下りを繰り返しながらも上っていくのだと悟った。まだ、序盤だから、下りもあるのかもしれないが、後半になると、下りも少なくなり、上りもどんどん急になってくることも考えられる。油断はしないことにした。
午前9時半に山道がかなり広くひらけた長戸庵に着いた。先に着いて、休憩していた、お遍路さんが2人いたので、後から来た埼玉の人も交えて5人で記念撮影する。
先に着いていた2人は、鴨の湯に泊まっていたそうだ。「顔を見ましたよ。」と言われたが、残念ながら、私は彼らを全然覚えてなかった。
私達が、雑談をしながら休憩していると、1人の華奢な体をした若者が、長戸庵で休憩もとらずに歩き去っていった。走っているわけではないが、かなり速い。
この時は、すげえ速いなと感心して見ていたのだが、後にこの若者と深く関わりあうとは、知る由もなかった。
抜きつ抜かれつ
若者が気になったので、他の3人に別れを告げて、すぐに若者を追っかけた。私達は、自転車も抱えているし、抱えてなかったとしても、あの若者の驚異的な速さには、とても追いつくことはできないだろう。あの若者を抜くには、下りしかない。上りを駆け足気味に登って、しばらくは、休憩もとることなく、下りになるのを待った。歯をくいしばりながらも、自転車を押して登り続けると、待ちに待った下りが始まった。遅れを取り戻すように必死こいてこいだ。
若者には、すぐに追いつくことができた。若者は、どうぞ先に行ってくださいとばかりに道を譲ってくれた。若者を抜いて優越感に浸ったのも、束の間、下りが終わって、また上りが始まったので、今度は、私達が道を譲る番になった。せっかく、抜いたのに、すぐに抜かし返されて悔しいが、悔しがってばかりいる余裕はない。心臓破りの上りが、延々と続く。多分、汗はかなりかいていると思われるものの、雨に濡れて、どれくらいかいているのかは、分からない。
雨が降っていると、鬱陶しいが、体温を奪われて涼しいので、思ったよりもやり易い。
2人とも、息をハァハァさせながら登る。行けども、行けども上りは終わらない。人が一人通るのがやっとの道や、石が崩れて滑りそうになる道を進む。まだかなと思い、上を見上げるが、上りが終わる気配はない。あまり、上ばかり見ると、気持ちが萎えそうになるので、下ばかり見ながら登ることにした。
休憩をとるのは、末に任せていたのだが、時間とともに休憩をとる間隔が短くなっていった。それだけ体力を消耗しているのだろう。私も、自転車を押したり、抱えたりして登るのは、きついと感じながらも、いろいろと考え事をしながら登っていたので、そんなに苦にはならなかった。なかなか普段は、思いつめて考えることをしないから、良い機会であった。
追跡
考えることに集中していたら、いつの間にか山上に到達していた。ここからは、しばらく下りが続く。若者に追いつけとばかりにとばす!とばす!とばし過ぎて、石ころにつまづいて、谷底に落ちそうになったり、クラッシュしたりもしたが、それでも、とばすことをやめない。
しかし、いくら下っても、若者の姿は見えてこない。結構なスピードをだして、距離も結構、稼いだのに何故だという気になる。
下り続けて5分。ようやく若者の姿をとらえる。それにしても、こいつの歩く速さは、とんでもないスピードだ。私達と1㎞近く差があったのではなかろうか。
若者をつかまえて、「お前!走っとるんやろ?」と聞いたが、全然走ってないとのことだった。本当かいなと、疑わしくもあったが、驚きはこいつの顔だった。汗だらだらで、息の乱れている私達と比べて、こいつは、汗一つかいてないような涼しい顔をしているのだ。
「お前、疲れてない?」と聞いても、「はぁ・・」と、気のない返事をするだけだ。私の見たところ、こいつは全く疲れてないように感じた。普段から鍛えている私でさえ、結構きているのに、こいつのこの余裕な態度は、一体何なんだ。どういう体力をしているんだろうか。また、体力だけではない。この険しい山道を速く歩けるだけの足腰も持っている。本当に驚いた。こんなに驚くのは、姉御と自転車でツーリングに行った時以来のことだ。姉御に比べれば、インパクトでは劣るが、それにしてもすごいと思う。この人達は、スポーツ選手になったら、それなりの選手になれるのではないかとも思った。
それにしても、世の中には、すごい人がいるものだ。自分がちっぽけに思えてしまう。
追われる恐怖
若者と話すのもそこそこに、若者から逃げるように、下りを再開した。舗装のしてないでこぼこ道ながら、スピードが出ること、出ること。時速20㎞ぐらいは、出ているのではなかろうか。
後ろを振り向くと、若者の姿がどんどん小さくなる。できるだけ、こいつからは、遠ざかりたいと思い、下りが延々と続くことを願った。
願った甲斐あってか下りは続き、1㎞ぐらいは下ったであろうか。ようやく長い下りが終わった。その下りで、若者以外にも何人か抜き去った。念のため、後方確認をする。若者は来てない。ホッとする。
ホッとしている暇はない。うかうかしていたら追いつかれてしまう。恐らく、いくら私達が上りが遅くても、普通の人であれば、追いつけないほどの差をつけているのだが、こいつにはその常識は通用しない。
もう、焼山寺まで、あと5㎞のところまできている。残りの道程は、上りが多かろう。ここで、頑張っておかないと、追いつかれる可能性は大だ。
何かに追われるように、休憩もとらずに登り続けた。かなり早足で登ったので、休憩中のお遍路さんや、歩いているお遍路さんを何人も抜き去った。かなりのペースなので、追いつかれることはないとも思われたが、やはり後ろは気になった。
30分ぐらい、ハイペースで登り続けたであろうか。さすがに疲れたので、休憩をとる。自分達が休憩している間にも、若者がどんどん迫ってきていると思うと、気が休まらない。末が、「あいつの足音が聞こえるような気がする。」と、恐ろしいことを言うので、休む気も失せて、すぐに出発した。
一本杉庵
時刻は、午前10時半。さすがに登頂しだしてから、3時間以上も経つと、疲労も溜まる。ぺースはどんどん落ちてくる。先ほど、休憩してから、さほど時間は経ってないが、一本杉庵に着いたところで、記念撮影も兼ねて、休憩をとることにした。
一本杉庵には、その名のとおり、巨大な一本杉がある。樹齢にしたら何百年にもなるのではなかろうか。見事な杉だ。
先におばちゃんが2人休憩されていたので、挨拶をしたら、黒砂糖を接待していただいた。黒砂糖なんて食べるのは、何年ぶりであろうか。疲れているので、すごく美味しく感じた。おばちゃん達は、午前6時50分ぐらいから登り始めたらしい。私達と20分ぐらいしか出発時刻が違わないのに、ここまで来ているとは驚きである。お二人とも、見たところ60歳前後に見えるのに、何という健脚だ。
その健脚の秘訣は、毎日10㎞歩いているからだという。10㎞歩くといったら、2時間から2時間半ぐらいかかる。それを毎日やっているとは、大したものだ。それなら、この険しい山道をハイペースで歩けるのも納得がいく。歳をとっても、ここまで出来るものだということを教えられた。継続は力なりである。
再び追われる恐怖
おばちゃん達とゆっくりお話していたかったが、その間にも奴が迫ってきていると思い、おばちゃん達に御礼を言って、せかされるように出発した。
しばらく行くと少しだけ下って、川があるところにでた。綺麗な川だ。水を見ていると、心もなごむ。だが、なごんでいる暇などなく、再び急な上りを進む。
焼山寺への残りの距離から考えても、ここが最後の難所と考えられる。自分達が懸命に自転車を押していると、後ろから足音がするので、もしや!と思い、振り返ると、それは若者ではなく、50代後半ぐらいのおじさんだった。
藤井寺から歩いてきたのではなく、すぐ手前の川の辺りから来たのだという。山登りが趣味で、もう30年ぐらい、いろいろな山を登っていると言っていた。抜かせたくはないけれど、「どうぞお先に。」と言って道を譲ったら、おじさんの歩くスピードの速いこと、速いこと。5分も経たないうちに、見えなくなった。
なんというスピードだ。普段から山を歩いている人というのは、あんなにも速いものなのか。若者ほどのスピードではないが、それでも驚いた。道を譲って良かったと思った。
これは、やばい!と思い、自分を奮いたたせて、進むのだが、最後の上りだけあって、今までにないほど、傾斜が厳しく、疲労もあって、進むスピードは遅くなるばかりである。途中、道が途切れて、岩肌がむきだしになっているところなんか、自転車を押すことができず、肩に担いだり、脇に抱えたりして、不安定な足場を滑らないように、細心の注意を払って進まざるをえなかった。
必死の形相で岩場を登っている最中に、ふと、私の第六感が働き、後方に何者かの気配を感じて、振り返った。来てるよぉ~!私達の200m後方に奴は迫っていた。せっかく、頑張ってきたのに、ここで抜かれてなるものかと、最後の力を振絞って、岩場を登るのだが、若者の足音は、どんどん近づくばかりである。
怖くなって、末に「走れ!」と言って、ガムシャラに駆け上った。5分ぐらい全力で、後のことなど考えずに駆け上がったであろうか。これだけ、進めば、かなり差はついたであろうと思い、後ろを見ると、何と私達の10mぐらい後方に若者がつけてるではないか。しかも、疲労痕倍な私達に比べて、非常に涼しい顔で余裕こいて登ってきている。
もう、だめだと思った。体力のレベルが違いすぎる。2人で通せんぼをして、先に進ませないということも考えたが、そんなのは、漢のすることではない。潔く、負けを認めて、「どうぞ、どうぞ。」と言って道を気持ち良く譲った。これで、若者に追いつくことは、不可能となった。力の差を思い知らされたので、不思議と悔しくはなかった。心底、こいつはすげえと思った。
到着
若者に抜かれてから、20分ほどで、焼山寺に着いた。時刻は午前11時半。登頂を開始してから、4時間20分かかったことになる。予定の半分ぐらいで着いたので、何だこんなものかと思ったが、若者と追いかけっこをしていたから、これだけ早く到着できたわけで、普通に行ったら、もう1時間か、それ以上余分に時間がかかっていたものと思われる。
その代わり、余分に体力を消耗してしまった。焼山寺までの道程は、噂に聞くだけの厳しさではあった。
しかし、何で追いかけっこなんてしてしまったのだろう?向こうは、そんなことなど、全然意識してないだろうに。
第十二番 焼山寺
焼山寺は、樹齢何百年かの杉木立と、山の霊気に守られるようにひっそりと建っている。四国八十八ヵ所霊場にある6つの苦行の場の第一番目に当たる寺である。雨が降っているためか、山から降りてきた霧が、境内にたちこめて、何とも言えない荘厳な雰囲気を醸しだしている。良い寺だ。苦労して登ってきただけに、尚更そう思える。
私達が納経をしようとすると、先ほどの若者が、下山しようとしていたので、つかまえて記念撮影をお願いした。記念撮影をするのは、乗り気ではなかったようだが、今の私には、彼がヒーローに見えたので、半ば強引に記念撮影した。
若者は、麓のバス停でバスを待つというので、ここでお別れした。
本堂と大師堂で、納経を終えると、先ほどのおばさん達と出合った。私達から遅れること15分。やはり歩くのが、速い。
腹が減ったので、境内の中のうどん屋に入って、山菜うどんと草餅を食う。婆ちゃんが1人でやっている食堂である。味は良かった。
腹が満たされたところで、昼寝でもと思ったものの、次の大日寺までは、約22㎞の道程を行かなければならない。普通の道なら1時間もあれば、到着できる距離なのだが、遍路道では、その2~3倍は裕にかかる。
一昨日、千日行のおじさんに聞いた、禅心道場に少し寄ってみたいとも考えていたので、休むのもそこそこに午後12時過ぎには出発した。
遭難の恐怖
焼山寺からは、とりあえず、すごく急な坂を下る。坂が急過ぎるので、ブレーキレバーを思いっきり握りながら下る。それでも、かなりスピードがでる。坂を下る気持ち良さよりも、怖さの方が勝る。標高900mもあるのだから、坂が急にもなるはずだ。こんな坂は、絶対に登れるわけがない。坂が大好きな姉御でも無理に違いない。しばらく、思いっきりブレーキレバーを握ったまま下ったので、手が痛くなってしまった。下ることに専念していたので、寄ってみようと考えていた禅心道場を通り過ぎてしまった。
通り過ぎたということは、縁がないということなので、キッパリ諦めがついた。かなり、下ったところで、大日寺と書かれた看板を見つけ、その看板の方へ進む。今度は、緩やかな上りだ。看板から1㎞ほど行ったバス停で、先ほどの若者を見つける。雨の中、一人寂しく、待合小屋の中でバスを待っている。手を振って通り過ぎた。
雨はますます強くなっている。目の中に雨が入って、前が非常に見づらい。早く街中に入りたいと思っていたら、遍路道と書かれた看板が目に入った。
遍路道と書かれてあるからには、ここを通らなければならない。しかし、また、急な登りである。麓までずっと下りだろうと、タカを括っていたので、ガックリした。
覚悟を決めて、遍路道に入って行ったものの、ここの遍路道は、焼山寺までの遍路道より更に険しく、通りにくい。道とはいっても、道ではないのだ。どうにか人が通った形跡があるだけで、それを頼りに山を登っていくのだ。
何も持たなくても、困難な、道なき道を自転車を担いで登って行く。かなりハードだ。登れども、登れども、出口は見えてこない。こんな山奥に末と私の2人だけで、周りには、草木以外に何もなく、出口のあても、看板みたいな目印も何もないから、すごく不安になった。しかも、雨はどしゃ降りとなり、真っ白な霧が立ち込めてきて、前が見えなくなった。更に不安になる。「くっそ~!こんなことなら普通の道を通っておけば良かった!」と、心の中で愚痴を漏らしたが、漢は心の中でも愚痴を漏らすものではない。この道を選んでしまったからには、この道を行くしかない。出口があることを信じて、ただ、ただ、登り続けた。
どれくらい登っただろうか。急に目の前が明るくなってきた。どうやら、登りきったらしい。遭難しなくて済んだと、胸を撫で下ろした。
丁度、広い道に出たところに小屋があったので、その軒下で休憩をした。ホッとする一時だ。小屋の道を挟んだ正面に、たくさんのお地蔵様が置かれてある。そういえば、ここへ来るまでも街中や山中でも、たくさんのお地蔵様が置いてあるのを見かけた。お遍路さんの旅の無事を祈って、置いたのであろうか。その一つ一つのお地蔵様は、皆、表情が違うものの、どれも柔和な表情をしているように見えた。しかも、どれにも、ちゃんちゃんこを着せたり、帽子をかぶらせたりしている。お地蔵様を作った人や、ちゃんちゃんこを着せた人の優しい心が見えたようで、思わずジーンときた。人の作るものや、行動には、その人の心がでるということが何となく分かったような気がした。自分というのは、どんな心を持っているのだろうと気にもなった。
再開
2人とも口数が少なかった。疲労し切っていて、あまり話す気にもなれない。だからこそ、いろいろなことに思いを巡らせられた。疲れると、無駄なことはしなくなる。こういう時間もいいものだと思った。いつの間にか、雨は止んでいた。結構、休んでいたのかもしれない。
多分、ここまでの道程で時間を大分ロスしたはずだ。遅れを取り戻すために、下りは、ブレーキを緩めに下ることにした。平均で時速40㎞はだしていただろうか。下る時の風で、濡れていた服がすぐに乾いた。
10分も下ると、麓に着いた。ここからは、緩やかな上り下りを繰り返しながら進む。途中、2~3箇所ほど、短い遍路道に入った以外は、殆ど車道を走っていた。
自転車に乗れるのは、有難い。しかも雨があがって、晴れてきたので、景色が良いのと相まって、すごく気持ちよい。今回の遍路で、自転車には久々乗ったのだが、やはり、自転車はいいよなと痛感するのだった。
しばらく行くと、味のある一本橋があったので、その上で、記念撮影をする。そこでも、1人歩く若いお遍路さんに出合った。自分達も含めて、若いお遍路さんが多い。何か思ってか、ただ楽しむためか、そんなことは、どうでも良い。やることに意義があるのだ。やっていれば、どんな動機からであろうと、絶対に何か感じる、得られることがあるはずだ。
少し行くと、二又の道に出たのだが、看板がでてないので、どちらに行けば良いか分からず、地元の人に道を教えてもらった。道は分かったので、あとは、この道を7㎞ほど行くだけだ。もう少しと思うと、自然とスピードもでる。かなりとばしたので、教えてもらってから15分もしないうちに大日寺に着いた。
第十三番 大日寺 ~邂逅
大日寺は、国道に面して建っている。第四番も同じ大日寺だったが、関係のある寺なのだろうか。国道沿いに面しているだけあって、賑やかな寺だ。納経を終えるて、納経所で記帳していると、お坊さんが、境内に入ってくるのが見えたので、記帳を終えると、外にでて、お坊さんに話しかけた。
まだ、21歳と若いお坊さんで、高野山専修学院という、お坊さんの学校をでたばかりらしい。昨日は、焼山寺のお堂に泊まったらしく、今日は、15~16番までまわって、栄タクシーという接待してくれるところに泊まるとのこと。私達も、泊まる場所を探していたので、そこに泊まることにした。高野山には、興味があるので、いろいろと聞いてみたかったが、どうせ泊まる場所が一緒ならば、その時に聞けば良いと思い、とりあえずお別れを言って出発した。
第十四番 常楽寺
常楽寺までは、大日寺から2.3㎞ほどの距離にある。私達が行った時は、私達しか人がいなかった。境内には、一杯に岩盤が露出しており、その得意な光景に目を奪われた。
時間がないので、納経と記帳だけをして、先を急ぐ。
第十五番 国分寺
国分寺までは、常楽寺からわずか800mほどである。国分寺とは、8世紀に聖武天皇が全国に建立した寺であるから、弘法大師が建立した寺よりも古い。
ただ、古いというだけで、そんなに印象に残る寺ではなかった。記帳して、時計を見ると、もうすぐ午後16時40分になろうとしている。もう一番寺をまわりたいから記念撮影をするのも忘れて、国分寺をあとにした。
第十六番 観音寺 ~再会
観音寺には午後16時50分に到着した。観音寺も、前の寺から1.7㎞ほどの近い場所にある。十三番から十七番までは、近い距離にかたまっているみたいだ。
寺に着いてから、まずは、納経する前に記帳をした。午後17時になると、納経所が閉まってしまうからだ。 記帳を終え、納経をしようかという時に、寺の門の前を先ほどの若者と思える者が通り過ぎるのが見えたので、一応、声をかけたら、やはり、あの若者であった。二度ならず、三度までも会うとは、並々ならぬ縁を感じる。先ほどから、何かを思いつめているような顔が気になっていたので、話しかけた。
さすがに会うのが3回目ともなると、私達に親しみもわいてきたようで、腹を割っていろいろと話してくれた。若者は、新潟の出身らしい。歳はまだ24歳と、若い。誰でも持っているような悩みを持っていた。私ごときの人間にアドバイスできることなんてないが、率直に思ったことを一言だけ言わせてもらった。
その一言がお気に召したらしく、若者の顔から翳りがのいて、表情が明るくなった。ただ、思ったことを言っただけなのに、どうやらツボにはまったみたいだ。
私達を唸らせたほどの体力をもつ若者だ。こいつには、小細工なんか要らない。正面を向いて真っ直ぐ歩んでいきさえすればいい。どんなことでもどうにかなるはずだ。
ここで、もう一枚、記念撮影しようと思ったら、若者の方から、「写真を一緒に撮ってもらえますか?」と言ってきた。焼山寺では、嫌々だったのに、今度は、若者の方から写真をとろうと言ってきたのには、驚いた。かなりの心境の変化だ。
若者の心が、良い方向に変化しつつあるのが、分かったので、嬉しかった。別れ際に、自分は漢塾塾長であることを告げた。漢塾のホームページのアドレスを見るようにと、紙に書いて渡し、マウンテンバイクとダンベルも買うように言った。
若者は、頷くと、別れの挨拶をして去って行った。
若者の後ろ姿を見ながら、私が最後に言ったことを若者が実行してくれるよう願った。漢塾のホームページを見て、マストアイテムを手に入れさえすれば怖いものなしなのだから。
栄タクシー
私達の泊まる予定の栄タクシーは、観音寺からそう離れてはなかった。国道沿いにあったので、すぐに分かった。その名のとおりタクシー会社である。建物にスプレーで、「お遍路さんいらっしゃい・・・」というようなことが書いてある。私達が事務所で、「本日、接待を受けたいのですが。」とお願いすると、タクシー会社の横の建物の2階に通された。
先にひげ面のおじさんが来ていた。6畳が2間ほどある。本日は、一部屋を女性1人で使って、もう一部屋を男性5人で使うようになるという。ひげ面のおじさんは、長崎県出身で、遍路は今回が4回目と言っていた。
部屋を見渡すと、接待の御礼の御札がたくさん貼ってある。白以外に赤や緑、銀、金などの色もある。遍路回数によって色が分けているのだそうだ。一番、遍路回数が多いのは、錦色の札で、100回を越えると、この色の札になるそうだ。100回というと、年に2回やっても50年、年に3回やったとしても34年かかる。私達は、1回遍路するのに、3年がかりでやるのに、100回もやる人って一体どんな人だろうと思った。
大体、2回以上やる人にも何か理由がありそうだ。このおじさんは、何でだろうとも思ったが、今更ながら聞くことはしなかった。
徳島ラーメン
腹が減ったので、飲食店を探した。あまり動きまわるのは面倒くさいので、近くのガソリンスタンドの兄ちゃんに聞いたところ、丁度、ガソリンスタンドの正前のラーメン屋が美味いというので、そこに入った。この店こそ、私達が探していた個人でやっている徳島ラーメンの店である。迷うことなく、ラーメンを注文した。
15分ほど待って、でてきたラーメンは、今までに見たことのないようなラーメンであった。ドロッと茶色いこってりしたスープに太い麺。チャーシューには、薄切りの豚のバラ肉を使っている。トッピングは、葱と生卵とメンマの3種類。どんな味なのかと、ほおばる。今までに食べたことのないような味。でも、美味しい。こってりしていながらもしつこくないスープの味に太い麺がよく合う。チャーシューの味もメンマの味も良い。そして、もっともいけてると思ったのが、生卵だ。生卵がラーメンに入ることによって、味がよりマイルドになる。よく考えてるなと思った。このラーメンには、80点あげることにした。最近食べたラーメンの中では、ダントツに美味かった。徳島ラーメンを食えただけでも、ここに来た甲斐はある。
まだ、時間が早く、私達以外に客が来ていなかったので、店主としばらく世間話をしてから店をでた。美味いものを食ったので、幸せな気分になった。
再び栄タクシー
私達が戻ると、先ほどの坊さんと、気の弱そうな男の人と、女の人が加わっていた。気の弱そうな人は、富山県の出身、女性は東京の出身ということだった。坊さんは、私達と別れてから16番までまわってきたと言っていた。気の弱そうな人は、今回が初めての遍路で、女性は、既に全部回って、明日東京に帰る前にここに寄ったとのことだった。
皆、疲れた表情をしている。ゆっくり話をしたかったが、とりあえず、風呂にも入らなければならないし、コインランドリーで洗濯もしたいので、すぐにその場を後にした。
1時間ほどして戻ってくると、栄タクシーの社長が来て、皆と話していた。まずは、今回、接待を受けたことに対して、御礼を述べ、私達も話の輪に加わった。社長は、徳島県の人なのに関西弁を話し、顔は似てないが、明石屋さんまのようなしゃべりをする、大変面白い人だ。
寺の宗派の話、八十八ヵ所の寺の裏話、遍路さんの話など、自分の知らないことや興味深い話ばかりで、楽しかった。話の流れで、自分の職業を聞かれた時は、「しがない水道屋です。」と答えた。水道管をいつも抱えとるから、そんな太い腕になったのかと言われた。
また、遍路する理由を聞かれた時に、「何となく、面白そうだったから。」と答えたら、皆、飽きれたのか、そんな答えがでるとは予測していなかったのか、シーンと静まり返った。皆、それなりの理由があってやっているのだから、シーンとなるのも無理ないかもしれない。気まずいと思って、話題を変えて、その場を乗り切った。
社長が退席してから、皆で写真を撮ることにした。坊さんは、一眼レフの高そうなカメラを持ってきていた。「お前、こんな重いのを持ち歩いていたのか!」と言ったら、「趣味ですから」と言っていた。
皆、それぞれのカメラで撮ったのだが、女性が撮ったデジカメの画像には、私と坊さんの間にくっきりと、人の顔のような白いかたまりが写っていた。おそらく、坊さんを頼ってきたのだと思われるが、気持ち悪かった。自分のカメラにも写ってなければいいがとも思った。
私は、こういう非現実的なことは、嫌いではないし、興味もあるが、自分には起こって欲しくない。そういうのに興味があるくせに、極度の怖がりでもあるからだ。坊さんも、そういうのに興味があるくせに、怖がりだと言っていた。他の者が寝てからも、坊さんと2人でいろいろと話をした。
高野山のことも、いろいろと聞いた。興味深いことばかりだった。違う職業の人と話をするのは面白い。話からだけでも、自分の知らない世界を垣間見れるような気がする。
私は、漢塾の話や、自分の周りのすごい人の自慢ばかりしていたように思う。もっと話していたかったが、翌日が早いので、話もそこそこに寝ることにした。布団に入ったのはものの、皆のいびきで、なかなか眠りにつけなかった。疲れ過ぎて、ハイになっているのも関係あるのかもしれない。
午前2時過ぎまでは、起きていたように思う。あまりにもたくさんのことがあった1日だった。
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