あれから

今尾親からの電話で目が覚めた。時刻は、午前7時頃。当時、堕落大学生であった私には、早過ぎる時刻の電話だった。

電話の向こうの親父の第一声は、「お前、大丈夫か!」だった。「何が大丈夫なんか!」と、すぐさま返した。

「お前、知らんのか。すぐにテレビを見てみい!」面倒臭ぇ!と思いながらも、渋々とテレビをつけた。

刹那、私の目に飛び込んできたのは、「なんじゃこりゃあっ!」と吠えたくなる風景だった。ヘリコプターから撮っているビルや高速道路が倒壊し、街の至るところから煙が出ている映像。まるで、映画やドラマの中のような世界。現実世界とは思えなかった。

脳が完全に作動してないながらも、何が起こったかを悟るまでには時間を要しなかった。レポーターが何が起こったかを教えてくれたからだ。

この日の午前5時46分に淡路島北部を震源とする巨大地震が起こったのだ。それで、親が私の安否を気遣い、電話をしてきたというわけである。

私が住んでいた愛知県豊橋市も幾らか揺れたらしいのだが、睡眠中でも敏感な私が気付かないぐらいだから大したことはなかった。

「俺は大丈夫。」とだけ言って電話を切った。それからすぐに動いた。まず、神戸の大学に在学している友人の浜ピーに電話をした。

浜ピーは、この震災で一番被害の酷かった長田区に住んでいた。当時は、携帯電話はまだ普及してなかったから、電話をかけるのは家電にであった。浜ピーは電話に出なかった。“電話に出んわ”などと、くだらない駄洒落を言っている場合ではなかった。

電話線が断線しているか、焼失しているからか。当然考えつくことであったが、こいつの安否が気になり、電話をかけずにはいられなかったのだ。

仕方なしに、浜ピーの実家に電話をし、「もし浜ピーからそちらに電話があったら私にも連絡するよう言ってもらっていいですか。」と、浜ピーの母親に言付けた。

おそらく、こいつのことだから大丈夫だろうとは思っていたが、高校の時はいつも行動を共にしていたダチだったので、もし死んだら葬式ぐらいには出てやろうと思っていた。

幸いなことにこいつの安否は2~3日してから、こいつからの電話で確認できた。

浜ピーは、一軒の家を1階と2階とに分けた、築50年くらいの縦に細長い借家の2階に住んでいた。まず1階が2階の重さで完全に潰れたことにより、1階の住人が即死したという。そして、すぐに2階も倒壊しようかというそのギリギリ直前に外に飛び出て命を拾うという奇跡的な避難を成し遂げていた。

それからは、道路が崩壊もしくは、倒壊した建物で塞がれていたり、大規模な火事でまともに街中を通行出来なかったため、線路を歩いてバイト先まで避難し、そこにしばらく身を寄せたという。

こいつからの衝撃的な知らせに安堵し、そして一生に一度あるかないかの稀有な体験談に不謹慎ながらも胸を躍らせた。その後こいつは結婚し、子供も2人授かり、幸せな生活を送っているように見えるが、それも命を拾ったおかげである。

いつもこの時期が来ると思い出すことだ。

次に、すぐに大学へ行った。同じゼミの同僚のハラボーに会いに行ったのだ。

こいつは、神戸市北区の出身である。おそらく家族の安否を心配しているであろうから、何かの支えになってやろうと思っての行動だった。食堂や生協のある学生会館内は、いつになく人でごった返していた。

何台かある公衆電話の前には人の列が出来ていた。皆、考えることは同じ。非常時にはこうなるのだ。

食堂で朝飯を食いながら私達は話をした。やはり、実家に電話はつながらなかったとのことだった。

いつもは、チャラチャラした態度のこいつも、今まで見たことないような神妙な態度だった。おまけに涙ぐんでいた。

他人の不幸が好きな私もこの時ばかりは、こいつをからかう気にはなれなかった。それから夕方まで、ハラボーは、公衆電話から何度も実家に電話をしたが、電話がつながることはなかった。

状況が動いたのは翌日だった。ハラボーのアパートに親から電話がかかったのだ。神戸市北区は、比較的被害が少なかったらしく、家族は全員無事で、家も一部損壊程度で済んだとのことだった。

私に嬉しそうにそのことを伝えた時のハラボーの表情は、忘れられない。憑き物が落ちたかのようなスッキリした表情をしていたからだ。このような時は、友人のことも心配になるが、家族のことはもっと心配になるだろう。こいつのことは、他人事には思えなかった。

こいつとは、あれから音信不通。今も元気に生きていれば、それで良いのだが。

震災でいろいろなことを間接的に経験した私は、今自分に何が出来るかを考えた。ボランティアで現地に入ることも一瞬考えたが、それはすぐに頭の中から消し去った。何をすべきか分ってない者が勢いだけで、現地に入っても何の役にも立たないと思ったからだ。悩んで悩んで、悩みあげた挙句、辿り着いたのは、間接的にでもこの経験したことを“忘れない”ということだった。

“忘れない”

このことは、それから16年後の東日本大震災への災害復興支援に繋がった。職場の退職者のお別れ会の席で見た津波の衝撃的映像を見て、すぐに“行かねば!”と思った。思ったことは、すぐに現実となった。

現地では、感動の体験も恐怖の体験も、そしてこれまで自分が持っていた価値観を全て覆されるような体験もした。このことにより、“生”と“死”ということをこれまでよりも、より深く考えるようになった。

生と死といえば、宗教的だがそうではない。今生きている以上、いずれは誰もが死ぬ以上、誰にも関わりがあり誰もが考えるであろうことだ。

これについては、どんなに考えても経験を積んでも絶対的な答えなど与えられるはずもなく、私が真っ先に飛びついたのは、とにかく“今ある命を守る”という考えだった。

“命を守る”というのは、防災の基本である。

来たるべき災害に備え、正しい行動をとれば、失わずに済む命もある。これに関わる仕事に就けているのは、光栄であるし、また“やらなければ!”という使命感も大いにある。

私のこれまで20年の人生の流れの根底には、阪神淡路大震災が大きく座している。今があるのは、この経験を忘れてないからだ。今後、自分がどこへ行くかは神のみぞ知るだが、間違いなくこれが死ぬまで付いてまわるだろう。

あれから20年。

忘れるどころか、以後の経験というフィルターを通して、これに対する思いはますます強まっている。

 

 


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