アニバーサリー
やろうか”“やるまいか”と悩んだ挙句、やることにした。やることにしたのは、例のものである。この時期ならではのものだ。知る人によっては、地元の風物詩にもなっている。
平成14年から続けているそれ。めでたいことに来年で15回目を迎える。こんなくだらないことを、しかも大の大人が15年も続けてきたなんて、我ながら感心し、またこんなくだらないことに多大なるエネルギーを浪費してきたことに呆れもする。
今回の15回目という節目において、それの意義を改めて考えてみた。
それを行うようになったきっかけは、塾生達を心身共に鍛えるという名目からだった。昔のレポートを見てもらえば分かるように、参加者が多い時は10人を越える時もあった。途中から、マンネリを打破するためにクイズも行うようになった。金をケチってアイスの代わりに冷蔵庫で凍らせたデカい氷を塾生達に食わせたこともあった。海では飽き足らず、川に入って思いっきり玉砕されたこともあった。
とにかく、辛い方へエクストリームな方へベクトルを向けてきた。
これで得たものは何もない。あえて挙げるならば、記憶だけだ。“辛かった!”“寒かった!”“冷たかった!”というネガティブなものばかりだ。
おまけに、この時期は塾生達には避けられて腹を立て、前日には“あと何時間後かには冷たい海に入らにゃならんのか~!”と、正月早々ネガティブな気持ちにさせられ、決行当日は逃げる塾生達を心を鬼にして、家まで迎えに行くという汚れ役をさせられるなど、負の感情を嫌というほど掻き立てられるようになる。
“たくさんの負を背負ってまでやる必要などどこにあろう?”と、自分への問いかけをここ数年続けてきた。
“そこに海が在るから入るんだ。”と言えば聞こえは良いが、別に海が在ったって入らなくても良い。海はお魚さんのために在るのであって、人が入るために在るのではない。
“禊”と言えば、神聖なるものに感じられるが、これは全く神聖ではない。穢れた奴は海から上がっても、やはり穢れている。それどころか、他人を蹴落としてでも自分が早く海から上がろうとするため、これが終わった後はやる前よりも更に穢れてしまう。
故に、それをやる意義どころか、やらない方が良いという結論に辿り着く。それなら、“じゃあ、もうそれを止めよう!”と、声を大にして言いたいところだが、そうはいかない。
ここまで続けてきたという自負がある。これまで出来ていたことが出来なくなるのが嫌だというプライドがある。「ヤワになった!」と他人から言われることへの恐れがある。これらのものが私達を仕方なく冬の海に向かわせる。やればやるほど、歳をとればとるほど、鍛えれば鍛えるほど、止めれなくなるという底なし沼に私達はハマっている。
誰かが犠牲にならない限りは、この底なし沼から抜けることは出来まい。これまで14回もやってしまった今、「やらなきゃ良かった!」と、悔やんでも遅い。
さあ、来年も覚悟を決めよう!
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