Road To 大分 第六弾(Final)
- カテゴリ
- RUN
- 開催日
- 2008年12月06日(土) ~ 2008年12月07日(日)
集合時刻変更
出発当日に雪が降るであろうことは、天気予報で何日も前から分かっていた。漢塾イベントは、何があっても必ず決行される。だから、どんなに雪が降っても、ランを中止にするつもりはなかった。
だが、私のクルマはノーマルタイヤであり、雪道には不安があった。しかも出発前夜から雪が降り始めたので、当日の朝は積雪もしくは道路の凍結が予想されたため、急遽出発予定時刻を1時間ほど遅らせた。
萩という町は、陸の孤島である。ここから出るには、何処へ行くにも山を幾つも越えなければならない。午前5時半という時刻では、当然にクルマの往来は少い。1時間でも出発時刻を遅らせれば、いくらかでもクルマの往来が多くなり、少しでも走り易い状態になっているであろうという考えからの決断であった。
出発前夜は、職場の宴会。その席上で変態小野を始めとする参加者達に、出発予定時刻を1時間遅らせたことを告げると、全員一様に喜んでいた。
1時間出発時刻が延びるということは、それだけ長く眠っていられるということ。喜ぶ気持ちも分かる気がした。
出発
実は、前回と同じく”うえちん”にクルマを借りていたのだが、スタッドレスタイヤを履いてないということで、急遽、末永さんのクルマを使うことになった。よって、一台の安全はある程度は保障されたようなものだった。
で、問題は私のクルマであった。スタッドレスタイヤを履いてないのである。そのことに対しては、多少の不安はあった。だが、山陽側に抜けてしまえばどうにかなると思っていたので、不安を抱えつつも、それで行くことにした。
今回の漢塾ラン大分編最終に参加するのは私を含めた7人。最終で忘年会も兼ねた泊まりである。また、走行距離がこれまでで一番短いということもあり、皆の表情はこれまでにないくらい明るかった。だが、この後、皆の表情を曇らせることがあろうとは、この時は想像だにしてなかった。
予定通り
萩市役所前庭を出発し、セルフスタンドでガソリンを満タンにしてから、一路前回到達地点である大分県日出町を目指す。幸いなことに最初の難関である雲雀峠を難なく越え、その次の難関である美祢市を抜け、何事もなく山陽側である下関市へ抜けることが出来た。
下関からは、現在トンネル工事中のため、その代替ルートである高速道路を通る。下関インターから門司インターまでのわずか数㎞だけ高速に乗るだけなのだが、軽自動車のトンネル通行料と同じ100円で済むとあって、お徳感は大きい。下関インターから高速道路に乗ってからすぐに、休憩するために関門パーキングに入った。この時、時刻は午後9時前。当初、予定していたどおりの時刻であった。
朝飯
前回と同じく、パーキング内のコンビニでサンドウィッチやおにぎりなどを購入して朝飯にすることにした。だが、前回と同じように外で食うわけにはいかなかった。
この時の気温は、1℃。前回の1ヶ月前と比べると、10℃も気温が違う。外にいると寒いのも当然ながら、寒風が身を刺すために肌が痛くなる。さすがにこんな低温の中、外で朝飯を食ったら風邪をひいてしまい、ランどころではなくなる。よって、暖房の効いたクルマの中で食うことにした。
2台のクルマで来ているため、こうすると全員で顔を突き合わせて朝飯を食うことが出来ないのだが、仕方のないことだった。しかし、3日前までは暖かかったのに、わずかの期間で、こんなにも気温が変わるとは。何もラン決行の日に寒くならなくてもいいのに。これも今回は仕事で参加できなかったアホの末の普段の行いが悪いことが原因に違いなかった。
予兆
手短に関門パーキングでの朝食を済ませた私達は、目的地を目指すべく再びクルマを走らせる。関門橋を渡り、すぐに門司港インターで高速道路を降りる。
やはり、予想通りに九州には雪がない。”これは楽勝!”だと思った。
だが、しかしである。行橋を抜け、自動車専用道である椎田道路に入った時である。途端に周りが真っ白になり、雪が降りだしたのである。いきなりのことで面食らった。ただ、周りの景色が見えないほどに吹雪いていたものの、積もるような雪ではなかった。
そのような雪だったから、”大したことではない。”と、決めつけて安心していたのだが、この出来事こそが、これから起こることの予兆だったのである。
道の駅
やはりというか、いつもどおりというか、今回もぶぜん道の駅に寄る。”さるのこしかけ”と、マス岡田で有名なあの道の駅であるから、もはや説明する必要もなかろう。
つい先ほどまで雪が降っていたらしく、駐車場の舗装は濡れていた。おまけに、関門パーキングよりも山間部に近づいているとあって、いくらか寒く感じた。
この道の駅の中にある、屋台街で何か食ってやろうと思ったのだが、屋台街の周りはサッシや壁で囲まれているとはいえ、天井は青空であり、風がビュービュー入ってくるため、食うのは断念した。注文したものを待つ間も寒いし、食べる時も寒い。屋根も無ければ、暖房も無い。持ち帰りの客ならともかく、このような状況では、ここへ来て食う客はまずいない。実際に、屋台街の中には私達しかおらず、どの店も閑古鳥が鳴いていた。
結局、ここではコーヒーなどの飲み物だけを購入したにとどまった。去り際に変態小野が言った。「やっぱり自動販売機の前にマスさんがいるような気がしましたね。」と。変態小野の言ったことには、私も同感だった。何故なら、私も自動販売機の前にマス岡田の残像を見ていたからだ。私は、前回も同じものを見ていた。そして、今回も同じものを見たことでハッキリしたのは、マス岡田の魂が、地縛霊のように道の駅内の自動販売機の前に貼り付いているということであった。偶然で同じものを二度も見ることはないため、推測は確信に変わった。私達は、それを見る度にノスタルジーに浸れるから良いのだが、肝心の本人はどうであろう?魂が別の場所にあって、何か影響はないのだろうか? 先日会った時は元気そうだったのだが。
道程
道の駅を出発した私達は、一路目的地へと向かう。
車中で、
“ここは工事中で道幅が狭くて走りにくかった。”
“ここは、自分のすぐ横をクルマがビュンビュン走って行くから怖かった。”
などの、姉御の幾多の回想録を聞く。やはり、良くも悪くもインパクトの強い場所は良く覚えているもの。要所要所に思い出を重ねながらクルマを運転していたので、退屈をすることはなかった。私達は、ただ歩いて、走っていたわけではない。自分の歩んで来た道程には、しっかりと足跡や思いといったものを残しているのだ。最終到達地点までの道程は、その自分の足跡や思いを辿る旅なのである。
宝
中津市を越え、宇佐市街を越え、いよいよ山間部へ入って行こうとした時のことである。この時、時刻は午後0時前。別府へ入るまでは、しばらくコンビニが無いのが分かっていたので、少し早いとは思いながらも、丁度通りかかったコンビニで昼飯を食っておくことにした。
朝食を食ってから時間が経ってなかったこともあり、誰もが食欲が無いようであったが、少しでもいいから、とにかく何かを食っておくよう皆に勧めた。今回はこれまでで一番距離が短く、しかも行く道は平坦である。だが、これまでと違うのは異常に寒いということ。 寒さは、体温を著しく奪う。奪われた体温を平常に保つには、かなりのエネルギーが要る。そのエネルギーを補給するには食うしかない。これまでの経験から、誰もが、私が食い物を勧める理由が分かっていたらしく、量は少ないながらも食える範囲で食っていたようだった。
これが、ハンガーノック若しくは、それに近いことを経験していなければ、私の勧めを全員が聞き入れることはなかったであろう。そうなれば、体が思うように動かなくなって、辛い思いをする者もでたかもしれない。これから行うことに対して最善の準備をし、最良の状態で望む。誰もが、それを実行していた。そして、そうすることが出来たのは、正しく”経験”という宝のおかげであった。
大渋滞
昼食を終えた私達は、長居することなくコンビニを発った。コンビニへ来るまでも、雪はパラつく程度に降っていたのだが、進むごとにその量は増えていった。そして、3~4㎞も進んだ頃には、道路脇に雪が積もるほどになっていた。おまけに路面は、タイヤに踏み固められた雪が凍ってアイスバーン状態である。
それに気付いた時は、もう遅かった。延々と見渡せる限り先まで続く大渋滞に巻き込まれてしまっていたのである。この大渋滞は道路の凍結のため、クルマが立往生したことにより発生したものであった。
私のクルマは、スタッドレスタイヤを履いてないため、前に進もうとすると、スピードがゆっくりであってもハンドルをとられる。更に、タイヤが空回りする始末。これだけの凍結のしようでは、チェーンを装着しない限りは、これから始まる山越えは無理なようにも思えた。
事実、私達の100m先の道路脇には、タンクローリー車を始めとして、何台かのクルマが乗り捨てられているように見えた。大渋滞に巻き込まれて、5分が経ち、10分が経つ。クルマは全く前に進まない。大渋滞に巻き込まれたばかりの時は、絶対に現地に辿り着いて、スケジュールを決行するつもりでいたが、さすがにこうもクルマが進まないと不安になる。
このまま待っていても無駄に時間が過ぎるばかりだし、もしこの後進めたとしても、私達のクルマでは山越えは無理。そうなると、引き返して高速道路に乗るか、国東半島の海側を通って行くしかないのだが、なかなか決心がつかなかった。
そんな決心のつかない私を動かしてくれたのが、姉御の一言であった。
天の声
「高速道路は積雪で通行できないかもしれないから、引き返して豊後高田市(国東半島の海側)の方を通って行こういね。」との姉御の一言で、私の心は決まった。
私達が足止めを食っていたのは、山の上がり口。何百mか進んだところと比べると、積雪は少なかった。よって、路面が凍結しているとはいえ、クルマもどうにか動かせる状態であり、対向車も殆どない状態であったので、引き返すならこの時であった。
すぐさま道路内で切り返しを何度かしてクルマの向きを変え、来た方向に引き返した。その後に末永さんも私に続いた。少し走ると道路脇の雪も路面の氷も無くなった。とりあえず私達は大渋滞から解放された。そして、来た道を5㎞ほど戻ったところで、右折し、国東半島の海側を通る道に入った。幸いなことに、こちらは、風が強く、時おり雪も吹雪きはするが、路面に積雪は全く見られなかった。
こちらを通ると、約80㎞の遠回りで、時間にして2時間以上余分にかかる。だが、あのまま頑なにルートを変えないでいたら、この何倍も時間がかかっていたはずだし、スケジュールに大幅な狂いも出ていたはず。この決断は、大正解であった。
これも、私を決心させてくれた姉御の一言のおかげ。このようなことはこれまでにもあった。姉御の一言に私は、私達は何度も救われている。豊富な人生経験に基づいた、的確で信頼性のある姉御の言葉。これぞ正しく天の声であった。
国東半島
ひたすらに続く海岸沿いを走る。大分には何十回と行っている私だが、いつもは国東半島の根っこを横切って行っているため、国東半島をグルっと一周するのは初めてであった。おかげで、殺伐とした風景ながらも、その全てが私の目には新鮮に映り、退屈をすることもなかった。
これも姉御の一言で迂回したおかげ。遠回りになる代わりに、ただクルマで通るだけとはいえ、私達は新たな経験を手に入れることができたのである。
何かを失えば、何かを得るというが、私達に失ったものは無かった。こっちを通る方が、遠回りとはいえ早いし、新たな経験も出来る。正に良いことづくめであった。
気付き
国東半島周りのルートに入ってから約1時間。トイレ休憩のため、私達は道の駅らしきパーキングに入った。広い駐車場に私達の他には2~3台しかクルマが停まってない閑散としたパーキングであった。
別府や大分が中国地方で言う山陽側とすれば、この辺りは、私達の住む山陰側と同じような雰囲気を漂わせていた。人口は少なく、産業といえば、おそらく農業や漁業しかないと思われる。経済発展とは無縁の地域、またこれから発展する見込みもないように思われた。でも、そのおかげで、この地域には豊かな自然が残っていた。
自分の地元と同じような匂いのする地域に愛着も感じたのだが、ここまで走って来て、一つ気になることがあった。海沿いの地域であるのに、漁船の姿を殆ど見ることが出来なかったのである。事実、パーキングから望む沿岸部には、一隻も漁船の姿を見つけることができなかった。たまたま漁に出ていたのかもしれないし、たまたま漁港の近くを通らなかったか、たまたま見落としていたのかもしれない。だが、周りを海に囲まれているのに、漁船の姿を目に出来なかったことは少なからず気になることであった。
姫島
国東半島沖にある姫島というコミュニティのことである。私は、姫島の名前はこれまでに聞いたこともなかった。姉御が言うには、この島はコミュニティが島民の仕事の管理や利益の分配をするとか。こうすることで、島民全員に仕事と利益が行き渡る。全員で分配するから、一人ひとりの取り分は少なくなるが、とりあえずは誰もが生活することが出来る。つまり、島全体が一つの運命共同体として、助け合いの生活をしているのである。
“己さえ良ければ良い。”という考え方が蔓延している現代社会においては、この島の生活は俄然輝きを放っているように思える。このような助け合いの生活をしている島の存在は、興味深いし、また驚きであった。ただ、島の生活に興味はあっても、実際にそれをやってみたいとは思わないのだが。
到着
わずかばかりの市街地~海沿いの道~わずかばかりの市街地~海沿いの道。それを繰り返しながら、私達はついに国東半島を抜け、別府市街に入った。国東半島周りへルートを変えてから2時間以上が経過していた。
別府市内に入ってから、私がやるべきことは、スタート地点の選定であった。この時、私達が走っていた場所から前回到達地点までは、さほど離れてないのだが、積雪のある山側に戻らなければならなくなるので、やむを得ず、スタート地点を変えることにしたのだ。
別府市内の国道10号線は、片側3車線あり、しかも中央分離帯もあるので、方向転換がしにくいため、進行方向沿いの広い駐車場のある外食店なり大型店舗をスタート地点にと、考えながら走る。
あまり、前回到達地点から離れてしまうとよろしくないので、結構焦っていた。そんな焦る私の目に入ったのが、チェーン店である某ちゃんぽん屋の看板。確か、前々回の到達地点は、名もなきちゃんぽん屋であったから、”これは良い。”と思い、すぐにそのちゃんぽん屋の駐車場に入った。
単なる、思いつきで、そこに決めただけだったのだが、前回到達地点から1㎞も離れておらず、進行方向沿いにあったため、スタート地点にするには、申し分のない場所であった。
スタート
スタート地点である某ちゃんぽん屋から、ゴール予定地であるダイヤモンドフェリー乗り場までは、約22~23㎞の距離。 変態小野なら2時間もかからずに、他の者達でも3時間から3時間半あれば走れる距離である。おまけにこの日は寒いときたので、途中で給水ポイントを設けることはぜずに、一気にゴールまで走ってもらうことにした。
クルマの往来が激しい、別府市内で駐車スペースを探すのが面倒臭かったというのもあるが、早く終わらせるには、それが一番効率的なやり方であった。そのことを皆に告げても、抗議の声は出なかった。腹が減ったり、便所に行きたくなったりした時は、市内のコンビニに入れば、どうにかなると誰もが思っていたのだろう。
それに、この時、予定より3時間以上もランの開始が遅れていたこともあり、晩の打ち上げ時間に間に合わすためにも急がなければならないということも誰もが分かっていた。おかげで、すんなりと最後に相応しくないアバウトなやり方を実行することになった。
午後2時半過ぎ。最後の感動を味わうためにというよりは、目の前にぶら下がった打ち上げのために、塾生たちはゴールへ向かって走り始めた。
苛立ち
別府市内の道路は渋滞していた。雪が積もってクルマが動けなくなっているわけではないのに、こんなことは初めて。何十mか進んだら、すぐに止まり、動いたと思ったら、またすぐに止まるということを延々と繰り返す。 生来、待つことが嫌いな私は、それが繰り返される度に、どんどん気持ちが苛立ってゆく。
その苛立ちに追い討ちをかけたのが、スタートしてから4㎞地点で、トップを走る変態小野に抜かれたことであった。いくら変態小野の走るのが速いとはいえ、人間に抜かれるのは気持ちの良いものではない。どうにか、早く抜き返してやりたいと思ったのだが、結局、変態小野を抜いたのは、渋滞が解消された20分後のことであった。
葛藤
渋滞から開放され、スムーズに走るようになったクルマの中で考えた。ダイヤモンドフェリー乗り場まで行ったら、とてもではないが、風呂へ入って着替えてから打ち上げに行けなくなるのではないかと。
ダイヤモンドフェリー乗り場に、最後の者が到着するのは、どう早くても午後6時過ぎぐらいになるはず。打ち上げ場所である地鶏屋”火の鳥”には、午後7時に時間厳守で予約を入れているため、午後6時過ぎまでランを行っていたのでは、時間がないために、ホテルへチェックインしてから、そのまま打ち上げ場所へ行かなければならなくなってしまうのだ。
汗をかいて汚れたままの服で、打ち上げを行うというのは、さすがに塾生達が気の毒である。せっかく最後まで頑張った塾生達を労うために打ち上げを行うのだから、塾生達には身も心もサッパリして打ち上げに参加してもらいたいものである。思いやりの無い私でも、そのような気持ちは持っていた。
塾生達を風呂に入らせるためには、最低でも午後5時半までに終わらせることが必須である。そのためには、距離を短縮するしかなかった。
だが、漢塾ラン大分編と銘打つ以上、今回がその最後である以上、大分市内には何が何でも入らなければならない。いくら妥協して距離を短くしても、そこは妥協できない。
そのため、大分市内に入ったばかりで、ゴールする場所に相応しく、しかもクルマを停めて待つことが出来る場所を探すことにした。
見つける
ひたすらに、クルマのメーターで距離を測りつつ、進行方向側にクルマを停める場所がないか探しながら走る。 あまり、その作業に集中し過ぎると、前方確認がおろそかになるので、注意が必要である。
しかし、途中で気付いた。別府市内でこのような作業をしても意味ないと。大分市内には、何が何でも入らなければならないのだから、このような作業は大分市内に入ってからやれば良いのだ。それに気付いてからは、その作業を止めた。そして、止めた時にふと気付いた。”猿山である高崎山は大分市だから、そこの駐車場をゴールにしてはどうか。”と。
ただし、高崎山と本来のゴール地点であるダイヤモンドフェリー乗り場との距離があまり離れてないと、時間があまり短縮できなくなる。1時間ほど時間を短縮するには、少なくとも5㎞以上は距離が離れてなければならない。 距離が短かったら、アウチ!また探さなければならなくなる。そのことがあったから、ドキドキしながらメーターを見て走った。
別府市内を抜け、海岸沿いをしばらく走ると、遠くに高崎山のパーキングと、その敷地にある建物が見えてきた。メーターの距離は、スタート地点から15㎞を越え、16㎞も越える。丁度16から17㎞になった時点が、駐車場の手前300m付近であった。 ここだと、22~23㎞-17㎞=5~6㎞の短縮となる。瞬時に幼稚園児でも出来る計算をやってのけ、”ここがゴールに最適だ!”ということで、迷うことなく駐車場に入って行った。
やられる
金を払い、駐車場にクルマを停める。それから、ゴールを変更したことを携帯電話で塾生達に伝える。幸いなことにも連絡がとれなかったのは、変態小野だけであった。塾生達は当分の間、ここへ来ることはないので、昼飯を食ってない私と末永さんは、何か食おうと、駐車場側にある”おさる館”へ入って行った。
このおさる館の1階部分は、みやげ物屋と飲食店のスペースとなっている。腹の減った私達は、さっそく飲食店に入った。
この飲食店、飲食店とは名ばかりで、メニューにあるのは甘味ばかりである。その中で、昼飯となりそうなものは、牛丼と焼きソバしかない。そこで、私は牛丼を末永さんは焼きソバを注文した。約5分後にテーブルの上に並んだ現物を見て愕然とした。どう見ても電子レンジでチンしただけのレトルト物であり、しかも値段の割に量が少ないのだ。
メニューを見た時から何も期待してなかったのだが、それでも、もしかしたら味は普通かもしれないと思い、一口頬張ってみた。すぐに私の表情は曇った。めちゃめちゃ不味かったのである。ご飯はベチャベチャだし、肉は硬くて臭くて殆ど味がしないしで、思わず吐き出しそうになった。一口食べただけで、食べることを止め、残そうかとも思った。だが、私は如何なる不味い食い物でも、出されたものを残したことはない。また、食べ物を粗末にしないというポリシーも持っている。そのことがあるから、泣く泣く残りの牛丼を無理やり胃袋にかき込んだ。食ったと言うよりは、飲み込んだと言った方が適切であろう。
昨年のアームレスリング大会の帰りに食って感動したカツ丼と肩を並べる不味さであり、そのインパクトの強さには、またもや感動した。で、肝心の末永さんの注文した焼きソバである。不味かったものの、私ほどのインパクトは無かったようだ。やはり焼きソバの方が無難だったかも?
インロック
昼飯を食って、みやげ物屋で買い物も済ませた私達は、走って来る塾生達の目に止まりやすい場所にクルマを移動させに駐車場に戻った。
まず、末永さんのクルマの中で談笑し、その後自分のクルマに戻ってクルマをお目当ての場所に移動させる。そして、移動が終わり、クルマの外に出る。いつもの癖で、ドアロックをし、そのロックが解除されないようにドアノブを上に押し上げたまま、ドアを閉めようとした時のこと。閉める途中でハンドルの下に、しっかりと刺さったままになっているキーが目に入り、”このままドアを閉めたらヤバい!”と、分かっていながらも、惰性でそのままドアを閉めてしまったのである。閉めた瞬間、”やってまったぁ!!”と思うも、後の祭り。
やってしまったものは、どうにもなるものではなかった。他のドアのロックが開いてないかを確かめるが、いつもはどこかが開いているはずのドアも、不幸なことに、この時はしっかりとロックされていた。しかし、分かっていながらも、何故そのままドアを閉めてしまったのか?途中で、手を止めることが面倒臭かったこともあるし、やってみたらどのような結果になるかを知りたかったというのもあるかもしれない。いずれも、表層意識下のことではなく、潜在意識下での考えであるが、一番の理由は、勢いを大切にしたかったからなのかもしれない。
“やったら大変なことになるけど、勢いでやっちゃえ~!”みたいな感じ。 おかげで、半分望んでいた通りの大変なことになった。
解決策
“やってしまったことは仕方がない。”と、事実を受け入れるまでに時間はかからなかった。半分望んでいただけに、瞬間的に焦りはしても、すぐに冷静になった。
で、問題は、これからどうするかだった。 とりあえずは、末永さんに、この事を報告した。
やはりというか、当然ながら末永さんも驚いていたが、末永さんは、「おさる館の事務所で、定規を借りてロックを外そうやぁ!」と、すぐに対応策を口に出された。
以前、私も下敷きで、ドアロックを解除したことがあるので、その案には賛成した。ドアロックは、ロックに繋がれたワイヤー若しくは部品を上に押し上げるか下に押し下げるかすれば、解除される。 定規があれば、どちらにも対応できるため、末永さんの案を聞いただけで、既に事が解決されたかのような気になった。
ただし、それは事務所に定規があったらのことであったが。
聞き込み
さっそくおさる館に入った私達は、その中に居たガードマンに、インロックしてしまったから、それを解除するために定規を貸してもらえないかと、尋ねた。それを聞いた一人の方が、外に誰かを呼びに行った。呼びに行って、連れて来たのは、おさる館の入口付近に立っていたガードマンのおじさんであった。
「ちょっと待っていてください。」と、そのガードマンのおじさんは言うと、急いで階段を駆け上がった。待つこと5分。戻ってきたおじさんが手にしていたのは、先をフック状に曲げた針金製のハンガーだった。「これを使ってやってみてください。」と言って、おじさんは私にそれを渡してくれた。
先がフック状に曲げられているため、ワイヤーを上に引っ張らなければならない場合は、この方が使いやすい。駐車場内で同じようなことが、これまでにあったからかもしれない。そのためかおじさんは、このような事態に慣れている感じだった。
助太刀
おじさんから貰ったハンガーを手に、自分のクルマが停めてある場所まで戻る。
しかし、何故かおじさんともう一人のガードマンがついて来る。その時は、”何でついてくるのかな?”ぐらいにしか思わなかったのだが、クルマまで戻ってから、その理由が分かった。 クルマに着くなり、おじさんは、「これがお客様のクルマですか。私がやってみましょう。」と言ってくれたのだ。どうやら、最初から、ドアロックの解除をしてくれるつもりだったみたいなのである。
ハンガーを貸してもらえただけでも有難いのに、そこまでやっていただいたら悪いと思いながらも、経験豊富なおじさんに甘えることにした。
ドアロックの解除は、助手席から行う。まず、窓ガラスとボディーの隙間にハンガーを入れようとするのだが、隙間が狭いためになかなかハンガーが隙間に入らない。そこで、私が窓ガラスを向こう側に割らない程度の力で押しつつ、ボディーの端を掴んで、手前に引っ張る。そうすることで、ハンガーが入る程度に隙間が広がったので、どうにかハンガーを入れることが出来た。 これで、”どうにかなる!”と思った。だが、事はそう簡単に運ばなかったのである。
解除
窓ガラスとボディーの隙間にハンガーを入れることが出来たものの、ハンガーを押せども引けども、ドアロックに繋がったワイヤー若しくは部品に、それが当たることはなかった。ハンガーを奥に突っ込んでもダメ、浅いところで押し引きしてもダメ。おじさんの手捌きは、慣れているためか、無駄がなく私よりも上手に違いなかったのだが、さすがにハンガーを入れてから10分以上も同じことを繰り返していると、”俺に代われ!”という気になる。
“もう結構ですから、後は私がやりますから。”と、言おうとしたその時である。おじさんが、「ここにあったんや!」と叫んだのだ。 見ると、ドアロックの頭の部分がヒクヒク動いて、今にも上に上がりそうになっている。
「おっ!おっ!おっ!」と、声を出しながら見守る私達の前で、「カチャッ!」と、音がして、ついにドアロックが解除されたのである。
作業開始してから、15分あまりのこと。私がおじさんと同じことをしたら、もっと時間がかかっていたかもしれないし、もしかしたら解除できなかったかもしれない。解除出来なかった場合は、カギ屋を呼ぶことも考えていたから、ドアロックを解除していただいたことは大変有難かった。
私には、見ず知らずの私のために勤務中にも関わらず、懸命に作業をしてくださったおじさんが神様のように思えた。
御礼
頭を下げて”有難うございました!本当に助かりました!”と、何度も何度も御礼の言葉を口に出す。それでも、自分の中の感謝の気持ちの半分も表現できてない。このような局面においては、自分の表現力のなさ、ボキャブラリーの少なさが腹立たしい。
そこで、表現できてない感謝の気持ちを少しでも補うために、それを代弁する品として、温かいコーヒーを差し上げた。もちろん、こんなことをしても残りの感謝の気持ち全てを表現できているわけではないが、それをすることで、いくらかでも私の気持ちは紛れたのであった。
それにしても、寒い中、自分のことのように懸命に作業してくれた、このおじさん達は素晴らしい。今時、このような人もいるのだ。おかげで、かなりの寒さにも関わらず、私の心もコーヒーの温かさに負けないくらいホットになっていた。
到着
おじさん達のおかげで、難局を切り抜けた私達は、末永さんのクルマの中で、そろそろ到着するであろう塾生達を待つ。
変態小野は、私達がおさる館で昼飯を食っている間に、ここを通り過ぎて本来のゴールであるダイヤモンドフェリー乗り場に到着したらしく、その旨の電話を貰っていたので、待つのはこいつを除く4人であった。
末永さんのクルマの中で待つこと25分。最初に現われたのは、達ちゃん。
2人とも距離が短くて物足りないのか、”もう着いたの?”というような感じで感動した様子でもなく、淡々とした様子であった。
姉御から遅れること15分。3番目に到着したのは、ぢよん○○であった。
こいつの参加はこの大分編が最後。最後の役目をキッチリ果たしたことが嬉しかったからか、ゴールした時は、体全体を使って喜びを表現していた。
そして、ぢよん○○のすぐ後に続いて現われたのが、ちゅうげんであった。
第三弾では、30㎞付近で屈辱のリタイヤ。第四弾では、見事完走を果たしたものの、燃え尽きてしまい、漢塾ランには二度と参加しないと宣言したのだが、私の説得もあってこの第六弾最終には参加したちゅうげん。距離は短かったが、見事自分なりの走りで完走し、漢塾ラン大分編を締めくくらせてくれた。
とにかく理論や理屈だけが先走って、行動に移すことが苦手なように見えるちゅうげんであるが、実はそんなことはないということを私は、これまでの付き合いを通して知っている。こいつは、やれば出来るし、こういう一見くだらないと思えることも、面白いと思える熱き心も持っている。それが証拠に、「次の長崎編はもうやりたくないやろ?」との私の問いに、「そんなことないで。日程が合えば、やれると思うよ。」と言っていた。ちゅうげんは、ランはもうお腹一杯であろうと思い込んでいた私にとって、その言葉は嬉しい言葉であった。そして、最後の最後をちゅうげんが締めくくってくれたことは、私にとって、更に嬉しいことであった。
ちゅうげんのゴールによって、漢塾ラン大分編を無事に締めくくることが出来た私達は、締めくくった喜びに浸るのもほどほどに、変態小野を救出しにダイヤモンドフェリー乗り場に向かった。
予定通り
最後のちゅうげんがゴールしたのは、午後5時ジャスト。どんなに遅くとも午後5時半までには、全員がゴールして欲しいと願っていたので、この終了時刻は予想外に上出来だった。
これで、ゆっくり風呂に入ってから打ち上げが出来ることとなった。
全ては、当初、私が思い描いていたプラン通りであった。 思えば、積雪や道路の凍結を見越して、出発時刻を1時間遅らせたことに始まり、宇佐市郊外で大渋滞に巻き込まれた際には、遠回りで2時間以上のタイムロスを余技なくされた。
しかし、このようなことをしなければ、とても目的地には到達できなかったであろうし、合計で3時間以上もラン開始の時間が遅れても、最後には終了予定時刻の枠の中で終わらせることが出来た。
プラン通りになったのには、姉御の天の声や、打ち上げに間に合わせようとする皆の頑張りというものが一番の要因である。でも、それだけではなく、私達を手助けするような、後押しするような力が働いていることを私は実際に何となく感じていた。
その一部には、アホの末をはじめとする、今回参加したくても一身上の都合で参加できなかった者や、これまでに参加した者達の”思い”があるのではないかと思った。あとは、それと・・・。いずれにせよ、私は参加出来なかった者達の、”最後までやりたい!”という執念にも似た”思い”に助けられたことは間違いないのである。
ランを終えて
“やっと、漢塾ラン大分編を終えることが出来た!”というのが、終わらせた時の感想である。
漢塾ラン大分編を始めてから、ここへ来るまで足掛け2年。結局、終わらせるまでに、漢塾ラン出雲編と同じぐらいの時間がかかってしまった。これは、参加者達の一人一人と、日程調整をしながら、ランを開催してきたことが原因である。これまでは、その時のことしか考えてなかったから、それで良かった。だが、途中から全国制覇に目標を切り替えたために、もうこれからは、これまでのやり方は出来ない。
よって、この漢塾ラン大分編が、これまでのやり方での最後のランとなる。その意味でも、今回のランは感慨深く、私にとっては特別なものになった。塾生達の走る姿をゴールでしか見てないために、ランのことは全く印象になく、強く残ったのは大渋滞のこととインロックのことになってしまったが、最後だけにそれも有りだろう。
来年私達は、吉田松陰先生の足跡を辿ることを目的に長崎まで行く。そして、再来年は、かなり間を飛ばして、飛行機でなければ行けないところへ行く。更にその次の年は、変態小野の生まれ故郷へ。更に更にその次は・・・。
終わらせられたことは嬉しいが、今回の漢塾ラン大分編は、全国制覇をするための足掛かりに過ぎない。まだまだ、これからが私達の旅の始まりなのである。
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