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- 2012年03月14日(水) ~ 2012年03月22日(木)
3/11 地震発生
平成23年3月11日 午後2時46分 宮城沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生。
そのことは、防災メールで知る。休憩所のテレビで人生初めての津波の映像を確認。ショックを受ける。その日は、職場の先輩の退職祝いの宴があったが、宴の間も後輩と地震のことばかり話していた。相当な被害地震なので、「どうにかしてでも災害支援をしに現地へ行こう!」と、仲の良い後輩と2人で話し合った。
3/12 発生2日目
職場の所属長より、自宅に電話あり。10日ぐらいの日程で、福島県の郡山市に萩市の災害支援に行ってくれないかとのこと。どうにかしてでも災害支援に行きたかったので、「渡りに船です。」と、即答OKする。
災害支援を話し合った後輩にも、派遣依頼があったらしく、当然ながらOKしたとのことだった。結局2人とも仲良く行けることとなった。
3/13 延期
萩市の水道局から派遣されるのは4人。本来は、この日に出発する予定ではあったが、携行物の準備に手間取り、翌日に出発が延期される。
3/14
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職場での壮行式
職場の仲間より、激励を受ける。このために1時間半も早く職場に来ていただけたのには感激した。 |
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災害派遣車
後部座席より後ろは、荷物がビッシリ積んであるため、2人乗り使用となっている。 |
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災害派遣車 給水車
下っ端の私と後輩が乗ったのは、こっち。走りが悪い、うるさい、乗り心地が悪いと、3拍子揃っていた。 |
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壮行式(市長)
市長より激励の言葉を受ける。”自分達は、いよいよ行くんだ。”という思いが強まる。 |
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(タイトル)
途中、滋賀県の大津市の警察署で緊急車両(高速道路が無料、ガソリンを優先的に給油できるなどの特典がある。)の手続きをしたために、午前12時まで走って辿り着けたのは、静岡県の牧ノ原市にある牧ノ原SAであった。ここで車中泊。座席が後ろに倒せずに直角なのと、寒さで殆ど眠ることが出来なかった。写真は、牧ノ原SAを出発した直後で、富士山の雄姿に感動していたところ。この頃は、まだ旅行気分であった。 |
3/15 退却
午前中には東京に入り、緊急車両しか走ることの出来ない東北自動車道に入る。埼玉県の蓮田SAにて昼食。
福島第一原発の2号機が爆発しそうだということで、ここで本部からの連絡を待つ。2時間ほど待ち、”行っても良い”との指示が出たので、郡山市に向けて出発。しかし、出発して30分も経たないうちに2号機から白煙が出たという情報が入ったため、本部より退却命令が出る。急いで高速道路を降りて、Uターンした。ある水道局は富山県や新潟県に逃げ、ある水道局は岩手県まで逃げた。私達が逃げた先は山梨県の甲府市であった。
このことで、旅行気分は全部吹き飛んだ。ハプニングはこれで終わらない。甲府市で泊まったホテルでの就寝中に富士山の直下10㎞を震源とする静岡県東部地震に遭遇する。
最大震度は富士宮市で震度6強。甲府市は富士山からかなり近いため、震度5強以上はあったものと思われる。揺れは1分以上続き、建物をかなりゆがませた。震度2~3程度の余震が朝まで続いたため、一睡も出来なかった。焦りで部屋から持ち物を一つも持って出られなかった反省から、次の日より、寝る時は作業着で貴重品を身に付け荷物をまとめてドアの前か体の横に置き、靴も履いたまま寝るようにした。また、避難路のチェックも忘れずにするようにした。
放射能の恐怖に地震の恐怖。同じ日に初めての恐怖を2度も体験した。
3/16 静岡県東部地震翌日
不安な夜を明かして、少しは安心できるかと思いきや午前7時から午前10時までの計画停電に遭遇。私は、停電になる寸前にトイレに入ったため、真っ暗になって周りが見えないわ、ポンプで水がくみ上げられないため水が流せないわで難儀した。
直近の原発トラブルのため、郡山市行きはなくなる。とりあえず、東京の某浄水場へ行き、そこで被災自治体からの応援要請を待つ。盛岡市と仙台市からオファーがあったが、どちらへ行くかの決定がなされなかったので、この日は東京で泊をとることになった。
東京も余震頻発中。不安で眠れなかった。
3/17
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各県の警察隊
朝一番に、本部より連絡があり、全水道の中国・四国支部は仙台市に行くことが決定。あるサービスエリアでの光景。何百台という警察車両や機動隊車両がパーキングを埋め尽くす。このサービスエリアは警察の集合地のようであった。ちなみに次に止まったサービスエリアは自衛隊の集合場所であった。 |
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消防車の群れ
あるサービスエリアでの光景。ここは、消防隊の集合地であった。パーキングを埋め尽くす赤の車の群れ。 |
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仙台入り
萩から緊急時に備えてガソリンや食料は持参していたが、仙台市内ではガソリンも食料も不足しているとの情報を受け、サービスエリアで補給することに。だが、ガソリンは一台につき2,000円分までしか給油できず、また、食料については先客が買い占めていたために土産物の箱菓子しか購入することが出来なかった。仙台市内までは、何㎞も緊急車両の非常灯の点滅が続く。普段はまず見る事のできない光景。”これは有事だ!”という思いが強くなる。 |
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仙台入り
萩を出発して4日目にようやく災害支援地に入ることができた。到着したばかりの中国・四国支部の面々。この部屋で食うこと、寝ること、会議の全てを行う。決して狭くはないが、大の男60人が寝るにはスぺース不足である。全員が寝転がると、足の踏み場もないほど。おまけに床が固いので、寝袋に入ってもかなり寝心地が悪かった。また、ここ仙台市も東京や山梨と同じく、何分おきかに震度2~3程度の地震が頻発していた。そのことは私を不安にさせた。 |
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担当者
仙台市水道局の担当者。ここまで来た私達を労うどころか、「仕方なく受け入れてやった。」とも受け取れるような発言をしたので、腹が立った。この言葉には他の水道局の方もカチンときたらしく、担当者には多くの者から厳しい言葉が浴びせられた。焦った担当者は、急いで言葉を修正していた。 |
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災害対策本部
仙台市の災害時の連携をとる自治体である名古屋市と神戸市と札幌市で構成する仙台市災害対策本部。広い部屋には椅子や机やパソコンまであった。中国・四国支部の事務室とは大違いである。 |
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浄水場
黒板を見ると、仙台市には4つの浄水場と1つの広域水道があることが分かる。幸いにも停電により送水が出来なくなっただけで、施設そのものに被害は少なかった。配水量(取水した水を不純物除去、塩素処理して配水管に送水する量)は常時より少ないながらも、3/17には稼動していた。 |
3/18
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仙台市水道局
仙台市水道局は津波被害があった海岸沿いの若林区からは、直線距離で2㎞ぐらいしか離れてない。屋上からは、海岸や砂浜がよく見える。この時は、亡くなられた方の死体の収容が行われてなかったため、海岸や砂浜には無数の死体が散乱していたままだった。ラジオやテレビから聞こえた情報によると、それは1000体以上とのこと。見えやしないが、自分の見ている景色の中にそれだけの方々が眠っておられると思うと、やるせない気持ちになった。 |
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(朝のミーティング)
萩を出発して5日目で、ようやく災害支援活動が始まる。浄水場で水を給水車のタンクに積んで、給水場所に運び、そこで給水を行うというのが作業の一連の流れ。知らない土地であるため、誰もが当日の給水場所と最寄の浄水場の位置の説明を食い入るように聞いていた。 |
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代表者会議
全水道山口県支部(中国・四国支部の下部組織である県の支部)の代表者会議。この日は、青葉区が山口県支部に割り当てられた。そのエリアの中の給水場所を県支部の各水道局に割り当てるのが会議の主な目的である。 |
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災害対策本部 起動中
忙しく動き回る災害対策本部。ここの職員(名古屋市、神戸市、札幌市)は、私達(中国・四国支部)や仙台市のような給水作業は行わない。行うのは、仙台市内の何千箇所にも及ぶ破損埋設管の業者への修繕依頼や、それに要する材料の調達、水道施設(埋設管、浄水場、貯水池)を完全復旧するためのシュミレーションである。 |
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緑ヶ丘コミュニティーセンター
私達が、仙台市で初めて給水作業を行った場所である緑ヶ丘コミュニティーセンター。現地に到着した時は、多くの方々に拍手で迎えられた。この辺りは、地震被害は少ないように見えたが、壁が崩れたり、地面が割れたりしている箇所がところどころにあった。萩市と周南市で給水作業を行うも、あまりの人の多さにタンクはすぐに空になり、何度も浄水場と現地を往復することになった。 |
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給水中
給水に来られる方々が持参する給水用の容器は、ペットボトル、ポリタンク、大きなヤカンや鍋など。なかには、小型のリヤカーで大きな樽を持って来られた方もいた。 |
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被害建物
歪んだ建物。その影響で、窓ガラスが割れている。仙台市内には殆ど被害建物は見受けられなかったが、たまにこういうのを目にすることがあった。 |
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記念撮影
緑ヶ丘町内会の方々と記念撮影。「遠くから我々のために来てくれて有難う!」と、何度も何度も言われた。この方々は終日私達の作業の手伝いをしてくれたり、食料を調達できないで困っているにも関わらず、貴重な食料を私達に差し入れてくれたりもした。有難うと言わなければならないのは、私達の方であった。 |
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老人ホームにて給水
この日の夕方より、老人ホームへ給水に行く。この時、気温は既に氷点下。仙台市は、風が強いため、雪は積もるほど降らないものの、気温はかなり下がるとのことであった。 |
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受水タンクに給水
受水タンクは地上より10mほど低いところに設置してあった。受水タンクの入水口は下から4mの高さにある。地上とタンクの入水口までの落差は6m。それだけの落差があるとホースが折れて水の出が悪くなるため、下から竹竿でホースを上に押し上げながらの作業となった。おまけに受水タンクが大きいため、何度も往復をするはめに。この作業は夜中まで続いた。 |
3/19
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災害対策本部の全体会議
災害対策本部の全体会議は朝の5時半に始まる。その会議での決定事項を受け、午前6時より中国・四国支部の会議を行う。これが翌日からは30分早くなったため、午前3時半に起床しなければならなくなった。 |
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中国・四国支部 朝会議
会議の担当者は、下関水道局の方。その日の給水場所や日程などを説明するので、誰もが食い入るように集中して担当者の話を聞く。39年生きてきて、こんなに誰もが熱心に聞く会議は初めてだった。 |
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高森6丁目公会堂
この日の給水場所は、高森6丁目の公会堂であった。高森6丁目がある住宅地は山を何個か切り開いて造成したもの。この住宅地の人口は3万人とも4万人とも。萩市の人口とあまり変わらない住宅地の規模には驚いた。公会堂の入口のドアには、”ここは、福島第一原発より直線距離で105㎞離れているから大丈夫です。”という貼り紙が貼ってあった。 |
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国見浄水場
私達が何十回と給水場所と往復した国見浄水場。ここの浄水場は奇跡的に地震被害から免れ、まったくの無傷であった。 |
3/20
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セッティング
給水タンクに一度に6人までが給水できる特製のホースを取り付け、雨でも給水できるようテントを設置し、給水に来られる方々を待つ様子。ここの方々にも大変お世話になった。作業の手伝い、感謝の言葉、労いの言葉、自分達の食べるものさえ不足している中での食べ物の差し入れ。一番困っているのは自分達のはずなのに、「あまり食べてないんでしょう、体は大丈夫!朝早くから夜遅くまで大変ですね。」などと、逆に私達を心配していただいた。その心遣いには目頭を熱くさせられた。 |
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地割れ
地震の威力を見せつける地割れ。こんなのが至る所にあった。ここで、初めて「ゴゴゴゴゴーォッ!」という地鳴りの音を聞いた。地の底から重低音で響く地鳴りの音は、聞くと「デカいのがくるんじゃないか!」と、不安な気持ちになる。ここの人は「こんなの毎日しょっちゅうよ!」と慣れた様子だった。 |
3/21
朝早くから何㎞にも及ぶクルマの列。中には誰も乗ってない。何のことかと思ったら、クルマの列の先頭がガソリンスタンド前で止まっていたので分かった。これはガソリンの給油待ちの列であった。ガソリンを給油するために前日から並んでいるのだ。中に人がいないのは、ガソリンスタンドの営業終了時に家に帰ったからである。順番をキープするためにクルマを置いたままにしているのだ。しかし、営業開始時間までに戻ってこなければならないのは面倒臭い。戻ったとしても給油できるという保障も無い。
これを見て、クルマなんてガソリンが無ければただの鉄の塊であるという思いに捉われた。
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西勝山町
最後の給水場所となった西勝山町の一角。愛媛県鬼北町の方と一緒に給水作業をすることとなった。萩市の知名度は仙台市でも高かった。だが、鬼北町の職員の方は所在する県名が分からないのはまだしも、町の読み方をよく間違えられると、知名度の低さを嘆いておられた。 |
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給水風景
鬼北町は給水車を所有してないので、わざわざユニック車とタンクをレンタルされていた。ところが、大きいタンクが3つもあるのに、給水するためのホースは1本しかないので、給水作業の効率が非常に悪かった。そのため、鬼北町の職員の方は私達の一度に6人まで給水できる秘密兵器には、しきりに感心しておられた。 |
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お知らせ
この給水場所では、黒板により町内の方々に給水時間などを周知しておられた。おかげで、給水車が補給に行っている間に給水に来られた方が待たされるのは避けられた。 |
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崩壊壁
給水作業現場近くにあった崩れた壁。一見、何も被害が無いように見えても、やはり何らかの被害はある。マグニチュード9.0の威力は半端ではない。 |
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夜間作業
夜間作業は、暗い、寒い、キツいの3拍子揃っている。この日は、早めの午後9時に給水作業を終えた。この町内の方々からもたくさんの感謝の言葉や励まし、気遣いの言葉、食べものなどをいただいた。目頭が熱くなりっぱなしだった。その後、午後10時に仙台市水道局に帰り→午後10時半からミーティング→午後11時に食事→午後12時に就寝という流れである。 |
3/22
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活動最終日
この日は給水作業は行わず、午前中は私達の宿泊先である名取市のホテル周辺の視察と午後からは最終宿泊先である東京への移動を行った。ホテルから南へ2㎞ほど移動した場所で目にした警察による遺体捜索活動。目視だけで捜索しているように見えた。 |
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がれき
辺り一面、凄まじい量のがれきが散乱。クルマも土もタイヤも木片もプラスチックも何もかもが混在していた。 |
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遺体捜索
警察と自衛隊による遺体捜索。小さいガレキは手作業で、大きいガレキは重機で運び出す。圧倒的なガレキの量と、それに対する捜索隊の人数不足から作業は難航しているように見えた。 |
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ガレキの海
この広大なガレキの海の中には、何十~何百名かの遺体が存在しているものと思われるが、津波経験者に聞いた話によると、原形をとどめているものは少ないであろうとのこと。水の中では鉄の塊や木片、コンクリートの塊などともみくちゃにされながら流されるため、バラバラかミンチ状態になるらしい。そのようなものは遺体と認識できないため、死亡者にも行方不明者の数にも入らない。実際に本当の死亡数というのは分からないとのこと。 |
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土埃
津波で流された路上の土が乾燥して、クルマで走ると視界を遮るほどの土煙が舞った。これを吸い込まないようにするため、ここでもマスクは必需品だった。 |
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慰霊
橋の残った部分に括りつけられた花束。慰霊の意味があるのだろう。 |
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宿泊先
仙台市水道局の休憩所が寝心地が悪いため、そこを脱出して3日間ほどお世話になったホテル。普通のビジネスホテルだが、この時は災害支援関係者で満室であった。朝の6時から無料バイキングがあるのだが、私達はいつもここを朝の4時に出発していたので、これにありつくことはなかった。このホテルの周辺は津波の被害は無いのだが、近くに遺体安置所の施設が何ヵ所かあったり地震で壊れた建物があったりして、異様な雰囲気が漂っていた。ちなみに遺体安置所への案内看板には”ご遺体安置所”と書いてあった。体育館やボーリング場などの大きい施設が臨時的に遺体安置所となっていた。 |
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隣の集落
高速道路を挟んだ反対側の集落。距離は被災集落と何百mしか離れてないにも関わらず、殆ど無傷であった。被災集落と高速道路で分断されているため、その高速道路が防波堤の役割を果たしたのではないかとのことだった。 |
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無傷
ガレキの海の中にあって奇跡的にも無傷の家。近寄ってみたが、家の中や敷地内にガレキや海水が浸入した形跡はなかった。周りとの高さも同じなので、無傷である理由が分からない。奇跡としか言いようがない。 |
東京へ~帰路
視察を終え、仙台市水道局に給水車を残して一台のクルマで一路東京へ。この日は、東京の池袋サンシャイン60というホテルに泊まり、次の派遣隊に引継ぎをして翌日新幹線で帰路に着くという行程であった。
だが、この行程になるには結構すったもんだあったのだ。この頃、余震は頻発しており、東北・関東はいつ巨大地震の第二波が来てもおかしくない状態であった。それでも、本部は東京で次の派遣隊に引継ぎを命令したのだ。
高いビルに囲まれ、人やモノで混み合った東京で第二波に遭遇したら逃げ場はない。そのため、私達は日本海側の都市か、もしくはこれで災害派遣を終えて、日本海側よりクルマで帰ることを提案した。決死の提案ではあったが、それは却下されたため、結局東京で引継ぎをするハメになったのだ。
私達が泊まったのは、ホテルの地上38階部分。何かあった時は、エレベーターは止まるし、非常階段を下りるにも時間がかかり過ぎるため、抗うのを止め、命を天に預けることにした。終始、揺れっぱなしで生きた心地はしなかったが、幸いにも何事もなく無事に家に辿り着くことが出来た。
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