萩~大分間往復

カテゴリ
 BICYCLE
開催日
2001年09月20日() ~ 2001年09月23日()

準備

三十路を目前にして、何かしなければならないと常に考えていた。有り余る腕力と体力以外に何もない自分に一体何が出来るのだろうかと考えていたのだが、友人の末と市民体育館で筋トレをしている時に、ふと思いついた。体力しか能がないのなら、体力を使ったことをやれば良いのだと。

体力的なことで何をしようかと、考え込む前に答えはすぐに見つかった。目の前にあったエアロバイクを見て、即、これだ!と思った。自転車で、どこか遠くへ行けばいいのだと。ただ、問題はどこへ行くかである。近すぎても面白くないし、遠すぎると、休暇の都合でどうしても実現が難しくなる。片道が2日間ぐらいで行ける所で、行って楽しい場所といえば、そうだ!大分にしよう!大分市には友人がいるし、旨い食い物もたくさんある、旅の疲れは温泉で癒せる。大分しかない!

すぐに末にこのことを伝えた。「面白そうやなぁ~」と、答えは即決である。かくして私達2人は自転車で大分に行くことになった。

行くことになったはいいが、問題は装備である。私は自転車も持ってなければ、リュックサックも持ってない。この2つは絶対に必要である。わざわざ購入するのは勿体ないので、自転車は自転車屋のせがれであるサイトンに、リュックは先輩の池ちゃんに借りることにした。ちなみに、サイトンの自転車はその後、数々の遠征で活躍したが、廃車となり、リュックは何故か未だに私の元にある。

一応、装備も揃い、あとは決行の日を待つだけとなり、様々な不安が頭をよぎるようになった。自転車で長距離を遠征するのは初めてである。果たして往復で約500kmの距離を4日間で完遂出来るのだろうか?無事帰れるのだろうか?など、他にもいろいろと考えてしまった。その不安は、決行前日まで引きずってしまう。しかし、予想だにしなかった職場の方々の暖かい励ましで、その不安は消えた。有限実行、漢は決めたらやるのみだ!

2001年9月20日 1日目

午前5時に起床して、予定どおり午前6時に末との集合場所である御許町交差点に行き、記念すべき第一歩を踏み出すまずは、最寄のコンビニで朝食をとる。しばらくは、食料を購入する店がないからだ。サンドイッチで腹を満たしてから出発。自転車遠征初体験の私にいきなり萩有料道路の延長約2㎞の坂が襲いかかる。ちょこちょこ自転車を乗り回している末には問題なさそうだが、私にはそうはいかない。どのくらいの重さのギアで走ればいいのかも分からないので、変則ギアをガチャガチャさせて自分に合った重さのギアを探しながら末の後ろを走ることにした。

010920_0000坂を上るのは予想していたよりも全然楽であった。毎日ヒンズースクワットを何百回とやっていたのが功を奏したのだろうか。おかげで、自信が持てて、気持ち的にゆとりを持てるようになった。

しかし、出発から30分ぐらい経った頃から、マウンテンバイク特有の堅くて細いサドルのおかげで、ケツが痛くなった。おまけに常に前傾姿勢なので、腰も痛い。これが自転車にのる者への洗礼なのだろうか。慣れるしかない。

雲雀峠を越える最中にチェーンが外れて、時間をロスした以外は順調に進んだ。午前9時には美祢市のセヴンイレヴン、午前11時には下関市の小月に到着した。ここまで来ると、どんどん行けるところまで行ってやろうという気になる。それにしても下関市は広い。下関に突入してから40分は全力で走っているのに、まだ小月である。まさか、この後、火の山の人道に到着するまでに1時間近く要するようになるとは。

010920_0000_03火の山の人道にはジャスト正午に到着。ここで、職場の人に経過報告をするために電話をする。下関市の火の山まで約90㎞。初めてここまで自転車で来れたことに感動してしまう。しかし、まだまだ先は長い。感動するのは最後の最後までとっておかなければならない。

010920_0000_04ここで写真を撮って、人道に入る。徒歩なら無料だが、自転車やバイクは通行料金をとられる。ちなみに自転車の通行料金は20円である。人道の長さは約800m。通行人が少ないかと思いきや、案外、通行人は多い。距離的にも歩くのに丁度いいし、雨風も凌げるので、今流行りのウォーキングをしているのだろうと感じた。

まあ、そんなことはどうでも良くて、腹が減っているので先を急いだ。どこで昼飯を食おうかと思ったのだが、トンネルを下ったところにジョイフルがあったので、迷わずそこに入った。まさか、3ヶ月後にまたここのジョイフルにお世話になろうとは、この時は知る由もなかった。

まだまだ体力的には余裕があるが、9月下旬とはいえ、夏の暑さを引き摺っているので暑い!涼しい店内でくつろいでいると、外に出たくなくなるので、くつろぐのもそこそこに出発した。

門司から国道25号線を走って先を目指す。門司から小倉に抜ける間には、短いながらも勾配の急な坂が多く、また、景色がいつもと違って見えることにも気付いた。普段、車で通る時はどうも思わないのだが。そう見えるのは、走るスピードと、えらい思いをして必死に自転車をこいでいるのが原因かもしれない。

門司を過ぎ、小倉南区に入ったところで、暑さのあまり休憩をとることにした。出発してから何本のペットボトルを飲んだであろうか、500mlのペットボトルなんて、口を何回かつけただけでなくなってしまう。コンビニで何本かペットボトルを購入して、それを飲んでから適当な日陰のある場所を探して大の字になった。涼しさと、時折吹くそよ風に心地よくなって、つい寝込んでしまった。はっ!とおきて時計を見るともう午後3時である。40分も寝ていたことになる。ここまでで、まだ110㎞ぐらいである。出来るだけ距離を稼いでおきたいので、先を急ぐことにした。

行橋市にさしかかるあたりで、ふと後ろを見たら末がいない。どうやら、私が先を急ぐあまりガムシャラに走ったので、どうやら遅れたらしい。待とうかとも思ったが、待つ時間が勿体ないので、先に行くことにした。午後3時40分頃には、行橋市の10号線と椎田道路の分岐点に到着する。椎田道路を走った方が速く進めるのは分かってはいるが、自転車で走れるものかどうかが分からないので、通りがかりの郵便局員にそのことを尋ねた。自動車専用道なので無理とのことであった。仕方なく遠回りをして10号線を走ることにした。それにしても郵便局員の親切な対応が非常に印象に残った。感謝! 感謝!である。

行橋市内や椎田町を抜ける10号線は、ゆるやかな道路なのだが、道幅が狭く、自分の30~40㎝横を大型トラックがビュンビュン飛ばしていくので、怖いことこの上ない。バランスを崩して、道路側に倒れこもうものなら、プチッ!である。恐る恐るバランスを崩さないよう、障害物を踏まないよう、慎重に走ったので、どうにか何事もなく怖い箇所を切り抜けることが出来た。

010920_0000_06午後4時40分頃に豊前市の道の駅に到着。末とかなり離れてしまったので、ここで末を待つことにする。休んでいると、知らない人から声をかけられた。ランニングに下着のトランクスのみのまるで人の目を気にしないその姿は、まるで現代の仙人だ。

愛知県春日井市の人で、仕事を辞めて、自転車で日本一周の旅をしているらしい。3ヶ月半かけて、北海道からこっちまできたらしく、残すは九州本土、屋久島、沖縄だけとのこと。今朝、山口市から出発したというから、だいたい自分達と同じぐらい走っていることになる。

非常に爽やかな人だが、頭の禿げ具合から自分よりは年上だと感じた。仕事を辞めて時間があるとはいえ、何ヶ月もの間、よく1人でやるものだと感心した。この人の旅に比べれば、自分達の旅なんてちっぽけな旅だ。しかし、期間は違えど、やっていることは同じだ。旅の終わりに感動が待っていることはお互いに間違いない。ただ、この人の場合は苦労した時間が長いだけに、また、何かを決意しているだけに、途方もなく大きい何かを得られるようなそんな気がした。仙人と話をしている間に、遅れて末が到着した。仙人と一緒にここに泊まろうかとも考えたが、明日のことを考えてもう一つ先の道の駅で泊まることにした。

仙人に、餞別のソフトクリームを渡し、お互いの無事を祈って握手をして別れる。そういえば、仙人は自分と話をしている最中に日記をつけていたが、今日の自分達のことは内容に入るのだろうか?もう二度と会うことはないだろうが、この僅かながらも仙人とのひと時は、大変意義深く充実したものだった。

午後6時頃出発し、途中、ジョイフルに寄って、夕食を済ませ、午後7時過ぎには新吉富の道の駅に到着した。道の駅に入るなり、従業員のおばちゃんに「よう来たねぇ~、ここに泊まったらええよ!」と言われて、休憩所に案内される。ガランと広い建物の中に2畳ほどの寝るスペースがあるだけだが、外で寝るよりはましだ。ここで寝ることにした。おばちゃんは温泉の場所も教えてくれた。ここから歩いて10分ぐらいで行けるというので、歩いて行ったのだが、途中で迷ったこともあり、辿りつくまでに1時間近く要してしまい、おかげで汗だくになってしまった。

風呂場では、痛いケツと腰を念入りにマッサージする。末は足が痛いようだが、ケツや腰は痛くないようである。お互いに痛いところが違うみたいだ。疲れや痛みを癒すために、いつもより長く風呂に入っていたように思う。脱衣場で、知らないおっさんに「ボディビルダーですか?」と聞かれて「いいえ、ラガーマンです。」と、咄嗟に答えた。ラグビーはしばらくやってないが、やはり自分は根っからラガーマンなのだと、この時感じた。

010920_0000_08道の駅に戻ったのは、午後9時半ぐらいで、寝るには早いが、明日のことを考えて寝ることにした。ここまで大体160㎞ぐらいだから、3分の2ぐらいのところに来ていることになる。残りが3分の1だと思うと気が楽になった。2人とも疲れからか、何を話すこともなくすぐに寝込んでしまった。

夜中にふと目が覚めて、意識朦朧とした状態で、再び眠りにつこうとしていると自分の足元でおじさんとおばさんと思わしき人のヒソヒソ声が聞こえた。ガサゴソと袋から何か出して、食べているようだ。わざわざ目を開けて見るのも面倒臭いので、そのまま深い眠りに落ちてしまった。翌朝、おっさん達が何をしていたかがわかるようになる。

2001年9月21日 2日目

午前5時にきて、昨日コンビニで購入した朝飯を食おうと思って、コンビニの袋を探すが見つからない。探しまわってようやく自分の足元に、目当てのビニール袋を見つけた。「あった!」と喜ぶのも束の間、中身は、無残にも全て食い尽くされていた。

寝起きで頭がボーッとしていたから、???……だったが、しばらくして気づいた。夜中に自分の足元でゴソゴソやっていたおっさん、おばさんが食ったのだと。「おどりゃあ、俺の朝飯を盗み食いしやがって、見つけたら沈めたる。」と、怒りにうち震えたが、相手の顔を見てないし、食われてしまったものはどうしようもならない。この怒りは、末に朝飯を分けてもらったら、不思議と、すぐに収まった。

しかし、どうせ盗み食いするのなら、自分の側で食べなくても、持って逃げて他の場所で食えばいいのに。大胆というか馬鹿というか、もし、盗み食いしている最中に私が目を開けたらどうするのだろうか?絶対に檻から解き放たれた猛獣のように襲いかかるはずである。そう思うと、目を開けなくて良かった。あれぐらいの物はくれてやろうという気になった。

気を取り直して午前5時半に出発。日がまだ完全に昇ってなく、薄暗い中を走る。30分も走ると、だんだん明るくなってくる。朝のひんやりした空気の中を走るのは気持ち良い。ケツが痛いのも忘れ、しばし、気持ち良さに浸っていた。

午前7時に宇佐市に、午前7時半には山鹿町に到着する。かなりのハイペースでここまで来たが、ここからは延々と登りが続く。俗に言う「山鹿越え」である。

延々と先まで続く坂を見ると、気持ちが萎えるので、下の道路の白線だけを見て、黙々とペダルをこぐ。汗が顔から額からボタボタと垂れ落ち、ハンドルに雨のように降り注ぐ。大分遠征以前からのこの繰り返しで、ハンドルは大分錆ついている。ハンドルの錆は、歴戦の証だ。そんなどうでもよいことに、たまに意識を向けながらも必死こいてこぎ続けたおかで、どうにか1時間ぐらいで「山鹿越え」を果たせた。

010921_0000山鹿町のローソンで、休憩したものの、すぐにハーモニーランド手前の短いながらも急な坂が襲いかかる。目の前にある坂はどんどんこなしていくしかなく、弱音など吐いている暇はない。しかし、気力、体力ともにまだまだ余裕がありながらも坂を登っている最中は、もうこれで体力を使いきってしまうのではないかというぐらい、途中で止めてしまいたいと思うぐらい気持ち的に切羽詰まっている。そう思うほど、坂を登るのは精神的にも肉体的にもきつい。

ただ、坂の途中で、こぐのを止めたら負けである。自分の肉体的限界を超えているような勾配や長さの坂ならともかく、心が折れて、こぐのを止めて地に足をつけるのだけは、絶対に避けなければならない。どこかの登山家が言っていた。「そこに山があるから登る」のだと。自分達もそれと同じだ。そこに坂があるから登るのだ。登りきった先には、征服感と充実感が待っている。まあ、チョモランマやアルプスを登るのとは、レベルが違うが。

坂を登る途中で、ギア付のミニバイクで下ってくる奴と、すれ違う時に挨拶をした。彼は1人で、旅をしているようだった。自分達と同じことをしている奴を見て、何となく親近感を持った。1人で旅をするのも良いとは思うが、旅はやはり1人よりは2人だ。喜びも、感動もすべて分かち合うほうが良い。そうこう考えているうちに坂を登りきった。

ここからは、日出町。大分市はもう目と鼻の先だ。日出町をぬけて、丁度、別府湾が目前に開けるところで休憩をとる。天気も眺めもいいし、もうすぐ着くと思ったらすごく気分が良くなる。時はまだ、午前9時で、時間にも余裕があることからゆっくり行こうということにする。大分市まで、あと約20㎞弱、どんなに道草くいながら進もうと、2時間もあれば着くはずだ。

別府の海岸沿いには、ソテツか何かは分からないけど、南国にあるような木がたくさんあって、南国に来たのだという気にさせられる。おまけにさすが日本有数の温泉地だけあって、潮の香りに混ざって、時おり硫黄の臭いがしてくる。

010921_0000_02とうとうここまで来たのだと思ったら、何だか胸に迫るものがあるが、喜ぶのは、着いてからだ。そして、記念すべき瞬間が。大分市と書いてある看板に到着。看板をまたいで、左足が別府で、右足が大分とかやったり、看板にぶらさがったりしてはしゃぐ。ここで、看板を背にして記念撮影。しかし、まだ喜ぶのは早い。ここからジャイアンの家までは、15㎞ぐらいある。ふざけるのもそこそこに出発。

010921_0000_05午前10時に田子の浦海浜公園に着く。ここで、しばし休憩。前回ここへ来たのは、梅雨の真っ最中で、誰もいなかったが、今回も平日の午前中ということで、自分達以外に誰もいない。果たして、夏の最盛期でもここは人で賑わうのだろうか?と疑問に思ってしまう。

010921_0000_06タイヤモンドフェリー乗り場には、午前11時に着く。腹が減ったので、ここの食堂でランチにする。こういう所のランチは、どうせ不味いのだろうと、たかをくくってハヤシライスを食ったのだが、不味いどころか、かなり美味い。失礼したという気になる。食い終わったところで、食堂のおばさんに一緒に写真を撮ってくれとせがまれる。どうやら私を空手の有名選手と間違えているようだ。自分は空手家ではなく、ラガーマンだと答えたが、それでも一緒に写真を撮ろうと言い張るので、仕方なしにそれに応じた。おばちゃんは嬉しそうだった。もう自転車をこぎたくないので、帰りは、ここからフェリーで小倉まで帰ろうかという話もする。もちろん冗談だが。腹も満たされて眠くなったので、外で昼寝をする。ポカポカ陽気で気持ち良くなって、つい1時間も寝込んでしまった。時間に余裕があるので、もう少し休もうかと思いつつも、ジャイアンの家に着いてからゆっくりした方が良いので、出発することにした。

ジャイアンの家は、ここから7~8㎞ぐらいしかないものの、行くまでに何と急な坂が多いこと。大分市に着いて、気持ちが緩んでいたせいか、今までで一番きつく感じた。

それでも、何とか気力を振絞って、午後2時前に到着することができた。どうにか半分終わらせた。ホッと胸を撫でおろしたのも束の間、帰りのことを考えると、気が重たくなった。また、同じ道を戻らなければならない、きつい思いをしなければならないのだから当然である。

そこで、末とこのことを話した結果、明日は豪遊日ということで1日とっていたが、帰りのことを考えると楽しめないので、1日繰上げて、明日変えることにした。

ジャイアンは仕事なので、しばらくは帰ってきそうにない。暇を潰すために周りにパチンコ屋がないか探しまわったものの、見付けることができなかったので、公園でガキどもと戯れたり、手紙を書いたりした。

010921_0000_12私は手紙を書くのは、結構好きである。生来の口下手で、相手に想いを伝えるのが苦手だから、想いを活字にして相手に伝えるほうが自分にとって都合が良い。だから、文章が下手ながらも、これまでに何百と書いてきた。ぽん太郎さんや職場の人達に何通か書いたが、書くネタはたくさんあったので、すぐに書けた。書いたものをポストに入れて公園に戻ったら、丁度ジャイアンが戻ってきていた。また一回り大きくなったようだ、乗っている50ccのカブが小さく見える。

腹が減ったので、すぐに冷麺を食いに行く。大分にきたら、絶対に行く冷麺屋で、何度食っても飽きない不思議な味だ。さすがに初めて食った時のインパクトはもうないが、それでも、久々食うと、その味には唸ってしまう。冷麺の後にラーメン屋をはしごし、温泉もはしごしようと思ったのだが、いつもは活発な末が、「温泉は1ヶ所だけにして、帰ろうや。」といつになく弱気だ。「はは~ん、明日のことを考えとるな。」と、末の意思をくみ、温泉のはしごはやめて、すぐに帰ることにする。帰りにジャイアンに自分の空手道場のビラ貼りを手伝わされる。これって勝手に電柱とかに貼ってもいいものなのか?あまり気持ちのいいものではないから、誰かに見られないかと、ひやひやした。

ジャイアンの実家に着いて、お互いの近況を伝えあうのもそこそこに午後11時半には床に就いた。長い1日だった。

2001年9月22日 3日目

010922_0000_02午前8時に起床。ジャイアンと息子の陸と記念写真を撮って、お別れをして午前9時半に出発。いきなりの急な坂でブルーになりながらも、気合でなんとか乗り越える。おかげで、体が温まり、良いアップにはなったようだ。

2人とも黙々と走り続けたおかげで、1時間半ぐらいで、昨日休憩した別府と日出町の境までくる。ここから、ハーモニーランドを超えるまで延々と坂が続く。いつも、長い坂や急な坂の手前では、ブルーになるが、どう思おうと行くしかない。坂を越えなければ、先には進めないのだから。

010922_0000_04途中、ハーモニーランドの手前で、石に乗り上げて、こけてしまい、更にブルーになる。しかし、ここで気持ちが切れることなく、すぐに立ち上がって先に進む。しかし、道路側にこけなくて良かった。こけてたら車に轢かれていたかもしれない。自分の運の良さを感じた。

午前11時45分には、ハーモニーランドを越えた頂上付近のローソンに到着する。ここで、昼飯を食って昼寝をする。

午後1時に出発。飛ばしに飛ばして、山鹿町を越え、宇佐市を越え午後14時半には中津市に到着する。休憩している最中に話し合って、時間もあることだし、景色を見ながらゆっくりかえろう、そして今日も新吉富の道の駅に泊まろうということにした。新吉富の道の駅までは、あと1時間ぐらいである。しかし、途中で道を間違えて、新吉富の道の駅を通り過ぎてしまう。やむを得ず、その先の豊前の道の駅で、もう一度、今日はここでやめるかどうかの話し合いをする。時間は既に午後4時をまわっている。あと2時間ぐらいでどこまで行けるか。この先に道の駅はない。でも、まだまだ、走れるし、明日のことを考えると、なるべく距離を稼いでおきたいので、行けるとこまで行って、公園を探して、そこで寝ようということにした。

午後4時半に出発。休憩していた時間が長かったので、尻の痛さがぶり返してきた。気にすると、気になるので、なるべく気にしないようにした。末も膝や腿がかなり痛むらしく、自転車をこぐその姿はかなり痛々しい。一昨日から痛みをこらえて走っているのだから、かなり頑張っているといえよう。

そんなことおかまいなしに、自分のペースで走っているものだから、行橋市に着いたぐらいで、後ろを見ると、末の姿がなかった。どうやら遅れたようだ。待とうか待つまいか迷ったが、長く休んでいると、体が冷えるのと気持ちが切れそうになるので、先に行くことにした。苅田町を過ぎ、小倉に入った時は既に午後7時にかかろうととしていたが、次は門司、次は下関という具合に欲が出て、どんどん先に進むことにした。

遅れている末のことは、既に頭の中になく、先に進むことばかりを考えている。よく考えたら3時間近くも自転車から降りずにこぎ続けていることになる。こぐことに集中しまくって、ランナーズハイのような状態になっている。こぐことが、体力を使うということが、全く苦にならない。このままの勢いならば、今日のうちに萩まで帰ってしまいそうだ。

午後8時前には、人道を渡って下関市に入った。ここで待つかどうかも迷ったが、先に行くことにした。長府、王司を過ぎ、小月に入ったところで、さすがに末のことが気になり、セブンイレブンの公衆電話から電話する。現在、まだ門司にいるとのこと。時間にしたら1時間以上さの差がついている。いくら進んでも、私が見あたらないので、門司の警察署に電話して、自転車で事故した奴がいないか聞いたとのこと。他にもぽん太郎さんや何人かの者にも私が行方不明になったと、聞き込みをしたらしい。

自分勝手にどんどん進んでしまったばかりに、末には悪いことをした。すぐにぽん太郎さんに電話をして訳を話した。

末と合流するまでに時間がかかるので、セブンイレブンで晩飯を買って食うことにする。コンビニの入り口の横で、上半身裸で、食物をたくさん並べてがっついていると、通行人の視線を嫌というほど浴びる。放浪者か野蛮人とでも思っているのだろうか?まあ、そんなことは、こちとらどうでもいいことだが。

晩飯を食って、腹いっぱいになったところで、考える。ここから萩までは約5時間、夜中のうちには萩に着くことができる。だが、自転車にライトが付いてないので、真暗な山道は危ないし、最後は2人揃ってフィニッシュしたいので、街頭があるギリギリの場所である、下関市吉田の公衆便所がある駐車場で一夜を明かすことにした。

午後9時に目的地の駐車場に着く。約1時間遅れて、末が到着。久々の再会をお互いに喜ぶ。こいつに会うのは6時間ぶりぐらいである。私が携帯を持っていれば、こんなことにはならなかっただろうに。否、まずは自分の身勝手さを反省しなければならない。楽しくやるには相手のこと010922_0000_08も考えないとダメだ。

反省もそこそこに寝ることにした。寝袋にもぐって、仰向けになる。満天の星空がめちゃくちゃ綺麗である。しばらくは、寝るのも忘れて、星空に見惚れていた。すごく幸福な気持ちになった。ただ、横に寝ているのがむさくるしい末ではなくて、可愛い娘だったらなあと思うのは、贅沢だろうか。

いつの間にか寝入っていたが、夜中に寒さで目が覚めた。ありったけの衣類を寝袋の中に詰め込んで、また眠りに就いた。

2001年9月23日 最終日

午前7時に起床。今日は最終日、萩まであと70㎞を残すのみとなった。この4日間で一番走る距離が短くて済むので、気が楽だ。とうとう今日で終わりだ。胸にぐっとくるものを抑えて、午前7時半には出発した。はっきり言って、尻は痛いのを通り越して、感覚が殆どなくなっている。幸い、擦り切れて血がでるとかではないからまだ良いのだが。末の方も膝や腿がかなりやばいらしい。昨日までの3日間で、400㎞以上走っているのだ。お互い、痛いところがないはずがない。だが、もうゴールはもうすぐだ。痛いのを我慢して先に進むしかない。湯谷温泉付近の坂で、少しもたついたものの、行きに比べたら、帰りの方が下りが多く、体力的にも精神的にも楽である。

美祢西インター横の今は無きコンビニで朝食をとり、休憩もそこそこに美祢インター横のセブンイレブンまで突っ走る。ここでは、通りすがりの人に写真を何枚か撮ってもらう010923_0000。帰りのルートをどうするか話し合った結果、有料道路を通らずに、川上村を通って帰ることにする。そうした理由の一つは、有料道路のきつい坂を避けたいことと、わざと遠回りして少しでも長く走っていたからである。早く苦痛から解放されたいという気持ちもあるのだが、この苦しくも楽しい自転車での小旅行を終わらせたくないという気持ちもあるのだ。相反する二つの気持ちの間に挟まれながらも、歩を進めることにした。

大田のバス停留所付近で後ろを見ると、またもや末がいない。脚が痛いのかと思いながらも、休むのは嫌なので、ペースを落として先に進む。この辺りまで来ると、着いたという気になる。あと、萩まで30㎞。

有料道路と川上村の分岐点を少し過ぎたあたりで、末と合流する。もう脚が痛いとか、尻が痛いとかはどうでも良くなっていた。2人とも、4日間に渡る自転車での旅がもうすぐクライマックスを迎えることに対して、何か込み上げてくるものがあるようだ。お互いに表情に余裕があるように見受けられる。どことなしか、ペースもゆっくりだ。

010923_0000_01午前11時についに川上村と萩市の境に到着し、萩市側に右足から入る。ここで、「萩」と書かれた看板をバックに写真を撮る。

午前11時半には、出発地点の御許町交差点に到着。通りがかりの人に2人でガッツポーズをとった写真を撮ってもらう。

遂に終わった。この時、自分の中には、大きいことを成し遂げた喜びしかなかった。しかし、昼飯を食ってから末と別れて、家に帰ると、何故か無性に寂しくなった。今までやってきたことをやらずに済むようになったからなのだろうか。ポッカリ心に穴が開いたようだった。

明日は一応、有休をとっていたのだが、早く皆に自分の無事な姿を見せたいのと、自慢話をしたいから仕事にでることにした終わってしまえば、長いようで短く充実した4日間だった。

旅を終えて

010923_0000_02たった4日間だったが、この間は、他のことには目もくれずに自転車をこぐことだけを考えた。どんな障害があろうと、先に進むことだけを考えた。人間、目標があるほうが強いと感じた。逆に言えば目標がないと弱い。いろいろなことに満たされて、人生の目標が見えなくなっているのが、今の自分だ。だから苦しくとも小さな目標を持てた、この4日間は幸せだった。

ガムシャラになって何かに没頭するなんてことも、ここ数年なかったから非常に新鮮な経験であった。

1日に10時間以上も自転車をこぐことが、どんなに大変なことか、長い急な坂道を越えることが、どんなにきついことか、逆に坂道を下ることが、どんなに爽快なことかも身をもって知ることが出来た。

出会いもあった。自分達が旅を終えた今でも、仙人は1人で走り続けているはずだ。人の顔を覚えない私が、今だに仙人の顔を覚えているのは不思議なことではあるが、それだけ仙人のインパクトが強かったのかもしれない。仙人とは、いつかどこかで何らかの形で再会しそうな気がしているのだが、それは私の気のせいだろうか。

道中、自分達以外にもチャリンコで旅をしている奴には、よく出くわした。そういう時は大体、手を振るか、会釈をしたりしたものだ。

自分達と同じことをしているということで、不思議と仲間意識も芽生えたりした。皆、何か考えることがあってやっているのだとは思うが、それは自分達も同じこと。旅の終わりに何か感じられる、何か得られることがあるはずだ。それで、旅を終えて何を感じたかというと、まずは無事帰れて良かったということ、次に楽しかったということ、最後にまたやりたいということである。

何や、あれだけやって思うのはそんなことかいなと思われるかもしれないが、無事で楽しくて、またやりたくなったのだから、それで良いのではないかと思う。

三十路を前にして、決行した自転車での旅。このことは自分の中に永遠に残る。最後に、自分が何かしなければならないと思うようなきっかけを作ってくれた人及び、応援してくれた職場の仲間達、友人達にこの場を借りて、「ありがとう」と、感謝の意を述べたい。


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