出雲國神仏霊場 自転車遍路(第一弾)一日目
- カテゴリ
- BICYCLE
- 開催日
- 2015年05月22日(金) ~ 2015年05月23日(土)
【プロローグ】
アホの末が体調が悪いと言う。肩が痛くなったり、いきなり気分が悪くなったりと。病院で診てもらっても原因が分からないと言う。この数ヶ月間は、そのような症状に悩まされていると言う。
本人は、真剣に悩んでいるようだが、私が判断するに、それは更年期障害ではないかと思う。男にも更年期障害はあるし、私達ももう40代半ばにかかろうとしているので、更年期障害になってもおかしくはない歳である。
でも、本人は違うと言う。原因が分からないので、神仏に頼むと言う。神も仏も信じないこいつが、神仏に頼むということは余程症状が酷いのだろう。
神仏に頼んでも、果たして効果があるか分からないが、それでも神仏に頼むと言う。それで、どこの神仏に頼むのかと思いきや、それは出雲大社の大国主命だと言う。
「えっ?出雲大社?」、アホの末に聞いて思わずそう言ってしまった。神仏に頼むのなら、地元の春日神社や、住吉神社など、地元に幾らでも神社仏閣はある。だのに、何故出雲大社に?と、思った。
日本でも有数の高名な神社だからか?それともパワースポットとして有名だからか?おそらく、そんなところだろうと思いながらも、それについて言及することはしなかった。
出雲大社の大国主命は、一般では“縁結び”の神様として知られており、良縁を求めて老若男女が多数訪れる神社である。だが、この神様は、そんなちっぽけで狭い定義に限定される神様ではない。
もし、神様の世界に序列があるとすれば、ここの神様は取締役である。「いきなりアポ無しで取締役のところへ行くのかよ。」という思いもあったが、もし、お会いして願いを聞いていただけるのであれば、その威力は絶大だ。行くだけの価値はある。
ここへ自転車で行くと言う。当初予定していた“しまなみ街道”を通って四国に渡るというプランを出雲大社をスタート、日御碕神社をゴールとする出雲之国20ヶ所巡礼にすると言う。そして今回の旅は、こいつの体力上の問題から出雲大社までだと言う。それについては、もうこいつの中では決定事項だった。
しまなみ街道を自転車で走ることを楽しみにしていた私にとっては、既に自転車で踏破したことのある出雲大社までのツーリングは魅力的なものではなかった。ただ、今回以降、何回かに分けて行う出雲大社以外の19寺社への巡礼は興味がある。だが、そんなことより何よりもこれは失われた心身の健康を取り戻したいアホの末が心より切望するものである。
故に、突然の行き先変更については、素直に納得出来た。もう“神仏にすがるしかない!”という、こいつの思いも尊重したいと思った。
今回の旅は、これまでとは目的が違う。今回は、神仏にお願いして失ったものを再び授けてもらうということが目的の旅だ。これまでのような興味本位で行う旅ではない。
また、これまでの旅は、私達二人が主役であったが、今回の主役はアホの末である。私は、こいつを傍で客観的に眺める脇役でしかない。
“変わりたい!”という目的があれば、必ずや人間は変われる。足掛け何年かに渡るこの旅を通して、こいつの人間としての変遷を観察しようと思っている。
【メシア】
旅に出るというのは良いものだ。日常から離れた非日常世界に身を置くことで、心身共にリセット出来る。自転車での旅は、四国八十八ヶ所巡礼以来、10年ぶりのことだ。期待は、いやがおうにも高まった。
8時30分に待ち合わせ場所の金谷のセブンイレブンへアホの末宅を経由して行く。奴はまだ来てなかった。奴とは、1ヶ月前に須佐までツーリングに行ったアホの末の元職場の後輩である。
私達二人がマウンテンバイクなのに対し、こいつはバリバリのロードバイクでの参加だった。私達が5㎞近く続く坂道に悪戦苦闘している最中に、同じ坂道をもう一往復半してもう一度走るという荒行を行った猛者である。
こいつが麓から2回頂上までを登り詰めるのと、私達がやっと頂上まで登り詰めるのがほぼ同じであった。しかも涼しい顔をしてそれをこなしていた。マシーンの性能の差はあれど、それは体力と技術の成せる業であった。
それ以来、私は尊敬の念と変わり者との意味をこめてこいつを“御変り君”と呼ぶことにした。(以下、御変り君と記述)
御変り君は、予定時間ギリギリに現れた。今回は、ロードバイクでの参加ではなく、クロスバイクでの参加だった。ロードバイクは、後部に荷台がないからとのことで、荷台のあるクロスバイクにしたらしい。クロスバイクは、ロードバイクよりもポテンシャルでは劣るが、
それでも、これに乗った御変り君の能力は、私達の1.5倍を軽く超えるであろう。奴は、今回も何かやってくれそうな気がした。
実際に、奴はもうその何かをしでかしていた。何と!自宅のある山口市小郡から萩市までの約50㎞をクロスバイクで走ってきたのだ。
「はぁ??」である。
私は、「今日はこれから、少なくとも120~130㎞は走らなければならんのやど。そんなに体力を消耗してもいいんかい?」と言ってやると。
奴は、「丁度、体が温まって良かったです。」と、涼しい顔で返した。
奴は、強がりを言っているようには見えなかった。それが証拠に奴の顔にも体にも殆どと言って良いほど汗をかいた形跡が見受けられなかったのだ。勿論、奴の目に疲労は見えず、その目はこれから起こるであろう幾多の苦難(こいつには良事)を期待してかランランと輝いていた。
御変り君は、究極のポジティブ思考、究極の陽のかたまり、究極のバカである。人は何かを失うと、それを持っている人のところへ引き寄せられるという。もしくは、失ったものを与えてくれる人を引き寄せるとも。
御変り君は、アホの末が失ったものを全て持っていた。しかも、奴の持っているもののどれもが究極まで研ぎ澄まされている。アホの末は、無意識のうちに御変り君を引き寄せたのだろう。本人は、それを分かってはいなかったが、客観的にこいつを観察する私には、それが瞬時に分かった。しかし、アホの末の近くにこんなアメージングな奴がいたとは。久々のビッグな驚きであった。
御変り君は、アホの末を神様のところまで案内する神の御使いであり、救世主である。そう、高野山の案内犬ゴンのような存在だ。【詳しくは、四国八十八ヶ所遍路 高野山奥の院(結願報告・お礼参り)を参照】
“こいつが同行するなら、道中は安全だ!”と、高野山の案内犬ゴンの物語を知っていた私は、そう確信を持った。
【お勤め】
コンビニで胃袋を満たしてから、私達は久々の自転車旅行に旅立った。
天気は快晴、風はそよ風で湿度も低く、絶好の自転車日和であった。先頭はアホの末、真ん中は私、最後尾は御変り君の順番でテンポ良く進んで行った。
市内を抜け、越ヶ浜を抜け、大井を抜け、隣町の阿武町の奈古に入った時に、先頭を行くアホの末が、左側にあるスーパーマーケットに舵を切った。
買い物でもするのかと思いきや違った。朝のお勤めを行うためだったのだ。店舗に入ったアホの末は、すぐに出て来たが、顔色が冴えなかった。
どうやら“出”が芳しくなかったようなのだ。アホの末は、このままここを発つことは出来ないと言う。思いを残したまま行きたくないと言う。後ろ髪を引かれる思いをするくらいなら、ここに留まろうとも言う。
先を急ぎたかったが、今回はアホの末が主役であるため、こいつの言うことを尊重することにした。スーパーの駐車場で時間を無駄に浪費すること30分。これが3度目の正直か、店舗から出てきたアホの末は、憑き物が落ちたかのようなスッキリとした顔をしていた。
その顔は、スッキリし過ぎていて、もう旅を終えて目的を達成したのではないかと見間違うほどであった。
ともあれ、私達はアホの末が30分という短い時間で復活してくれたことを素直に喜んだ。
【ルート変更】
「さあ、これから出発しようか!」という時にアホの末が言った。
「大刈トンネルは通らんからの。」と。
それを聞いた私は、「はぁ?」と、漏らした。
「大刈トンネルを通らんのやったら、もしかすると旧道を通るんか?」と、詰め寄る。
「そうよ。」と、アホの末。
「そんな遠回りをせんと、真っ直ぐ行ってトンネルを通ろうやぁ」と、私。
「トンネルは危ないから、迂回した方がええと思う!」と、アホの末。
そんな、やりとりをしばらく繰り返していた。
この辺りの地理に疎い御変り君は、私達のやりとりを興味無さそうに見ていた。
大刈トンネルは阿武町と萩市須佐を結ぶ全長1,471mの長いトンネルである。歩道はあるにはあるが、非常に狭く自転車では走り辛い。そのため、自転車で走るには、車道を走らざるを得なくなる。車道も狭く、すぐ横をクルマがビュンビュン通るため、危険極まりない。
また、トンネル内には排気ガスも充満しており、環境的には劣悪だ。
私だって出来れば、そんな大刈トンネルを通りたくはない。しかしだ。旧道を通ると5~6㎞は遠回りになるのである。しかも、御変り君が“お代わり”した、あの急傾斜を登る必要に迫られるのだ。
危険を冒してショートカットするのか。それとも、遠回りして時間と体力を消耗する安全策を取るのか。その2つを秤にかけた私の結論は、前者だった。
1日目になるべく多くの距離を稼ぐには、“時間と体力を浪費するわけにはいかない。”という考えからの結論であった。
勿論、私だって危険を冒したくはなかった。だが、御変わり君が一緒ということで、“気を付けて行けば大丈夫”と、安心していた。
なるべく主役であるアホの末の好きなようにやらせてやりたかったが、これだけは譲れなかった。
説得の結果、アホの末も自分の考えていたルートを変更することに同意してくれた。こいつも危険ながらも楽な方が良いと思ったのだろう。この時のこいつの気力・体力を考慮すると、こいつの判断は英断だったと言える。
それにしても、これまでなら大刈トンネルくらいの小さいリスクなら平気で犯していたこいつが、それを避け、安全策に走ろうとするとは。
この時私は、こいつがいつもの状態ではないことをようやく悟ったのである。
【お陰様】
スーパーマーケットを後にした私達は、軽快にペダルを踏み続けた。奈古を抜け、木与を抜け、宇田の旧道入口を通過。私達は、これで旧道に入ることは出来ないことを自覚し、一路、大刈トンネルに急いだ。
惣郷という地区に入ってからは、緩やかな上り坂が続く。「ハァ、ハァ~。」と、息を切らせながらもペダルを踏む足を休めることはしない。この先に続く、小刈・大刈トンネルを通過するまでは、休憩すまいと決めていたからである。
前を行くアホの末は、私よりも吐く息が荒かった。それも無理は無い。この久々の自転車旅行までに殆ど自転車をこぐトレーニングをしていなかったのだから。こいつを取り巻く状況が、それをさせなかったとも言える。
そのような鈍った体にムチを打ってまで、この過酷な出雲行きを決行するとは。それならば、体調が整うまで開催日を延期すれば良いのにと思ったが、そんな悠長なことをしてはいられなかったのだろう。
“何が何でもなるべく早く出雲大社へ行く!”という覚悟をこいつの脂がのって丸くなった背中に見た。こんな覚悟を決めたこいつを見たのは、初めてのことだった。
フラフラと弱々しいアホの末とは対照的に御変わり君は余裕であった。私が時折振り返って目が合うと、常に笑顔を返してくるのだ。
「俺らに付いて行くのは、物足りんやろう。先に行って、適当なとこで待っとってええよ。」
と言うと、「いえいえ、今回は楽しむことが第一ですから。」と、御変り君。
御変り君は、かなり力をセーブしているように見えた。御変り君は私達に気を遣い、自分のペースで行くことよりも私達と一緒に行くことを優先しているようだった。ただ、それでも十分に楽しんでいるように見えた。
御代り君は、体力的に余裕があるから、楽しそうにしているのではない。生まれつきこうなのだ。どんなことでも純粋に楽しめる子供のような心を持っている。何ものにも縛られない自由な心の持ち主でもある。今の世の中、こんな奴はなかなかいない。貴重な絶滅危惧種である。
陽の気のかたまりである御代り君の笑顔を見ると、私も癒されるような気がした。
こいつが最後尾にいるおかげで、何故か安心だった。「それは、御変り君が、私達を後ろから見守っているからだ。」と、何故かそうも思った。
アホの末はどう思ったかは分からないが、この時の私の心の平和は、御変り君のお陰であることは間違いなかった。
【諭し】
緩やかな上り坂を登って行くと、目の前にトンネルが現れた。大刈トンネルではない。それよりは、随分と短めの小刈トンネルであった。
それを難なく超え、少し登ると今度こそ本物の大刈トンネルが現れた。いつもはクルマで通る長いだけの何てことのないトンネルなのだが。自転車で通るには危険なトンネルなので、入る前には身構えた。
目の前には、車道と車道より一段高くなった路肩がどんどん迫ってくる。私達は迷うことなく、一段高くなった路肩に乗り上げた。
路肩の幅は、トンネル壁面から1mもないように見えた。私達の肩幅よりは広いが、自転車で走るには十分な幅ではなかった。おまけに何mかおきにデリネーターがトンネル壁面より80㎝のところに設置してあった。壁とデリネーターの間は、自転車に乗ってギリギリ通れるくらいの幅のため、そこを通る時は、かなりスピードダウンするなど細心の注意を必要とした。
少し走っては、止まりそうになるぐらいスピードダウンし、また少し走り、またスピードダウン・・・と、それを延々と繰り返す必要に迫られた。
こんなチマチマしたことは、性に合わないが、それでも車道を走って大型車に引っ掛けられそうになるようなリスクを犯すよりは、この方が遥かにマシであった。
前を走るアホの末にも、私にも後ろを振り返る余裕なんてなかった。ただ、私は後ろにいる御変り君は多分、この私達にとっては面白くない状況を楽しんでいるに違いないと思った。
御変り君は、究極のバカである。我々のような常識人にとっては、恐ろしく迷惑でしかない状況でも、心の底から楽しんでしまうのだ。
こいつなら、戦場に放り込まれても心底楽しんでしまうだろう。それくらいのバカなのだ。
それが証拠に、トンネル内にうるさく響くクルマのエンジン・排気音に紛れて、時おり御変り君の笑い声が聞こえたような気がした。
幻聴だったかもしれないが、私には聞こえたような気がしたのだ。私にとっては、その笑い声は、天使の笑い声のように聞こえた。
そりゃそうだ。御変り君は、私達を出雲の神様のところまで導く神の御使いなのだから。
神の御使いである御変り君が、後ろにいるということを再自覚したおかげで、私はイライラした気持ちを払拭することが出来た。御変り君のように楽しむことは無理でも、目の前の今やるべきことに専念しようと思った。
専念することが出来たためか、約1.5㎞の長丁場は、いつの間にか終わってしまっていた。専念することが出来たのは、アホの末も同じだ。そのため、お互いに肩透かしを喰らったような思いでいた。
敵は、思ったよりも大したことなかった。でも、もしもネガティブな思いを持ち続けていたら、そうはならなかっただろう。
御変り君みたいに究極のバカにはなりたくないが、時としてバカになるのは必要である。バカになるということは、価値観を変えるということだ。価値観を変えれば世界が変わる。世界が変われば、現実も結果も変わる。
御変り君は、大切なことを大刈トンネルとの闘いを通して、無言で私達に諭したのである。
【習性】
大刈トンネルを抜け、須佐の町中に入った私達は、あるスーパーで休憩を取ることとなった。
昼飯は、島根県の益田市内に入ってからと考えていたので、私は軽く胃袋の中に何かを入れておくことにした。須佐から益田市内までは20㎞ぐらいあり、そこへ行くまでは田万川の道の駅周辺以外は店が無いことを分かっていたからだ。
須佐の町中は、萩市内から約35㎞ぐらいのところに位置する。35㎞も走れば、それなりに来た気にもなる。須佐まで走ってようやく今、自分達が自転車旅行をやっているのだという実感が湧いた。
私は、購入した菓子パンを頬張りながら、最後に決行した四国八十八ヶ所巡礼に思いを馳せていた。あの時、私達は、今よりも10歳も若く、また体力もあった。アホの末も、今よりもっと活き活きとしていた。八十八ヶ所霊場を巡礼するのは、信仰心の無い私達にとっても貴重な経験だった。キツイ道程を文句を言いながらも、淡々とこなした。
今と違うことはたくさんあったが、決定的に違うのは何かを考えてみた。しばらく考えてみてようやくそれが分かった。
それは、あの頃ほど純粋に物事を楽しんでなかったということである。それは、心身が不調のアホの末だけに留まらない。私も同じだった。
あの頃より賢くなったとか、物事を現実的に見過ぎるようになったとか、原因はいろいろと考えられた。その中でも、私が“これだ!”と思ったのが、感謝の気持ちが欠如していたということである。
何でも“出来て当然”、“あって当然”と思っていては感謝の気持ちは湧かない。例えば、今回の旅だが、これも様々な要素が絡み合って決行出来ている。
まずは、旅行に行くには金が要る。お金は仕事があるから稼げるから、仕事があることに感謝しなければならない。次に自転車で旅行に行くには、健康でなければならないから、健康であることに感謝だ。一人で旅に出るのは寂しいので、一緒に行ってくれる仲間にも感謝、・・・というように、意識して考えれば、感謝すべきことがどんどん出てくる。
それだけの感謝の気持ちが湧いて出れば、どんなに肉体的には酷な旅であっても楽しくないはずがないのだ。また、感謝の気持ちが多いほど、“楽しい”という気持ちも大きくなる。
アホの末がどう思っていたかは分からないが、私にそれが欠如していたことは間違いなかった。何故なら、この時まで何かの際には「面倒臭いけど行くかぁ!」とか、「面倒臭いけど・・・」というように、“面倒臭い”というネガティブな単語を連発していたからだ。
感謝の気持ちがあれば、そんなネガティブな言葉は口から出るはずがない。それが無いから出る言葉なのだ。
それを聞いて、神の御使いである御変り君はどう思ったことだろう。
私は、自分の行いを恥じ、猛省した。“もうこのようなネガティブな言葉は口に出すまい!”と、心に決めた。
だが、習性というものはそう簡単に治るものではないもの。休憩を終え、出発する時には、
「面倒臭いけど行くかぁ!」と、堂々と声に出していた。
【五観の偈】
田万川に入ってから、前を走るアホの末がいきなり道の駅に舵を切った。便所休憩かと思いきや違った。ランチを食うために入ったようだった。
須佐から、田万川の道の駅までは、20数分しか経ってなかった。私は、益田市内でランチをとると思っていたから、間食をしたのに。間食をしてない二人と違い、私は腹が減ってなかった。
「益田で食うんやったんやないんか?」と、声に出そうかと思ったが、やめた。今回の旅の主役はアホの末であるから、こいつのやることにあまり細かく口を出すまいと、決めていたためだ。
よって、素直にこいつに従うことにした。店選びも、こいつに任せた。渋々と店の暖簾を潜ると、店内は以外にも客が多かった。
「しめたっ!」と思った。客が多ければ、注文の品が出てくるのに時間がかかる。時間がかかれば少しは腹も減るのではないかと思ったからだ。
ところがである。なかなか手際の良い店なのか、注文の品が出てくるのは意外にも早かった。腹が減っていれば実に有り難いことなのだが、この時の私にとっては迷惑なことだった。
また、腹が減ってないことを差し引いても、ここの店の味は私を満足させるには程遠いものだった。それは、アホの末に聞いても同じだった。
そんな私達を尻目に、御変り君は旨そうに来たものを頬張っていた。食べる時もいつものニコニコ顔だ。
禅宗には、五観の偈という食事の前に唱える偈文がある。この偈文は、主に食事を作ってくれた人、食材を調達してくれた人への感謝の気持ちなどを綴った文である。
御変り君の行為は、この偈文の内容を地で行っていると思った。本人は意識して行っているわけではない。自然と身についているものなのだ。
さすがは、神の御使いである。ここでも、その行動は私を唸らせた。
“感謝の気持ちを持って食えば、どんなものでも旨く食べられるはず。”この思いを旨に
私も感謝の気持ちを持って食事を頬張ったが、味が変わることはなかった。なので、やむなく感謝の気持ちを持って胃の中に流し込んだ。
やはり、凡人の私には、神の御使いである御変り君の真似は無理であった。
【改心】
午後になり、気温はますます上がった。ただ、気温が上がったとはいえ、湿度は少なく、ポカポカ陽気の気持ち良さだった。空は、相変わらず雲一つ無い青空だった。
この抜群のこの日の天気とは対照的に、私の気分は冴えなかった。この時の私は急性の鼻炎と中耳炎を患っていたからである。そのため、鼻は鼻水で詰まって嗅覚が鈍く、耳は両方とも聞こえ難い状態になっていた。
嗅覚が鈍くては、潮の香りや草木の匂いがよく嗅ぎ取れない。聴覚が鈍っては、風のざわめきや、波の音がよく聞き取れない。この時の私は、鼻にはマスクをして、耳には耳栓をしているような状態だった。
五感のうちの二感を奪われた状態でのツーリングは、誰だって楽しくはないはずだ。ただ、“これが、御変り君ならどうだろう?”と、私は走りながら考えてみた。
だが、どう考えても結論は同じだった。
こいつが、変わるはずはないのだ。究極のポジティブ思考である御変り君は、このような状態でも、いつもと変わらずニコニコしているに違いない。
そう思った私は、考え方を修正した。残った三感のうちの視覚をフル活用することにしたのだ。視覚は、人間にとって最大の感覚器官である。これが働かないと、私達は何も出来ないと言っても過言ではない。
とにかく、目の前に現れる様々な景色をよく見て、心に残すことに専念した。五感で感じたことはどれも心に残すことが出来るが、見たことは更にストレートに心に残すことが出来るから簡単なことだった。
私はハンデなど背負って無かった。他の感覚器官の働きが鈍い分、残った感覚器官の働きが鋭くなるのだから。
おかげで、私はこれまで百回以上、見飽きるほど見てきた目の前の景色を、これまでのどの記憶よりも鮮明に美しく記憶に留めることが出来たのである。
これも、御変り君のおかげだった。
【クールダウン】
私達は、山口県と島根県の県境を超え、ついに島根県に突入した。飯浦、戸田小浜という地区を抜けると、左手には海岸が広がった。
三里ヶ浜海岸~持石海岸と続く長い海岸だ。萩の海岸のように島が点在しておらず、遥か先まで大海原が続くシンプルな景色だ。ただ、そのシンプルな景色を眺めていると、己の小ささがやけに良く分かった。
ずっと見ていたら吸い込まれそうな景色だった。吸い込まれたら嫌なので、そこそこに見るのをやめた。
長い海岸を抜けると、益田市内に入った、すぐ行ったところでアホの末が右に舵を切った。
どうやらスーパーマーケットで休憩をするらしかった。昼飯を食ったところからは、15㎞ぐらいは走っていたので、休憩するには良いタイミングだった。
昼飯を食ったばかりなので、ただ休憩するだけかと思いきや。アホの末曰く、ここではアイチュを食うらしい。そんなに汗もかいてないし、飯も食ったばかりでアイチュを欲しくはなかったが、主役に従うことにした。
欲しくもないアイチュを食って、一服をしたら出発をするかと思いきや、こいつの腰が上がらない。
「行こうぜ!」と言っても、「まあ、待て!」と言って動こうとしない。「疲れたんか?」と言うと、「うん。」と一言。
確かに、ここへ来るまでに「ケツが痛ぇ。」やら、「面倒臭ぇけど行くか!」とか、「はぁ!ふぅ!」やら、私と同じくネガティブな言葉を吐きまくっていたから、疲れていたのは分かっていた。
しかし、ここまで来て疲れがかなり溜まってきたのか、その表情には余裕が無かった。先を急ぎたいけど、主役であるこいつの意思を尊重しようと思い、こいつが腰を上げるまで待つことにした。
どれくらい待たなければならないのかと思いきや、そう待つことにはならなかった。あまり長く休憩すると、本当に動けなくなると思ったのか、誰に言われるともなくアホの末自ら重い腰を上げたのである。
その目に精気は無かった。死んだ鯖の目をしていた。対照的に御変り君の目はランランと輝いていた。この二人の違いが面白かった。
萩市のスタート地点からここまで約60㎞。出雲大社までは、萩市のスタート地点から200㎞の距離があるので、残りは後140㎞ほど。
2日かけて出雲大社まで行くとはいえ、初日に半分以上は走っておきたいと思った。翌日に半分以上の距離を残しておくと、アホの末の消耗度によっては、出雲大社まで辿り着けないという可能性も出てくるからだ。
この時のアホの末の状態は、これを達成するのが限りなく難しくなったことを示唆していた。これからどこでこの日の打ち止めをするかは、全てアホの末次第だった。
【変革】
前を走るアホの末には、力を感じることが出来なかった。フラフラとまではならないながらも、ペダルにしっかりと足が着いてなかった。運動不足からくる体力不足と心身の不調から、それは仕方がないことだった。
「さあ、果たしてどこまでこいつが行けるか。」私は、こいつがいつ止まっても良いように、心の準備はしていた。
益田市内を抜け、郊外に出る。5月の美しい景色もこいつの目には入ってなかったはずだ。小学校近くの上り坂では、二人の子供達が追っかけてきた。面白いハプニングだったが、こいつは、これに目もくれなかった。
それだけ余裕が無かったということだ。
ただ、感心なのは、歩みを止めなかったということである。どんなにスピードがトロトロになっても、こいつはペダルを踏み続けた。こいつが“弱った”、“衰えた”とはいえ、ラグビーと筋トレで鍛えた気力と体力の貯金はまだまだ残っていた。
高校の頃、ラグビーで己をとことん追い込んだ我々は、現在でもかなりのレベルで己を追い込むことが出来る。さすがに死の一歩手前までは無理だが、少々の無理は出来る。
この時、私は気付いた。「こいつを心身の不調に追い込んだのは、誰でもない。こいつ自身だったのだ。」と。要は、己を追い込み過ぎなのである。どこまでなら追い込んでも良いのか、そのボーダーが分かってないのだ。ボーダーが分かってないのは、私も同じだし、そこまで追い込まなければならない理由があったのも分かる。
だが、ボーダーを越えてしまうと、自分が壊れてしまう。究極の追い込みの到達地が“死”であることを考えれば、それも納得だろう。
私達は、40歳をとうに超えた。既に人生の折り返し地点を通過している。家族を養う責任のある大人でもある。故に、これまで生きてきた中で経験した様々なことを通して、“自分には何が出来て、何が出来ないか”ということを知らなければならない。それを知ることは、己を知るということであり、己を知ることは自分の限界=ボーダーを知るということでもある。
アホの末も私も、もうそれを知っていなければならないのに、これまでそれを知ることをする作業を怠っていた。恥ずかしいことである。
限界を知らないから無理をする。無理をするから壊れてしまう。
勿論、鍛錬して限界値を引き上げることも可能かもしれないが、それには多大な労力を要するようになる。歳を取った我々が進んでやるべきことではない。
若い頃のように“何でも出来る!”と思うのは傲慢である。己を知り、やるべきことはやりながらも無理と思うことからは手を引く。つまり、言葉は悪いが“逃げる”ということがこいつには必要なのだ。そして勿論、私にも。
こいつの性格を考えると、逃げられなかったのだろう。納得は出来る。私も同じことをしただろうし、同じようになったかもしれない。
故に思うのは。為るべくして為ったということだ。こいつの人生の中に予め用意されていたと言ってもいい。現在の状況は、こいつにとって必要なことだったのだ。
「変われ!」と言われている。それは、こいつを通して私にも言われている。
変わらなければ、今の環境を逃れたとしても違う環境でまた同じことを繰り返す。そうなれば、人生はドン詰りである。その先はない。
私達に必要なのは、心の柔軟さだ。流れる雲や水のようなものだ。心の柔軟さがあれば、己が分かる。己が分かったということは、変わったという証だ。
もう、ただ闇雲に根性だけで前に進むのはダメなのだ。
もしかしたらこいつもそれを分かっているのかもしれないが。まさか、こいつを通して客観者のつもりでいた私まで悟らされるとは。
今回の旅は、アホの末だけでなく私にも必要なものであった。このことで一躍、私も客観者から準主役に踊り出たのである。
【奮闘】
アホの末はペダルを踏み続けた。その足が止まる気配はなかった。市街地を過ぎ、山の中に入り、上り坂が多くなっても、走り続けた。
普通に走ってもキツい上り坂をこいつの現在の体調で登るというのは、相当ヤバいくらいキツいことは容易に想像出来た。それが証拠に、こいつから5~6m後ろにいても、吐く息が荒いことが聞きとれた。
アホの末は、時に立ちこぎをしたり、時にハンドルを左右に振るなどしたりして、登りやすくするための工夫を凝らしていた。
動かない体にかなり鞭を打っていたようで、時折フラつくのが目についた。こいつも、上り坂の途中で止まっては、気持ちが途切れると思ったのだろう。こいつの後姿からは、“何が何でも坂の頂上まで登り詰めてやろう。”という、決心が見てとれた。
“お見事!”と、思ってやりたいところだったが、そう思うのを差し控えた。
これを遡ること1ヵ月前に、このメンツで須佐まで男命イカ定食を目的としたツーリングを行った。その時も心身の不調から、このような感じだった。
そのことから、“自分の今の体力の状態が分かって、しかも1ヵ月も時間があったのなら、少しくらい自転車に乗っておけよ!”と思ったためだ。自転車に乗らずとも、2~3㎞の距離を何回か走っておくだけでも、体力増強には役立ったことだろう。
“それをしなかったのはこいつの怠慢だ!”と思うも、“あ、でもやる気になるような状況ではなかったんだな!”と思い改め、やはり“お見事!”と思うことにした。
私の思いとは関係なくアホの末は、走り続けた。上りと下りを繰り返し、長い長い上り坂の頂上に辿り着くことが出来た。
自転車を降りた瞬間、アホの末は歩道に大の字になった。既に、アイチュ休憩をしたスーパーを出てから1時間30分の時間が経過していた。
【試練】
久々の休憩にも関わらず、私はソワソワと落ち着かなかった。本格的に腹が痛くなったというわけでもないのだが、その予兆というようなものを下腹部に感じていたのだ。
“これは先に行っておいた方が良いかも!”と思った私は、二人に「腹が痛いから先に行っておくの。」と言い残し、先に出発した。
行き先については、既に見当をつけていた。旧三隅町の道の駅“ゆうひパーク三隅”である。
私の予感は当った。出発して間もなく、急転直下の如く奴が下腹部から肛門に近いところまで降りてきたのだ。凄まじい便意であった。
自転車のペダルを踏む度にその振動が便意をさらに増長させる。また、上り坂を登るには、力を込めてペダルを踏まなければならないが、下半身に力を込めるのと奴を出す時の力の込め方が同じなので、ペダルを踏むと思いっきり奴が飛び出そうになる。
そのため、上り坂では自転車を降りて、自転車を押して走った。上り坂では自転車を押して、下り坂では乗ってということを何度か繰り返した。
しかし、それも限界が来た。もうどうにも我慢ならなくなったのだ。この時私はトイレットペーパーを持参してはなかったが、山の繁みに入って奴とお別れしようと考えていた。ケツなんて草か葉っぱで吹けば良い。奴が肛門から顔を出すよりはましだと思った。
しかしである。“道の駅”まで500mと書かれてある看板を見て考えが変わった。“それくらいならもつかも!”と、思ったのである。
道の駅までのラスト500mは上り坂だ。しかも、“もう走る振動でも奴が出てきそうだ。”と、いうことで、自転車のギアを力を使わないで済む軽めのギアにし、ペダルを高速で踏み続けて走った。もう、これしか方法は残されてなかった。
私は、殆ど下を向いたまま、ペダルを踏み続けた。多分、人生で一番速く上り坂を登ったのではないかと思うくらい、そのスピードは速かった。
猛烈な便意と極限状態まで上がった心拍数により、意識が朦朧とする中、ついに道の駅が目前に姿を現した。
あと100m、あと50m、あと・・・と、1秒でも早く到着するのを心底願った。その願いに偽りはなかった。マジ度100%のピュアな願いだった。
幸いにも道の駅の手前側に厠はあった。厠の前に自転車を放り投げると、私は厠へ飛び込んだ。これまた幸いにも大の方が空いていた。便座に座ると同時に奴は出て来た。おそらく肛門の手前5㎜のところまで奴は来ていたに違いなかった。
奴との生きるか死ぬかの激闘を勝利で終え、力を使い尽くして放心状態となった私の心の中は、感謝の気持ちで満たされていた。
「神様、ありがとう!」と。
これも、私に感謝の気持ちを持たせるための試練に違いなかった。
【雲水】
厠から出て、道の駅の店舗の方へ行くと、二人が私を待っていた。いや、正確に言うともう一人はくたばっていたと表現するのが適当であろう。ここでも大の字になっていた。
この道の駅は、萩市のスタート地点から85㎞ほど。この日のノルマを達成するには、まだ20㎞ほど足りなかった。
大の字にヘバっているアホの末を見ると、「こいつにそんな余力があるんかいな。」と、思いながらも、アホの末が起き上がるのを待った。
「浜田市内ぐらいまで行けるか?」と聞くと、「行けるやろう。」とアホの末。アホの末の声は弱々しく、顔には疲れがハッキリと見てとれた。
私は、「行けるところまで行ければ良い。」ぐらいに思った。ノルマ達成は、不可能だろうとも思った。
午後5時を過ぎた頃にアホの末は、ムッくと起き上がった。どうやら出発する気になったようだった。
「面倒臭ぇけど行くかぁ。」と、相も変わらずネガティブな言葉を吐き、道の駅を後にしたのである。
季節は初夏で、日が長くなっているとはいえ、徐々に夕闇が迫ってきているのが分かった。
のらりくらり自転車で走るあての無い彷徨。翌日は出雲大社という目的地があるから別として、あてもなく走るのは四国八十八ヶ所遍路以来のことだった。
当時は、あてもなく走ることに不安を感じることもあった。でも、今回は違った。10年という年月が、私を風情の分かる大人に成長させたのだろう。あてもなく走るのも良いものだと思ったのだ。雲や水のように自由に流れ、雲や水のように自由なところへ行く。この時の私達は、正に雲水だった。
“良いものだ。”と思ったからか、いつの間にか日常の煩わしいことからは、完全に開放されていた。
【悟り】
アホの末の奮闘により、私達は浜田市内に入ることが出来た。市内のドラッグストアで休憩をした時のことだ。
鼻と耳の状態が更に酷くなっていることに気付いたのである。嗅覚も聴覚も殆ど機能しなくなっていたのだ。鼻は匂わず、耳は籠ったように聞こえる。
おやつを食べても味が良く分からず、会話をしても集中して聞きとらなければならないため、余計に疲れるという状態だった。
このことを忘れようと努めてきたのだが、症状が酷くなると、どうしても気にしてしまう。
普段は当然のようにあるものが無いと、非常に困る、気になるのだ。この時私は気付いた。凡人は失ってようやく失ったものの尊さを分かるのだと。この時の私が、正にそれであった。そして、自分に足らないものを諭されているのだとも。
「味の良し悪しに関わらず、食べることが出来ることに感謝しろ。」、「人の話をよく聞け!」と言われているような気がした。
食べ物のことは、既に御変り君に諭されていたが、“人の話を聞く”ということは、生まれてこのかた諭されたことはなかった。
ただ、これまでの私の所業を思い返してみれば、確かにそう諭されるに該当することは多々あった。特に家庭内では。
気付かせるために、失わせるのである。気付かないのは傲慢だからだ。それに気付いたということは、傲慢さが幾らか削り取られたということであった。
失うことで得る悟りがあることを知った私は、“この日の晩飯を食う店は、アホの末に選ばせてやろう!”と、思った。“どんな不味い店を選んでも文句は言うまい!”とも思った。
そして、“旅から帰ったら耳鼻科に行こう!”とも決心した。
【続行】
萩市のスタート地点から、このドラッグストアまでは、90㎞以上の距離があった。半分までにはいかないが、それには近い距離だ。もう十分だと思った。
今回の自転車旅行には3日間使う予定であったから、無理に翌日に到着しなくとも最終日に到着すれば良いとも思った。そうすれば、無理をせずとも済む。
私は、アホの末に「今日は、この辺りにしとくか?」と言った。ところが、「いや、もうちょっと行こう。」と、アホの末。
もう殆ど体力は残ってないようだったが、走る気はあるようだった。こいつも出来るだけ距離を稼いでおきたかったようだった。誰が言わせたわけでもなく、アホの末自ら望んで発した言葉だったので、私は喜んでアホの末の言葉に甘えた。
ただし、どこまで行けるかはアホの末任せだった。
【腐った鯛】
市内の道は、アップダウンが激しかった。登っては下り、下っては登りというような。自動車では走り慣れた道ではあるから、これも予め分かっていたことだった。
市内を抜けた郊外には水族館のアクアスがあり、その少し先には石見海浜公園があることも分かっていた。そこまで行くことが出来たら、そこで野宿が出来る。
どうせなら、そこまで行きたいと思った。
そんな私の思いを知ってか知らずか、ガス欠寸前と思われたアホの末は、これまでよりも幾分走るペースが速くなっていた。多分、“あと少し!”と思ったから力が出たのかもしれない。おそらく体力は、まだ十分に走り続けられるほど残っていたに違いなかった。先に気力が萎えて体が動かなくなったから、バテたように見えたのかもしれなかった。
いくら運動不足とはいえ、ラグビーと筋トレで培った体力が全部消滅してしまうわけではない。何割か消滅してしまった現在でも普通の人よりは上だ。
“腐っても鯛”という諺がある。こいつを鯛に例えるのも難があるし、ラグビーをしていた頃が輝いていたとも言えない。だが、必死にペダルを踏む、この時のこいつは、弱り衰えた姿ながらも、全盛期に近い輝きを放っていた。
少なくとも私にはそう見えた。こいつは、腐っても一応は鯛だった。
【プラスα】
アホの末の頑張りもあって、私達はどうにか石見海浜公園に到着することが出来た。
アホの末は、くたばっていた。私は少し疲れていた。御変り君は、涼しい顔をしていた。まだまだ走り足りない感じだった。もう300㎞ぐらい走りたそうなオーラを漂わせていた。
時刻は、午後7時前。だいぶ陽が傾いていた。
「もう十分だ!」と思った。ここなら便所も水道もあるので野宿が出来る。おまけに萩市のスタート地点からここまでの距離は110㎞を越えていた。ノルマ達成である。
アホの末に「もうここでええやろう!」と言いかけた瞬間、あることに気付いて言うのを止めた。よく見渡すと、周りにはコンビニも食い物屋も何もなかったからだ。
こいつには、何も言うまいと決めていたが、飯を食うところが無いのでは、そうもいかない。やむなく、「せめて飯を食える店のある江津市内まで行かんか?」と、声に出した。
こいつも空腹には耐えられなかったのだろう。脂っこいものをガッつりといきたかったのだろう。予想外にも「おう。」と、言葉少なに返事をした。
“よっしゃあ!”と思うも、すぐにここを発つわけにはいかない。アホの末が回復してからのことだ。アホの末が休んでいる間、私達は海岸を散策することにした。
山陰の海岸は美しい。萩市のもそうなのだが、山陽側とは比べものにならないくらいに美しい。その要因として、工場が少ない、人が少ないということが挙げられる。裏を返せば、過疎地であり、産業が無いということだ。
何かを得れば何かを失い、何かを失えば何かを得る。世の中、そういうものだ。私は、山陰は今のままで良いと思った。自然の美しさは、何より勝るからだ。
そう思いながら沈む夕日を眺めていたら、アホの末から、「行こうかぁ。」と、ようやく声がかかった。
暗い夜道は危険がいっぱいである。私達は、完全に陽が落ちるまでに市内に着く必要があったため、急いで自転車にまたがった。
私達は、ジューシーで脂っこい食い物を求め、公園を後にした。後ろからは凄まじい速さで暗闇が迫っていた。
【一蹴】
アホの末が頑張ったおかげで、完全に陽が落ちてからしばらくして江津市内に着いた。
私達は、まず市内のホームセンターにて、蚊帳用の紐を購入した。蚊帳を吊るすのに必要だからだ。
ホームセンターから出た時に、私は考えていた。“何を食おうか?”と。“何を食おうか?”と思いながらも結論は出ていた。“中華料理が食いたい!”と。中華料理屋でチャーハン大盛と餃子とラーメンと。何が食いたいかも決まっていた。
それをアホの末にアピールしたかった。だが、今回の旅の主役はこいつである。主役であるこいつのやることには口を出すまいと決めていたため、遠まわしにアピールすることにした。
「旨い中華料理屋が、もう少し行ったらあると聞いたんやけど。」
「ええど。」と、言うかと思いきや違った。「もうちょっと行ったらトンカツ屋があるから、そこにしよう。」と、アホの末。
残念ながら、私の希望は見事に一蹴されてしまった。私達の食いたかったものは、ジューシーで脂っこいものということは共通していても、同じものではなかったのだ。
私は、主役の言うことに「おお、そうか。」と言い、素直に従った。
トンカツも好きであるから、まあ問題はなかった。
【学び】
件のトンカツ屋は、私達の進行方向の左手にあった。
灯りに吸い寄せられる蛾のように、トンカツ屋の店の中に吸い込まれて行くと、店内には私達以外に誰も客がいなかった。時刻は午後7時20分。バリバリの晩飯時だ。
だのに何故?
閑散とした店内には私達の声だけが響き渡る。遮るものが何もないだけに、その声はよく響いた。
“やはり中華料理屋がいい。”と思った。「やっぱ、他の店に行かんか・・」と、言いかけた時だ。店員のおばちゃんが出てきたのである。店内に大きく響いた声を、客が来るのを網を張って待っていた店員が聞き逃す訳がなかった。
「どうぞ!どうぞ!」と言われて、奥の座敷に通された。やはりここにも客はいなかった。
店から出たかったが、店内の奥深くまで拉致られた以上、脱出不可能だった。そのため、やむなくこの店で食う覚悟を決めた。
このトンカツ屋は、私の嫌いなチェーン店だった。個人営業の店が好きな私にとっては、このことも不安要素になった。
チェーン店特有の派手でメニュー数の多いメニュー表から、ロースかつ定食を選び、注文の品が出て来るのを待った。
15分ほど待って出てきた注文の品を食った感想は、無かった。“無かった”というのは、味が分からなかったためである。鼻が殆ど利かない状態では、何を食っても味は同じだ。
厚くて四角いトンカツは、もし鼻が利いていたら、そこそこの味に感じられたのかもしれないが。
御変り君はといえば、相変わらずニコニコ顔であった。何を食ってもこの顔である。この顔を見ていると、こちらまで旨いものを食っていると錯覚してしまう。それに対して、主役のアホの末はというと、「大したことない。」の一言だ。
こいつが、「これは旨い!」と言うのを私は聞いたことがない。大概、「まずい!」か「大したことない。」かの二言である。
ここに御変り君とアホの末の違いが大きく見てとれた。何でも旨いと言って食う人は幸せだ。逆に、何でも不味いという人は不幸せだ。食い物については、私もアホの末寄りではあるが、私達のような人種は、自ら幸せを放棄している。
放棄した結果が、各々の今の酷な状況を作り出しているのだ。
御変り君のような究極のポジティブ思考にはなれない。でも、今回、こいつと一緒出来て良かったと思った。こいつが居なければ、私がこのようなことを意識することもなかったであろうから。
【リサーチ】
とりあえず胃袋を満たすことが出来た私達がすべきことは、この日の野宿場所のリサーチであった。
“リサーチは飯屋で行うものである。”というのが、我々のリサーチの極意である。四国八十八ヶ所遍路の時もそうだった。そして、今回も例に倣い、店のおばさんに野宿場所について聞いた。
「この辺りに野宿出来そうな公園は無いですかぁ?」と。
おばさんは、少し考えて「市民球場ならあるよ。」と答えた。
それを聞いた御変り君は、すぐさま手持ちのスマホで場所を検索した。“市民球場”というのは、“江津中央公園”のことであった。
総合公園とも言うべき大きい公園で、おばさんの言う市民球場もその中にあった。
江津中央公園は、このトンカツ屋からそう離れてはなかった。おまけに場所の確認もスマホでバッチリだった。
これで、この日の仕事は終わったも同然だと思った。少なくとも江津中央公園に向かうまでは。
【一仕事】
トンカツ屋を出た私達は、近くのスーパーで、夜食と朝食を購入し、江津中央公園へ向かった。
当初は、江津中央公園までは“少し登るくらいだろう。”と思っていた。でも違った。ずっと登り続けるのである。しかも上り坂の傾斜はかなり急なものであった。
もう汗はかきたくなかった。食ったばかりで腹もタッポン、タッポンしている。やる気は全くなかった。
前を行くアホの末は、殆ど下を向いてペダルを踏んでいた。体力はともかく、気力は限界に近いはずだった。アホの末の自転車は、前に進んでなかった。その場に止まって懸命にもがいているように見えた。
やむなく、私と御変り君は、アホの末を抜き去った。止まったようなスピードで付いて行くよりは、先に行く方が遥かに楽だったからだ。
“先に行って待っていよう。”と思った。お互いに行くべき場所は分かっているため、先に行っても問題は無かった。
“ある”と思って臨むのと、“ない”と思って臨むのでは、精神的ダメージが違う。少々、キツい上り坂とはいえ、これまでに経験したものと比べれば、大したものではなかった。
だが、キツいのである。それは、気力が萎えていたためだった。“既に終わった!”と、思い込んでいたため、鎮火してしまった気力の炎を再び燃え上がらせるのは無理だった。
故に、この上り坂のすぐ向こうにゴールがあることを励みに、消耗した体に鞭を打つだけだった。
何百m登ったかは分からない。ひたすら下を向いてペダルを後ろに蹴り込む私の目に体育館の建物らしきものが映った。ようやく己の体に鞭を打つ作業が終わった瞬間だった。
かきたくもない汗をダラダラにかいていた。私のすぐ後に来た御変り君は、涼しい顔をしていた。汗もかいてないようだった。疲れを全く感じさせない、その涼しすぎるまでの佇まいには、人間らしさが全く感じられなかった。私は思った。この時の御変り君は、神の御使いというよりは、むしろサイボーグだと。
私の中では、御変り君とサイボーグ009のリーダーであるコードネーム009の島村ジョーがかぶっていた。
私達より遅れること数分のアホの末はというと。力を使い尽くしていた。その目は、死んだ鯖の目を通り越して、腐った鯖の目をしていた。
もう、話す気力まで尽きたらしく、「寝る場所を探そう。」と、一言しか発しなかった。
私達は、多くを語らず、公園の中に入って行った。残るは、公園内で寝るのに適した場所を探すことだけだった。
【ご褒美】
体育館の前を通り過ぎ、階段を下りると、道が三叉路になっていた。無駄な体力を使いたくないので、余計な散策はしたくない。どちらへ行くかの判断の後押しになったのは、右側に見えた球場らしきものであった。球場へ行っても寝るのに適当な場所はないだろうと思い、真っ直ぐ伸びる道を選んだ。
その道をまっすぐ行くと、明るい場所に出た。運動場のような広場のような広い場所だった。そこには多くのテントが、足を折った状態で設置されていた。数名の人が作業をしているようにも見えた。
翌日に“運動会でもやるのかな?”と、思った。
広場には、便所があることも分かったので、この周りで寝る場所を探そうと思った。
広場が明るいおかげで、周りの様子がよく分かった。よく分かったおかげで、私達の左手にある高台に東屋があるのが分かった。広場からは目と鼻の先である。
私達は、すぐに東屋に向かった。東屋は、5m×8mほどスペースがあった。3人で寝るには、申し分のない広さであった。
おまけに、人がその上で寝るには申し分のない広さのテーブルが2つあった。そして更にありがたいことに、東屋の真横には、手洗い場があった。
雨や夜露を凌げる東屋に、その横には手洗い場、40~50m先には広場の便所。私達が見つけたものは、私達が捜し求めていた理想のものだった。
ここまで頑張って走ってきたご褒美のようにも感じた。
【祝杯】
寝袋を広げ、蚊帳を張り、寝支度をする。私とアホの末は、何度も野宿を経験してきたが、御変り君は、今回が初めてとのことだった。
頻繁に、一人で日に200㎞も300㎞もツーリングをしているのに。このことは、意外であった。
寝支度が出来たところで、この日の互いの労を労うべく祝杯をあげた。ここまで120㎞を走っていた。全体の6割である。当初、半分も行けないと思っていたのに。この結果は、上出来であった。
残り80㎞である。アホの末の消耗度から考えると、決して安心出来る距離ではなかった。
でも、こいつの奮闘のおかげで、翌日に出雲大社まで辿り着く算段をつけることが出来たのである。この日一番の功労賞はアホの末にやってもよいと思った。
しかしながら、驚くべきは、御変り君のスペックである。私達が、燃費の悪い故障寸前のポンコツ車だとしたら、御変り君は燃費の良いハイブリッドカーとスピードの出るスポーツカーを足して2で割ったような感じなのだ。
この能力の差は、年齢の差からくるものだけではないと思った。さすがは、神の御使い。さすがは、コードネーム009の島村ジョーである。我々、同級生の二人にとっては苦痛を味わうだけの自転車でのツーリングも、奴にとっては楽しいことでしかないのだろう。翌日も涼しげに走る姿が容易に想像出来た。
祝杯を終え、寝る間際になり、私はここまでのことを思い返していた。この日は、天気に恵まれ、途中でハプニングに襲われながらも、それを克服し、飯屋も寝る場所もタイミング良く見つけることが出来た。
何も意識しなければ、私達の力だけでそれを成し得たようにも思える。頑張ったから当然の結果にも思える。だが、実はそうなるよう用意されていた、若しくは、そうなるよう導かれたと考えるとどうだろう。
感謝の気持ちが湧いてくるのだ。「ここまで無事に来させてくれてありがとう。」と。アホの末が、そう感じていたかどうかは分からない。神の御使いであり、コードネーム009の島村ジョーである御変り君は、そんなこと考えるまでもない。心中にあるのは、ひたすら楽しいという気持ちだけだろう。
私は、しみじみとそのような感謝の気持ちに浸っていた。
暑くもなく、冷たくもない、気持ち良い風が、そよそよと私達を吹きつける。その風は、疲れた私達をいち早くまどろみの中に誘った。
風さえもが私達の味方であった。
【哀愁】 「面倒臭せぇ!」感が満載の二人の背中。“面倒臭い。”、“行きたくない。”というネガティブな感情が良く伝わってくる。面倒臭いなら、このようなことを企画しなければよいのに。
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【絶景】 日本海の絶景。天気が良い時の日本海の景色は素晴らしい。この景色を見た時には、“山陰に生まれて良かった!”と、実感出来る。
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【待ち人】 アホの末の収まりがつくのを待つ二人。ポカポカ陽気で途中、眠たくなることも。
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【エンジョイ】 この旅を思いっきり楽しんでいる御変り君。子供のような無邪気な笑顔だ。
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【絶景2】 益田市の持石海岸。青い空と海、白い砂浜が続く。初夏の日本海の景色は、溜息が出るくらい素晴らしい。
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【お荷物】 益田市内のスーパーでの、アイチュ休憩時に2Lの水も購入。天気が良く、暑かったので、持参した2本の2Lの水は、すぐに無くなった。驚いたことに、500mlの水も2Lの水も店内で買えば、同じ100円で買える。水だけに中身の値段は無いに等しいからであろう。 重い水は、重いだけに本当の“お荷物”だった。
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【鍛錬】 腹筋をやっているように見えるが、そうではない。単に腕を頭の後ろに回して寝転んでいるだけ。
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【絶景3】 ゆうひパーク三隅から日本海を望む。夕暮れ時の夕日が綺麗らしいが、そこまで待っている時間は無かった。御変り君の顔を邪魔とは思わないように。
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【佇む】 日本海の雄大な景色に思いを馳せながら、静かに佇む。いや、晩飯に何を食おうかと考えているだけ。
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【心を洗う】 空が霞む中の夕日も幻想的なものだった。この景色を見ていると、不思議と心が洗われたような気がした。心が洗われて心の中に残ったのは、ラーメンと餃子とチャーハンであった。
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【チャージ】 一人を除いては、ただ胃袋に流し込んだだけの晩飯。一応は完食である。しかし、それでも明日の私達の肉体を動かす糧になったことは間違いなかった。 鼻が完治したら、本当の味を知るために、また来てみたいと思った。
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【入浴】 野宿では基本的に風呂には入らない。水道蛇口での洗髪や体を洗うことが、入浴の変わりとなる。これでもそこそこに頭や体は綺麗になる。
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